62,63/101(xissa)

黒服がカラスに戻る朝


客商売をしていると時々泥水を浴びせられるような目に遭う。金を想ってたいがいのことはやり過ごすが、たまに口の中にまで泥をつっこまれることがある。今日がそうだった。いつまでもじゃりじゃりしていたら、大通りの向こうにある小ぎたないドブ池のことを思い出した。

池はこの町のど真ん中にあって、風向きによってどこでも泥と水のにおいがする。ここに来始めた頃には平気な顔で歩いている人たちが信じられなかったがそのうち慣れた。これに慣れたらおしまいだ、と思っていたのにあっさり慣れた。たまに今日みたいに正気に戻る。
仕事が終わるといつもまっすぐ駅に向かう。池は駅とは逆側だ。ぐちゃぐちゃな路地から出て整然とした大通りを渡るのは心身ともに非常に面倒だった。今日は裏口を出て逆に歩いた。まっすぐ帰って寝られる気もしなかった。

夜の間に蒸し上がった町はぼってりと不快だった。少し歩くだけでも水蒸気だか汗だかわからない膜が身体にまとわりつく。赤だったら引き返したかもしれない信号は目の前で変わり、足を止めるタイミングを失った。朝には少し間のある通りを渡って、風のない階段を上る。ここを上り切ればしょぼい池が見える。はずだった。眼下に池はなかった。池のあるべき場所にはこんもりと茂った森があった。

しなびたピンクの花びらがぼろぼろと落ち、残された花托が空を仰いでいる。ハスだ。カメラを持った人がうろうろしていたがまともな花がなかったらしく、すぐにいなくなった。ドブ池がいつの間にか観光名所になっている。盛りを過ぎて花は落ち、ばかみたいに大きな緑の葉が池をすっかり覆い隠していた。葉は何十も何百も好きなだけ伸び好きなだけ重なって狂ったように茂っている。微動だにしない巨大なそれらはおそろしいことに全部生きていて、ねっとりした空気の中で密かに息をしていた。意思も思考も感情もない、ただでかいだけの生命のかたまりが目の前にある。睨まれたように動けなくなって汗にじくじくまみれていた。

曇ったままだらだらと夜が明けセミが鳴き始めた。人通りが増える前に消える。身を投げることも叶わない池に背を向けた。花の咲くような場所に用はない。

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角氷からりころり

全くまわりに民家のない場所に住んでいたので夏休みのラジオ体操はひとりでやった。終わったら自分で出席カードにくまのスタンプを押した。7時になったらごはんを食べる。そのあと、アサガオとマリーゴールドに水をやった。どちらも雑誌のふろくにあった種だ。アサガオは知っていたがマリーゴールドは知らなかったので花が咲くのが楽しみだった。とても濃い、茶色に近いようなオレンジ色の花が咲いて、ゴールドじゃないと思った。アサガオは赤むらさきの花をつけた。花はすぐにしぼんでしまう。ぷつっと抜き取ってふくらませて遊んだ。

日記を書くのは好きだった。あとの宿題は面倒だった。自由工作はお習字を書いてすませた。

知らない子がふたり、一緒に遊ぼうとやってきた日があった。なぜこんな場所まで来たのかわからなかったが、うれしかったので持っていたおもちゃをたくさん出してきて遊んだ。おままごとをして、私がおかいものに行っている間にその子たちはいなくなっていた。おもちゃもなくなっていた。

朝、うんと早く目が覚めると裏の山に登った。ふかふかの腐葉土を踏みしめながら木の間から朝日がこぼれてくるのを見た。あまり色がなくてそこだけ明るくてきれいだった。鳥がたくさん鳴いていた。山に行く時にはいつもむらさき色の小さなフェルトのバッグを持っていて、同じ木の下で中に入っている飴を一つ食べた。

学校が始まると早起きしてもあそべない。9月の朝は時々びっくりするほどひんやりしていた。

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