再魔術化するテクスト──カルトとスピリチュアルの時代の文化批評
第二回 カルトはわたしたちの間に(1) 倉数茂
0 カルトと日本社会
2022年7月8日に起きた、安倍元首相暗殺事件は日本を震撼させました。安倍氏は、日本憲政史上最長の総理大臣をつとめた政界の最大実力者であり、国民からの評価も二分される2010年代を象徴する人物だったからです。しかし人々を驚かせたのは、暗殺事件そのものばかりではありませんでした。続報で、この殺人が政治的動機に発するものではなく、宗教二世による犯行だと明らかになったからです。山上徹也容疑者の母親は「統一教会」(現在の公式名称は「 世界平和統一家庭連合」ですが、ここでは統一教会という名称を使用します)の熱心な信者として、教団に多額の献金を行ったうえに、家族を顧みず、結果として容疑者の家庭と未来を回復不可能なまでに荒廃させたのでした。しかしその意外性の裏側で、実は多くの人がある種の得心も覚えていたのではないでしょうか。1990年代、芸能人の合同結婚をめぐるワイドショーの狂騒によって、そして大学内で活動する学生サークル「原理研究会」によって、統一教会の危険性は広く認知されていましたし、95年に起こったオウム真理教の地下鉄サリン事件は犯罪史上に特筆される出来事でした。つまり、カルト教団の危険性は、前世紀末に強く刷り込まれ、誰もが了解している事実のはずでした。日本にはカルトがある、カルトは今この瞬間にもひそやかで執拗な活動を続けている。にもかかわらず我々は長らくそのことを忘れてしまっていた、そういう感慨を抱いた人は少なくなかったものと思われます。
では、どうしてカルトの危険性は忘却されていたのでしょうか?
ひとつにはカルト教団自体が、地下鉄サリン事件以降、それまでと違って目立たぬように振る舞い出したということがあります。前世紀、カルトの活動はもっと華々しいものでした。しかし統一教会も、2015年に「世界平和統一家庭連合」と名前を変え(注1)、外部に向けての霊感商法は控えめにしていた模様です。
さらにこれはカルト教団に限ったことではないですが、宗教団体の信者数はここ20年ほど減少しています。幕末からの老舗新宗教の天理教も、戦後拡大した立正佼成会やパーフェクトリバティーも信者数を激減させています。新規入信者が減り、二世への信仰継承もうまくいっていません。ほとんどの宗教団体は縮小トレンドにあります。
しかしながら、山上徹也の事件が明るみに出したのは、信者数としてはそれほどでもなくても、現在も日本ではカルト教団が活発に活動し、あまつさえ、政府与党と緊密な関係にあるということでした。そしてそれとは別に破壊された宗教二世(・三世)の人生という重い負債も残っています。つまり、カルトは決して過去のものになっていなかったのです。
これから「カルトはわたしたちの間に」と題して、3回にわたって、カルト問題を我が国の近代宗教史に位置付けてみたいと思います。カルトがどのように発生し、どのような帰結をもたらしたかを理解する必要があると考えるからです。
第一回目の今回は、新宗教と新新宗教の違いについて検討します。カルトについて論ずるにあたっての準備運動とお考えください。
1 オウム真理教の衝撃
「カルト」という言葉を使うとき、日本人はオウム真理教のことを思い出さずにはいられません。それくらいオウムの事件は決定的であり、宗教のネガティブなイメージを輪郭づけるものでした。そこでまずオウム真理教について簡単におさらいしておきましょう。
1980年代に麻原彰晃(本名松本智津夫)によって設立されたヨガ教室に始まるオウム真理教は、クンダリーニによる超能力開発を売り物に信者数を増やし、やがて「出家」信者をサティアンと呼ばれる教団施設に集団居住させて「ワーク」と呼ばれる作業に従事させるようになりました。国家内国家とも言える組織を確立した教団は、対立していた坂本堤弁護士一家を殺害するなど複数の殺人事件を起こしつつ、近いうちに「ハルマゲドン」が訪れるという考えのもと、教団の武装化を進め、化学兵器サリンガスの製造に成功します。そして1994年には7人の死者を出した松本サリン事件、1995年3月20日には東京の複数の地下鉄でサリンを散布し、死者12人、重軽傷者約3800人という地下鉄サリン事件を引き起こします。
麻原彰晃は逮捕され2018年に12人の教団幹部とともに死刑執行されています。裁判の途中から、麻原は意味不明の言動を繰り返すようになってまともな証言を行えず──詐病説も根強い──、その結果、今も事件の全貌は未解明のままです。
オウム真理教をはじめ、当時のカルト教団に顕著な振る舞いとして、複数のメディアを駆使して、自分たちを派手にショウアップしていたことが挙げられます。現在の過激な新新宗教が、メディアの追及を恐れて目立たぬよう潜航しているのとは対照的です。オウムや法の華三法行は自前の出版部門を持ち、教祖の本を立て続けに出しました。麻原彰晃が『朝まで生テレビ』に出演して、文化人たちと討論してみせたことは教団の知名度を上げるのに大いに役立ちました。当時カルト教団の奇異で極端な教えは、70年代からのオカルトブームの延長として意識的に「おもしろ」がられていたといえます。
地下鉄サリン事件以降次々に明らかになったオウム真理教の凄惨な実態が与えた衝撃は、筆者の考えでは二つに分けられます。
ひとつは、信者の中に自分に似たものを見出し、もしかしたら自分もあの一人になっていたかもしれないという感じ方です。信者たちには知的で生真面目な若者が多く、決して特殊な思想の持ち主でも社会脱落者でもありませんでした。精神世界やオカルトに関心を持っていた若い世代にとって、信者の姿は他人事ではありませんでした。当時10代から20代で、思想や哲学に興味があり、社会に居場所がないという思いを抱えていた若者なら信者に自分自身ではなくても隣人の姿を認めるのは容易でした。
もうひとつ、より広い層に衝撃を与えたのは、日本社会の内部にかくも異様で過激な世界観を持った人間が多数いた(事件直前には国内だけで12000人の信者を抱えていたとされます)という事実でした。凶悪な大量殺人の動機に各種の宗教思想をツギハギにした不気味で妄想じみた認識があった、という衝撃を理解するためには、当時の日本が、今よりもずっと均質で透明な社会を形成していると信じられていたことを知る必要があります。日本は「単一民族」であり、高度成長は、国民をほぼ同一の生活様式に導いたと了解されていました。それは世俗化され、宗教意識の希薄な社会でした。ところが突然、「解脱」を求めて全財産を寄進し、教祖のためなら無給の労働も殺人も厭わない巨大な人間集団が発見されたのです。世間は驚愕し、混乱しました。
オウム事件は、日本に他者への恐怖と陰謀論への指向を植え付けたといえます。すぐ近くにいる人間が、異質な思想を持った”信者”かもしれない。彼らは、近くのアパートに、勤め先の企業に、同じ電車の中にいるかもしれない。この他者恐怖は、90年代後半に相次いだ神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件・1997年)や西鉄バスジャック事件(2000年)などのセンセーショナルな少年犯罪と相まって「心の闇」言説を生み出し、若年男性をスティグマ化し──実は、犯罪学者などは、少年犯罪の発生率が一貫して低下していることを指摘していたのですが──、もう一方では、在日朝鮮人などに転用されて、ヘイトスピーチの土壌を耕したと思います。
興味深いことに、実はオウム自身が、陰謀論と他者恐怖に苛まれた集団でした。特に末期になると、幹部たちは公安などのスパイが多数信者に入り込んでいると疑い、さらに政府や米軍によって絶え間ないサリン攻撃を浴びていると信じていました。いうまでもなくこれは自分自身の攻撃意図が外部に投影されたものです。しかし外部社会から物理的に攻撃されているという自意識が、大規模なテロ行為を正当化しました。
オウム事件以降、日本社会の異質な存在への寛容度は明らかに低下しました。異者を揶揄まじりでおもしろがるといったサブカル的なセンス(しかしこれがオウムの教勢拡張を助けたことは明らか)も衰退しました。地下鉄サリン事件と阪神淡路大震災のふたつの出来事のあった1995年が文化史上の大きな転換点であるのは明らかです。
2 カルトという言葉について
しかし「カルト」という言葉は問題も孕んでいます。この言葉についての社会に共有された明確な定義がないからです。通常「カルト宗教」といえば、「反社会的な宗教を奉じる狂信団体」とか「信者を洗脳して隔離する教団」くらいの意味でしょうが、宗教は本来世俗社会とは異なる価値を提示するものであり、どれくらい一般常識とかけ離れていれば「反社会的」なのか、何をもって「洗脳」とするのかについて世論の一致はありません。そこでこの論考では、「カルト」という言葉を明確に反社会的と考えられるオウム真理教と統一教会などの少数の教団に限定して使用し(注2)、他の危険性が伴うとは限らない宗教団体は「新宗教」および「新新宗教」と呼びます。新(新)宗教の中にはカルトもあるでしょうが、そうでないものも多数あるということです(注3)。
3 新宗教の興隆
日本の近代宗教史を考えるとき、どうして日本では近代以降に多数の新宗教が誕生したのか、伝統宗教ではなぜいけなかったのか、という疑問に突き当たります。
新宗教とは、神道、仏教、あるいは外来のキリスト教など歴史ある「伝統宗教」以外の宗教全般を指します。代表的な団体としては、金光教、大本教、天理教、創価学会など。これらの多くは、伝統宗教や民間信仰に根っこを持ちながら、特定の教祖が啓示やお告げを受けて創設したものです(創唱宗教)。
よく日本人は無宗教だといわれます。欧米と比べても、世俗化(宗教の社会的領域からの撤退)が早くから進行し、すでに江戸時代には仏教も神道も幕府の統制下にあって、既成秩序維持のための道具になってきた歴史があります(注4)。
しかしながら、現在の日本には多数の新(新)宗教団体が存在します。そもそも文化庁が所轄する各宗教団体の信者数(教団による自己申告)の総計は1億8115万に達し、これが国民人口を超える誇大な数字であることは明らかですが、それでも少なくない数──一説では人口の1割程度──が新(新)宗教と何らかの関わりを持っていると考えられます。日本人が本当に「無宗教」ならば、これはいささか奇妙なことではないでしょうか?
実は日本人が無宗教だといわれる時、必ず同時に、日常生活の中に自然に宗教行事が溶け込んでいることも言及されます。無宗教と称しながら、七五三や初詣にためらいがなく、家族が亡くなれば当然のように仏式で葬儀を行うというわけです。
つまるところ、これは強い宗教的コミットメントがない(特定の宗派に思い入れがない)けれども、同時に宗教的なものに無防備なほど寛容だということです(注5)。宗教が実存的な自己投企の対象にはならず、ありふれた習俗としてのみ存在しているのです。
ではなぜ日本人は宗教に対して強いコミットメントを持たないのか。その原因は国民性などではなく、歴史的経緯ゆえだと筆者は考えています。
実は日本人が強い宗教的コミットメントを国家から求められた時期があります。明治憲法の時代、とりわけ1930年代の15年戦争下で、国民は国家神道、すなわち天皇崇拝と日本神話を一体化した宗教への支持を要求されました。けれどもこの国家神道は特異なねじれを孕んでいました。そもそも公には国家神道は「宗教」ではなく、国家の祭祀だとされていました。これは明治政府が天皇制という「国体」の理念を維持しながら「政教分離」という近代国家の体裁を整えるために取った苦肉の策でした。西欧列強の批判を避けるために、実質的に天皇と神々への崇拝を強制しつつ、これは宗教ではないと強弁せざるを得なかったのです。仏教、キリスト教などの他の宗教は、この祭祀に抵触しない範囲で、信教の自由を許可されました。
このことは、仏教や神道などの伝統宗教が、救済宗教として発展することを阻みました。救済宗教はどこかで世俗の論理から決別し、合理主義では解決できない否定性に、超越性からの意味づけを与える必要がありますが、帝国日本では超越性は万世一系の「国体」に独占されていたからです。
救済宗教とは、人間の限界状況(死、病、悪といった実存的苦悩)に積極的に応接し、人を救いに導こうとする宗教です。もとより、どうして自分がかくも理不尽に苦しまなければならないのか、という問いに一律の答えのあるわけもなく、宗教者はそのような問いを刃物のように呑んでやってくる個人の前に立って、具体的な状況に耳を傾け、応答しなければなりません。むろん、その時宗教者を支えるのは、人間の弱さ昏さを包摂した宗派の教理しかありません。けれども神道は神主が氏子一人一人と向き合い、内面を聞きただす習慣を今に至るまで持たず、「国家の祭祀」に過ぎない国家神道も、「天皇の赤子」ならぬ惨めに混乱した個人の民草に救いの手を差し伸べるルートを持ちません。仏教は仏教で、葬祭と墓地の管理に資源を集中しています(注6)。
それでは人智ではどうにもならない事柄で苦悩し、救いを求めるものはどこに頼ればいいのでしょうか。筆者は、この欲求に応えるかたちで、新宗教が存在してきたと考えます。どのような社会であれ、宗教的な「救済」を求める人々は一定数存在します。既成宗教がその役割を果たさないのなら、新しい信仰が生まれる必要があります。
4 近代史のなかの「新宗教」
幕末の動乱とそれに続く急速な近代化と国家形成は民衆の秩序意識にも深刻な動揺をもたらしました。江戸晩期から明治にかけて、天理教、金光教、大本教、日蓮系の国柱会などが成立し、広く信者を集めます。さらに教育者だった牧口常三郎が始めた創価学会、立正佼成会、PL教団、などは戦後になって大きく勢力を拡張します。
新宗教の信者たちが求めるのは「貧病争」からの救済です。貧困、病気、家族不和、などの切実で具体的な苦しみの軽減を求めて神に頼ります。
宗教学者の島薗進は「病気なおし、心なおし、世直し」の三つが新宗教のキーワードだと述べています(注7)。信仰を通して病気が治る、自分の心持ちを改めることで、今まで苦痛に感じていたことを受け入れられる、これが「病気なおし」と「心なおし」です。そのためには手かざしのような呪術も活用されるかもしれません。そして新宗教の多くは独自の宇宙観(コスモロジー)を持ち、いずれ世の中が根本的に刷新されるという教義を持っていました。神の力による宇宙的革命、これが「世直し」です。
こうした観念は民衆の民間の習俗や土着信仰に根を下ろしていました。天理教の教祖、中山みきは、奈良の農婦でしたが、息子の病を山伏に加持祈祷してもらっている最中に、突如として神がかりし、「元の神・実の神」がみきの体に宿ったと託宣します。仏教でも神道でもなく、古事記にも記述のない神です。これ以降、みきは、病気治しと「お筆先」と呼ばれる庶民的な言葉で教えを説いた文書を通じて近隣の民衆を教化していきます。
こうした世直しの指向を持ち、多数の信者を集める教団の拡張は、天皇信仰を中枢に据えて近代国家の建設を急いでいた政府とは鋭く対立せざるを得ませんでした。天理教やひとのみちといった教団は、警察から何度も弾圧され、教団側は他の教派の看板を借りたり、教えを修正したり、時には積極的に天皇崇拝を取り入れたりしますが、国家による弾圧はやむことがありませんでした。大本教などは二度に渡る激しい弾圧により、本部を爆破される事態にまで至ります。
5 戦後の「新宗教」の飛躍
新宗教が急激な拡張は1945年の敗戦に始まります。それまで重しのように頭を押さえていた弾圧が解除されたということはあるでしょう。戦前の国家神道が軍国主義を支えたと考えたGHQは1945年12月に「神道指令」を出し、政府が神道を支持することは禁止されました。新憲法には「信教の自由」が明記されます。
弾圧により創始者牧口常三郎が獄死していた創価学会は、戦後に驚異的な発展を開始します。再建時には信者数5000人ほどの中堅団体でしたが、それから二十数年で、会員世帯750万を宣言するほどまでに大成長を遂げます。創価学会ほどではないにしても、戦後は他の宗教団体にとっても黄金時代であり、教勢の拡張が容易な時期でした。この時期はそのまま日本の高度経済成長と重なります。
これら急拡大した教団への典型的な入信者は、故郷を捨て仕事を求めて都会に出てきた若年労働者層でした。彼ら・彼女らは、慣れない都会での居場所を求め、人とのつながりを探して、故郷のイエの代わりになるものを新宗教に求めたのです。
新宗教の多くは、地域に小さな支部(教会)があり、そこに信者たちが集まって濃厚な交流を持つようになっています。そこで生活上の様々な悩みや喜びを、仲間たちと分かち合い、話し合い、お互いの信仰を深めるよう励まし合います。
仏教や神道、あるいは民間習俗からきた礼拝対象があり、声を合わせて唱えるお題目などもあったりします。信仰の先輩や上長がいて、アドバイスをしたり叱ったりします。祈祷や病気なおしのための呪術が伴っていることもあります。
そこで話題になるのは、生活の苦しさ、自分や家族の病気、嫁姑問題や夫の浮気など、日常の現実的な問題です。例えば姑がきつくあたってきて辛いという悩みに、これも神様の計らいだと思って仕えていればきっと相手も改心するというアドバイスがされるかもしれません。ここで信仰は、目の前の具体的な悩みを乗り越える手助けをしてくれるものと位置付けられています。信者たちが求めているのは、同じ信仰に基づいて、一緒に悲しんだり喜んだりする仲間たちです。そして上長が与える指針は、自分で考えねばならないというストレスから解放させてくれます。居場所がある安心感、葛藤の解消。
全体として見たとき、新宗教は俗世に対して肯定的であり、勤め先や家族といかにうまくやっていくかを追求する傾向があります。他宗との対立も好まず、伝統仏教の坊さんに葬式を頼んでも構わなかったりします。
6 戦後史のなかの「新新宗教」
しかし新宗教の黄金時代も30年ほどで翳り始めます。信者数が頭打ちになり、やがて減少に転じます。入信者が減り高齢化が進む一方で、二世への信仰継承に失敗することが多かったからです。幕末からの老舗新宗教の天理教も、戦後拡大した立正佼成会やパーフェクトリバティーもこの時期以降現在にかけて信者数を激減させています。
入れ替わるようにして、1970年代ごろから新しいタイプの宗教が現れます。代表的なものとしては、阿含宗、GLA、真光系教団などです。中には統一教会やエホバの証人のように海外から入って来たものもあります。これらを、宗教学では新宗教と区別して新新宗教と呼びます(注8)。
新新宗教は、日本が経済的に先進国の仲間入りをして、貧しさがそれほど目立たなくなった時代に広がっていきました。
新新宗教の信者が求めているのは、貧困や具体的な人間関係の解決ではありません。むしろより抽象的、あるいは実存的な「人生の究極の目的は何か」「自分はどのように生きるべきか」といった問いを抱えて入信してくる若者が目立ちました。それまでの新宗教では、家庭と社会で弱い立場に置かれていた中高年女性が大きな信者層を占めていましたが、新新宗教では若い男性の割合が増加します。
教義も新宗教のように現世肯定的ではなく、現世利益もそれほど求めません。今の世の中は堕落しており、いずれ凄惨な終末を迎えると考えるところが少なくありません。遠くない未来に、ハルマゲドンのような全的な破滅が待っているというのです。
自己変革や超能力の獲得、さらには「人類自体の進化」を唱えることがあるのも特徴です。
阿含宗桐山靖雄は、チベット密教に伝わるクンダリーニ・ヨガの修行を通して、超能力を身につけることができると説きました。この教説はオウム真理教の麻原彰晃に大きな影響を与えています。
宗教学者の太田俊寛は霊性進化論をオウム真理教の本質と見ています(注9)。霊性進化論は、ダーウィン進化論の拡大解釈に依拠して、「人類という種」をより高位の存在へ「進化」させていこうという考え方です。物質的欲望に囚われ、獣性の段階にある人間を、神に近しいものへ高めていかなければならない。霊性進化論は、神智学に始まり、ナチズムにも一定の影響を与え、戦後のカウンターカルチャーにも広く共有されて例えば日本のアニメーションにも時折顔を覗かせます(『機動戦士ガンダム』の「ニュータイプ」や『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」など)。つまり、本気だったりギミックだったりの違いはあれ、ごく一般的なアイデアになっているということです。
オウムの場合、修行を重ねて、神秘体験や超能力を得ることで「新人類」になることができるとされていました。教祖麻原は、信者の眉間に直接エネルギーを送り込んでチャクラを開花させ、クンダリーニと呼ばれるエネルギーを目覚めさせられると信じられており、彼の行うシャクティ・パットによって得られた神秘体験の素晴らしさを、初期の信者たちは口々に語っています。オウムの信者たちは、超能力や神秘体験に異様なほど執着すると同時に、そうした体験の向こう側に普遍的な自我の解放を夢見る人たちでした。神秘体験はただの物珍しい経験ではなく、荒涼とした現実世界からの超越であり、存在論的な離脱を意味していたのです。
信者同士の交わり以上に、一人一人の修行と自己変容が重視されたのも新新宗教の特徴です。島薗進は、創価学会や立正佼成会の集会所では、信者たちが車座になって話をするのが普通だったのに比べて、1970年代以降の新新宗教では、横並びに座ってビデオ画面を見ながら修行をしていることが多かったと指摘しています(注10)。
新宗教の魅力は、自分の抱えた悩みを信者同士で分かち合えることでした。しかし成熟した社会では、個人のプライベートで敏感な領域(例えば病気や劣等感などにまつわる事柄)に家族以外の人間が踏み込むのは避けられるようになっていきます。これは新宗教の布教を難しくすると同時に、新新宗教の一人一人が独立して自己変容のための修行に没入するというスタイルを魅力的に感じさせたことでしょう。高学歴の若者にとって、そうした孤独な自己研鑽はしっくりくるやり方だったかもしれません。
新新宗教の中には、拘束力が弱く、各自セミナーなどに参加してそのまま帰っていく団体もあるといいます。横のつながりはほとんどなく、教祖のビデオメッセージを聞くだけで満足しているそうです。こうなってくるとスピリチュアル系のイベントとそんなに変わりがありません(注11)。
しかし他方では、オウム真理教、統一教会やエホバの証人のような内閉性の強い教団では、世俗の人間関係からの離脱が、そのまま閉鎖的な内部集団への参入になっています。そこでは外部社会は悪に染まっているとして、非信者との交際を断ち、信者以外と交際しないことが求められます。その場合、入信は人生のすべてを賭けたインテンシブなコミットメントになります。
その極限状態がオウム真理教の出家信者でしょう。信者たちは私語を禁じられ、個室での修行や、「ワーク」に集中しなければなりませんでした。施設の壁には麻原の写真や言葉が所狭しと貼られ、日常でも録音した麻原の説法を聴き続けます。集団生活をしていても一人一人はバラバラであり、その眼差しはひたすら麻原だけに向けられていました。そのために麻原の言葉は絶対的な重みを持ちました。
7 「新新宗教」のグローバルな同時代性
ここまでの議論をまとめておきましょう。
新宗教が世間道徳(通俗道徳)と地続きで、世俗的利益を目指し、貧困・病気・家族不和からの救済を目指すのに対し、新新宗教はずっと個人主義的で、世間道徳を古臭いと軽蔑し、自己実現を求めます。そして教義や組織への帰属意識が希薄な場合と、逆に世間を拒否してひたすら内集団に埋没する場合があります。
では、この違いはどこから来たものなのでしょうか?
新宗教は日本の急速な近代化に対するリアクションでした。つまり人々が地縁・血縁から切り離されてアトム化していくプロセスとしての近代に抵抗し、人々の素朴な紐帯と商品化される以前の生活世界を取り戻そうとする運動だったのです。それが高度成長期に急発展したのは、旧世界が崩壊していくにあたって、人々がよりどころを求めたからです。新宗教教団は都市に流入してきた個人に居場所と慰謝を与えることで、彼ら・彼女らが安んじて労働と再生産に励めるようにし、近代化と産業化に貢献しました。
それに対して、新新宗教は世俗社会を拒否し、自分自身に集中するように命じます。物質的欲望にまみれた現代社会の超克(ポストモダン)であると同時に、再帰的近代(後期近代)の嫡子です。そこで求められているのは一層の個人化、他の誰でもない〈進化した自分〉に世俗とは異なるやり方で到達することだからです。前期近代が産業化、都市化、社会の機能的分化で特徴づけられるとしたら、後期近代は以上の特徴を徹底した果てに現れた〈ただ一人のわたし〉が最重要視される時代です。新新宗教は、〈わたし〉をめぐって旋回する意識を捉え、近代の総体から離脱せよ、と囁いたのでした。
こうした新しいタイプの教団の登場は日本に限ったことではなく、ほぼ同時代的に各国で起こっています。それらのいくつかは凄惨なカルト事件を引き起こし、世間を驚愕させています。代表的なものだけでも、マンソン・ファミリーによるシャロン・テート殺人事件(1969年・死者9人)、ガイアナの人民寺院事件(1978年・死者918人)、太陽寺院事件(1994年・死者53人)、ヘヴンズ・ゲート集団自殺事件(1997年・死者約40人)などがあります。新新宗教=カルトではありませんが、その中から過激化した危険団体が出てきたことは確かであり、かつそれは世界的な問題でした。
また地下鉄サリン事件のわずか1ヶ月後に、アメリカでは、168人の死者を出したオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件が起きています。犯人のティモシー・マクベイは武装民兵組織に属しており、過激な右翼思想の持ち主でした。マクベイはその2年前に、FBIがキリスト教系武装教団ブランチ・ダヴィディアンを包囲して、信者の集団自殺を招いた事件に激昂していました。マクベイの犯罪は今につながる白人至上主義者と右派過激派によるテロの時代の幕開けを告げるものでした。
むろん右派によるテロとカルト宗教の(自他)大量殺戮はさしあたり分けて考えられるべきものです。しかし、両者には、世俗社会の拒否と内部集団への没入、善悪二元論によるパラノイア的被害者意識といった共通点があります。故に、その連続性も思考されなければなりません。
以上、新宗教と新新宗教がどのような時代背景から登場してきたのかを概観してきました。次回からはより具体的な事象にこだわって、オウム真理教と統一教会という二つの代表的カルトについて考察します。(第二回了)
▶第三回「カルトはわたしたちの間に(2)」は下記のリンクから。
▶倉数茂。1969年生。日本近代文学研究・小説家。著書に『黒揚羽の夏』(ポプラ社、2011年7月)、『私自身であろうとする衝動―関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社、2011年9月)、『名もなき王国』(ポプラ社、2018年8月)、『忘れられたその場所で、』(ポプラ社、2021年5月)など。