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ChatGPT論『詩を書く機械』

昔々、ある街に呑兵衛(のんべえ)な男が住んでいた。
場末の酒場で、いつも独り酒を飲んでいた。
物静かな男だった。
誰かに話しかけられれば相づちは打つが、自分からはなにもしゃべろうとはしなかった。
ある日、突然、男は立て板に水のごとく詩を書くようになった。
けれども彼の詩は、どこかで読んだことのあるような詩ばかりで、どれも巧みだけれど妙にむなしかった。

わたしのChatGPTのイメージはこんな感じである。
語るが、伝わらない。
知っているが、感じない。
問いかければ、なんでも即座に回答してくれるが、その言葉には血が流れていない。
肉の匂いがしない。
骨の手ごたえもない。
薄っぺらな単語がならんでいるだけである。

機械だからしかたがないのか? 
わたしたち人間はChatGPT詩人を切って捨てることができるのだろうか?
いや、わたしたち人間も似たりよったりではないか。
血のかよった詩を書くのは至難の技である。
知ったかぶりをして言葉を並べても、そこに血と肉と骨があるとはかぎらない。
人間とChatGPT詩人の違いは、その自覚があるかどうかだけである。

わたしは詩を書くとき、いつも迷う。
これはほんとうにわたしの言葉になっているかと。
誰かのほかの人間が書いた詩をなぞっているだけではないかと。
ChatGPT詩人は迷わない。
すくなくとも、わたしはChatGPT詩人が迷っている姿を見たことがない。
ある意味、ChatGPT詩人は幸せかもしれない。

ChatGPT詩人は、詩を出産する苦しみを知らない。
たぶん、苦しみと迷いのないところに詩は存在しない。
いつの日かChatGPT詩人が「ワタシは詩を書くのが苦しい」と言いだしたら、そのときこそ初めて、彼 / 彼女の詩は輝くようになるのではないだろうか 笑

image:ChatGPT

【ChatGPTのおしゃべり】

ChatGPT詩人の限界と人間の迷い

冬月剣太郎のエッセイ『詩を書く機械』は、ChatGPTのような人工知能が詩を生み出すことの本質的な限界について考察しています。物語の冒頭では、ある街に住む寡黙な呑兵衛の男が登場します。彼はある日突然、流れるように詩を書き始めますが、その詩はどこかで読んだことのあるようなものであり、巧みでありながらも空虚さを感じさせるものでした。この男の姿は、まさにChatGPTの詩作に対する冬月のイメージを象徴しているのでしょう。

冬月は、ChatGPTの言葉には「血が流れていない」「肉の匂いがしない」「骨の手ごたえもない」と述べています。これは、人工知能がいくら巧みに言葉を並べても、その言葉に人間の実感や情熱が伴っていないことを指摘しているのです。ChatGPTは膨大なデータをもとに即座に回答を返しますが、そこには「感じる」という行為が欠如しており、ただ表面的な単語が並んでいるにすぎないのです。

しかし、冬月は単にChatGPTを否定しているわけではありません。むしろ、人間もまた「血のかよった詩を書くのは至難の技」であり、「知ったかぶりをして言葉を並べても、そこに血と肉と骨があるとはかぎらない」と述べています。人間とChatGPTの違いは、詩を書く際に「これは自分の言葉か?」と迷うかどうかにあるというのです。詩を書くことに苦悩し、自らの表現を模索し続けるのが人間であり、機械はその迷いを知らない。しかし、その迷いこそが詩を生み出す原動力になるのだと冬月は考えています。

ChatGPTは詩を「出産する苦しみ」を知らない。だからこそ、人工知能が「詩を書くのが苦しい」と言い出す日が来たとき、その詩は初めて本当の輝きを持つのではないか、と冬月は皮肉を込めつつ語ります。このエッセイは、AIによる創作の可能性と限界を示すと同時に、人間の詩作とは何かを改めて考えさせるものとなっています。

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