干さオレ~四ツ谷怪談篇~(第七回)
文芸時評・1月 荒木優太
市川沙央の活躍がめざましい。『新潮』で『良心的兵役拒否』が連載開始。『文學界』に中編『女の子の背骨』が、小学館の新文芸誌『GОAT』には短編『音の心中』がそれぞれ掲載されている。『GОAT』は環境負荷に配慮した印刷用紙にこだわりつつも、「読書バリアフリーをめぐる旅」を小特集に構え、電子書籍やオーディオブックの刊行にも前向きに取り組んでおり、全体が『ハンチバック』の影響下にある。つい最近まで、島田雅彦『大転生時代』書評で披露された異世界転生ものの知識が薄っぺらと専門家連中から批判されていたわけだが、その健筆には素直にはげまされる。
ただ、個人的に市川の名はこれら創作活動よりも「LGBTQ+差別に反対する小説家の声明」に固く結びついている。トランスジェンダー追悼の日である一一月二〇日、特にトランスジェンダー差別の現状を憂慮した李琴峰、山内マリコ、柚木麻子らは賛同を示した小説家仲間とともに声明を発表した。起草経緯については『小説新潮』一二月号の三者による鼎談「信じられる居場所をもう一度」が詳しい。賛同者一覧のなかに市川の名前がある。
ひっかかりを感じたのは、先行する『文學界』五月号に発表された中編『オフィーリア23号』には「トランスジェンダリズム」の語があったからだ。該当箇所を引用する。
「ヴァイニンガーの『性と性格』は当時の社会や学術界で当然視されていた女性嫌悪の価値観を煮詰めたかたちで再確認しながらも、この本が広く知識人に読まれて興奮を与えたのは、第一部と最終部分が示す柔軟な性別概念の先進性においてだったと言われている。それはトランスジェンダリズムを先取りする思想でもあったということ」(一六五~一六六頁)
詳しい説明は後段に回す。「トランスジェンダリズム」の語はいまネット上、特に人権やジェンダー論に敏感な論者のあいだで、トランスヘイターたちが駆使する不安を煽るための陰謀論的用語として理解されている。トランスジェンダリズムの放縦を許せば女性スペースが脅かされる、といった用法だ。このような脅威の言葉を肯定的に用いるところに違和があったのだが、しかし、これは評者の早とちりで、もともと「トランスジェンダリズム」は普通に使われていた語彙らしく、実際、米沢泉美編著『トランスジェンダリズム宣言』(二〇〇三年)ではトランスジェンダー当事者である米沢が性別の自己決定権確立、戸籍制度廃止、住基ネット反対などを目標とする状態・運動の意として用いている。どうやら現在の忌言葉的な理解や反応は、歴史的というより、ヘイターたちの動きを牽制しようとする応急処置的な一手であるようだ。発表当時はどうも固有名の多い小説だなぐらいにしか受け取れなかったが、がぜん『オフィーリア23号』に興味がわいた。
オットー・ヴァイニンガーの生まれ変わりを自認し、その思想の布教をたくらむ女子大学生の藤井那緒は、恋人で劇団Glasperlenspielの主催者でもある南村和人の誘いにのって、三島由紀夫『憂国』映画化、という名目の同人AV撮影に出演することに決めた。医者の家に生まれ、経済的にはなに不自由なく育つも、DVとモラハラ気質の父親によって母親と兄の人格はゆがみ、当の娘は偏頭痛を抱え、神経症的な女性の象徴であるオフィーリア絵画のジグソーパズルを部屋に飾っている。ミレイの有名なやつだ。が、なぜだか最近彼女を直視できなくなってしまった。「女は存在しない」を筆頭としたヴァイニンガー語録をSNSで拡散させ、応答文をAIで自動生成する「オットー君Revival計画」進行と並行しながら、那緒は封印してきた家庭内暴力の過去と対峙する。表題の「23号」とは、『憂国』の麗子が二三歳、ピストル自殺したヴァイニンガーの享年が二三歳、藤井宅の住所が「一丁目7番23号」であったことなどにひっかけているようだ。
ヒトラーやウィトゲンシュタインに影響を与え、ベートーヴェン宅で自殺したユダヤ系哲学者、オットー・ヴァイニンガーの『性と性格』は、女性差別的な文句にあふれている。「女性は性欲以外の何ものでもなく、性欲そのものでしかない」などは可愛いもので、ページをめくるたび、女性がいかに論理的思考を欠き、性に支配され、倫理を解さないかが得々と語られる。なのに、というべきか、引用で指摘されたとおり、本書には性を男女二元論的に捉えない先駆的な発想も認められる。那緒はウィトゲンシュタインの研究をしながらAIコンサル企業で働く、おそらくはゲイの、美葉にヴァイニンガー計画のシステム面を一任しており、先の引用は生成された応答文に関する美葉の解説であった。本人の筆致でも語らせよう。
「われわれのもっとも関心のある人間についていえば、人間も完全な男性、完全な女性というものはあり得ず、〝性の中間形態〟をもつのみである。人類は、無数の性の中間段階から成り立っている。いいかえれば、典型としての男性と女性への無数の近似体から成り立っている」(ヴァイニンガー『性と性格』第一章、村松書館、竹内章訳、一八頁)
フェミニズムとトランスジェンダー権利運動の同居に慣れ親しんだ我々にとって、ここには大きな困惑の源泉がある。女性嫌悪とトランスジェンダリズムが一体になっているだって? 鍵になるのはヴァイニンガーの身体と心理の区別である。彼によると、生物学的にみれば男性と女性の身体のあいだには無限のグラデーションがあり、どの個体をとってみても他とまるで異なる性の割合をもっている。が、人間の心理は必ずや男か女のいずれかに帰着する。そして心や思想の面からみて、女性とは無である。つまり一般に信じられているのとは反対に、身体ではなく心理の方でこそ男女は相容れず、性の垣根は乗り越えられないとされるのだ。
トランスジェンダリズムの根底には女性嫌悪が、厳密にいえば女性心理嫌悪があるのかもしれない、とも『オフィーリア23号』は読める。アップデートされた認識の裏側には実は旧弊の男女観が張り付いているかもね、といった皮肉のような。少なくともヴァイニンガーにとって両者は矛盾なく両立している。
その真意をはかり切ることは難しいが、少なくとも小説が一方的に貶された女性心理に別種のポテンシャルを見出そうとしていることは確かだ。ヴァイニンガーは男女心理学のなかで記憶力に触れている。つまり、男性的天才はその記憶力のおかげで興味ある事柄ならなんでもすぐ思い出すことができ、生の持続性を手放さないでいられるが、反対に女性は人生を澱みない流れではなく、てんでばらばらな点として捉える。この刹那的性格が、対象や事物の同一性信仰を毀損させ、さらには同一律を解さない非論理性と結ばれる。ジグソーパズルを部屋に飾る那緒にとって正に記憶はばらばらに砕けうるものであって、作中の言葉でいえば「断片」的にならざるをえない。それはヴァイニンガーがいうように極めて「非在」的である。
が、断片は非在とは違う。なにかがある。なにかがなにかと結びつき、全体図を仄めかすピースであることを自己主張している。ために、小説は那緒の苦境を男性的記憶力で救わない。鴻巣友季子「鴻巣友季子の文学潮流(第13回)」(好書好日、五月二日公開)が小説の核心と呼ぶ、父による家庭内暴力を通報できなかった自責の念吐露のきっかけをつくったのは、記憶または想起ではなく、「小学生の女の子が、買い物で買ってくるものを間違えたお母さんがお父さんに殴られてるって警察に通報して、それで父親は逮捕されたっていう」ちょっと前に伝聞したニュースであった。兄がいうように時流の影響は大きく、一〇年前に同様の処置を警察がとったかどうかははなはだあやしい。時系列はめちゃくちゃだ。にも拘らず、那緒に動機づけを与えるのは報道や情報であり、それを元に膨らませた想像の一場面であった。
断片は、無力なオフィーリアにはまることも勇気ある少女の一部になることもできそうな未決状態にある。最終的に那緒はいくつかの全体に引かれる誘惑を断ち切って、断片を断片のままに抱える永遠の宙づりを受け入れる。それを心の中間形態と呼ぶのは誤読だろうか。身体と心理の区別でもって安心を得たヴァイニンガーの不徹底を、いわば女性の無記憶を逆手にとって全貌知らずの不穏な縁へと導くことで、心すらも中間性原理で飲み込む怪物創造でもって迎え撃つような。そう考えると、『オフィーリア23号』はトランスジェンダリズムの徹底だけが大事なのだ(ところで徹底させる気ありますか?)、と問うているのかもしれない。ならば署名して当然か。同じ調子で、高橋若木「「『情況』に関する声明」についての個人的コメント」(medium)に反して、『情況』トランスジェンダー特集号批判の声明に絓秀実の名があることについてもよくよく考えてみたいのだが、もうすでに長尺極まりないわけで、これは別の機会に。
今月は軽出版『文芸時評傑作選~炎上の炎に焼かれてアチチの巻~』の刊行でずっとバタバタしていた。頑張ったし、いい本に仕上がったと自負している。買っておくれよ。
▶荒木優太。在野研究者。1987年生まれ。著書に『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍)、『貧しい出版者』(フィルムアート社)、『仮説的偶然文学論』(月曜社)など。近刊に『文芸時評傑作選~炎上の炎に焼かれてアチチの巻~』(在野研究社)がある。