36,37/101(xissa)
旨いが二度と作れない
人もすれ違えない細い階段を下った地下においしいタイ料理を食べられる店があった。何を食べてもおいしかったが、トムヤムクンの中に平たい麺の入ったランチは最高だった。あの辛いスープにレモンがどう効くのか、パクチーがどううまいのか、教えてくれたのは全部あの店だった。おいしいうえに安かった。タイ人の従業員たちとも顔見知りになって笑顔で迎えてくれるのもうれしかった。
ある日、そのトムヤムクンヌードルがおいしくなかった日があった。まあたまにはこんなこともあるさ、と思っていたら、次に行った時には店が閉まっていた。定休日でもないのに貼り紙も何もなくただ閉まっていた。しばらくして店の前を通ったら客らしい人が階段からぬっと出てきたので階段を降りていくと何事もなかったようにいつものウエイトレスがいらっしゃいませ、と笑顔でドアを開けてくれた。テーブルにつくと片言の日本語で「今日シェフがいないのでメニューがこれです」とちょっと困ったような顔で一枚の紙切れを差し出した。手書きのメニューは二種類しかなかった。トムヤムクンのヌードルはなかった。その日は卵と鳥を炒めたものをご飯と一緒に食べた。
慌ただしい3月をやり過ごして次に行った時もメニューは紙だった。ウエイトレスがすみませんと言いながら持ってきた焼き飯を食べた。めっきりお客が減っていた。活気のある店だったのになんだか薄暗くなったように感じた。サービスです、とアイスティーを持ってきてくれた。グラスの横に紫の花が添えられていた。
その後店が営業しているところを見たことがなかった。何のお知らせもないまま立看板は薄汚れ、土ぼこりで白くなった階段にはゴミが散らばっていた。その奥は真っ暗だった。
夏の始めのひどくむし暑い日、店の前の立看板が日差しにぴかぴかしていることに気がついた。あわてて近寄ったが新しい看板はレストランのものではなかった。タイ古式マッサージコップンカー。看板にはマッサージをしている女性の写真があった。あの時、すみません、と焼き飯を運んでくれたウエイトレスが笑顔で写っていた。馴染みになると店が潰れる。
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全部売り切れ
対向車線の女の子が歌っている。多分、同じラジオを聞いている。口の動きがこの歌だ。荒野に横たわるバイパスにはびっしり車が詰まっていた。ぼんやりと背中の方に陽が落ちて夜に向かって渋滞している。隣に座った彼女はさっきから一言も口をきかない。凍ったような顔で正面を向いて長く続く赤いテールランプを凝視している。僕も黙っている。空気が悪い責任を自分ひとりに押し付けられているようで口を開く気がしない。対向車線がじりじりと動き、流れ始めた。たららん、たららん。向かいの女の子はしあわせそうに歌いながら通り過ぎていく。僕らの車は少しも進まない。