78,79/101(xissa)

5分遅れた時計に慣れる


段差がありますので足元気をつけてくださいね、と注意を促されながら店内に入る。昔は回転レストランだったがすっかり動かなくなってしまって名残りの隙間とステンレスの縁取りが残っている。
回転レストランは1時間で1周していた。30分は鉄道や工場が見える海側の景色のいいところを廻り、残りの30分はなんということもない普通の住宅地を廻った。止まってしまった今は海側だけを使っているようだ。逆側は黄色いプラスチックのチェーンがかけてあって入れない。

このレストランが廻っている時に一度来たことがある。今みたいな中途半端な時間ではなくて、夜で、エレベーターが開いた途端に目の前に広がった光景に目を奪われた。透き通った窓いっぱいに町がきらきらと輝いていた。間接照明に照らされたテーブルは一つ一つ高価そうなすりガラスの衝立で仕切られて、ひとつひとつの個室に大きな花が飾られていた。お客もたくさんで静かに賑わっていた。
工場だらけのこの町は24時間当たり前のように稼働していた。製鉄所の煙突が水蒸気を噴き出し、夜の空はフレアスタックに染まっていた。工場の建物を縁取る白いライトが星座のようだった。長く続く電車のあかりがゆるいカーブを描きながら滲むように光る駅に吸い込まれていく。見下ろす町はどこまでも明るかった。知っている店を探し、見つけては嬉しかった。

17時をすっかり過ぎて見つけたランチサービス11時から17時までののぼりが気になっておもしろ半分にエレベーターに乗ったら、12階のレストランまで一気に上がってドアが開いてしまった。いきなり店だ。レジの横に、当店のローストビーフ丼がテレビで紹介されました、の写真付きのイーゼルがあった。奥の大きなガラス窓からは白茶けた夕方の空が見えた。

他にお客はいなかったのでいちばん眺めのいい真ん中のテーブルに着いた。細かい花柄のテーブルクロスの上に数枚のパウチされたメニューと水のグラスが置かれる。そんなに空腹ではなかったがローストビーフ丼を注文する。ランチは終わりましたがよろしいですか、と確認された。
ウエイトレスが下がってしまうとあたりに人の気配はなくなった。傷だらけのガラスの向こうはぼんやりと暮れている。工場の煙もない。建物の影がだんだん濃くなっていく。ゆっくりと明るさを失っていく町は瀕死の恐竜のような穏やかさだ。多分ここが廻っていたことなど知らない若いウエイトレスが素っ気なくローストビーフ丼を置いていった。しばらく半眼で擦り切れた絨毯など眺めていたようだが、思い出したように店内の照明をつけた。ぽつりぽつりと町にもあかりがともり始めた。

****************

バレないうちに帰りたい


1時間に2本くらいしかない電車を降りて、普通の町の、普通の住宅街を歩いている。アトリエを探していた。小さい頃使っていた筆箱についていたイラストを描いた人が住んでいるらしいのだ。

引っ越してきた町の駅に貼ってあったポスターで気づいた。デコラティブなドレスの、長いまつげに星いっぱいの瞳の女の子のまわりに、黄色やピンクの小花やリボンが描かれている。子猫や小鳥もいる。今どきっぽさはなく、大船町民祭りの語感にもマッチしていなかったが、その絵にはいくつもの流行を乗り越えてきた迫力があった。繊細な描き込みや軽やかな明るい色合いが目に新しく映って私は懐かしくその絵を見た。
ポスターを見るまではすっかり忘れていたそのイラストレーターのアトリエは、調べてみると私の町のそばにあった。この地の生まれらしい。見学自由。無料。月曜休み。電車を調べ、マップで当たりをつけて休日を待った。

アトリエは普通の民家だった。小さな木の札がかかっていなければ通り過ぎそうな家だった。木の札には「アトリエかおる」と書いてある。多分ここだ。入り口はどこだろう。木の札のかかった門をそっと開け、きょろきょろしながら玄関に進んだ。どこにもアトリエ入り口の案内はない。玄関には呼び鈴があるが、これは押してもいいものだろうか。もし普通に民家だったらどうしよう。ためしに音を立てないように慎重に玄関のノブを押してみた。開いた。普通の家の玄関だ。ひんやりとした匂いがした。靴箱の上にきっちり積まれたチラシがある。あかりはついていない。奥の窓から静かに日が差し込んでいた。そして壁にはたくさんの絵が飾ってあった。
こんにちわ、と声をかけたが返事はなかった。奥からうっすら人の声が聞こえる。呼び鈴を鳴らせばいいのだろうか。一度外に出て鳴らしてみる。しばらく待ったが誰も出てこなかった。玄関にはひしゃげたゴブラン織のスリッパが5足きちんと並べてあるから上がってもいいのだろう。おじゃまします、とひっそり声をかけて靴を脱いだ。
壁にはたくさんのおんなの子やお姫さまの絵が掛かっていた。様々な大きさで、様々なドレスを着て、あの特徴的な大きな目をこちらに投げていた。テーブルにはイラストの絵はがきがあって1枚150円で販売している。壁際にはイラストが使われた日用品や文房具がガラスのケースに入れて展示してあった。私の持っていた赤い筆箱もあった。私のランドセルに入っていたものが、きれいなままある。この絵に一目惚れして小学生の私はせがんで買ってもらった。お姫さまの絵を真似して描いて遊んでいた。瞳のグラデーションがきれいでいつまでも眺めていて、勉強しないなら取り上げるよ、と怒られたりもした。その甘やかされっぷりが懐かしい。学年が上がると缶のペンケースを持つようになり、赤い筆箱は気がつくとなくなっていた。これを買ってくれた母にも、時代にも社会にも、これでもかというくらい甘やかされた子供時代だった。もう手の届かないところにある。あの表面のビニールは触れるとぼろぼろと崩れるのだろう。

集中している間は忘れていたが、顔を上げると圧倒的に人の家だった。そしてやはり薄暗い。電気をつけてもいいだろうか。スイッチを入れてしまおうと壁に近づくと、奥の人の声が少し大きく聞こえた。かさかさした早口で何かを喋ってはかっかっかっと笑っている。男の人の声だった。振り返って絵を見た。もう一度見た。

いいなと思ったら応援しよう!

文芸ヌー
文芸ヌーは無料で読めるよ!でもお賽銭感覚でサポートしてくださると、地下ではたらくヌーたちが恩返しにあなたのしあわせを50秒間祈るよ。

この記事が参加している募集