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終わりの後の物語

【書評】須藤輝彦『たまたま、この世界に生まれて』 評者:勝田悠紀


0. はじめに

 須藤輝彦の『たまたま、この世界に生まれて』(注1)は、副題にある通り、「ミラン・クンデラと運命」を主題とした研究書である。クンデラは20世紀を代表するチェコの小説家、運命は、ダダダダーンのあの運命。
 まずは本書の内容を簡単に紹介する。序章では、「運命」という言葉が持つ意味の広がり、この概念のクンデラ研究における位置付けなどが語られる。本論は、各章一作クンデラの作品を取り上げながら、運命に関連する様々なテーマを論じていくという構成になっており、主な内容は以下の通りである。 

第1章 歴史の終わり、メランコリー/『冗談』
第2章 成熟、教養小説、自己批判/『生は彼方に』
第3章 プラハの春以後における〈歴史〉、アイロニー/『ジャックとその主人』
第4章 亡命、世界文学、語りの視差/『笑いと忘却の書』
第5章 偶然性、実存の実験室/『存在の耐えられない軽さ』
第6章 身振り・根拠、悲劇の散文化/『不滅』
第7章 反出生主義との対峙/『無意味の祝祭』

ここで列挙したテーマの中には、一見「運命」と関係なさそうなものも含まれているだろう。実際、須藤は論述を進めるなかで、これらを強引に「運命」と結びつけようとはしない。読み心地としてはむしろ、「運命」をハブとして、多方面に議論が拡散していくという印象を受ける。そうすることで本書は、クンデラにとって「運命」の持つ意味がいかに推移していったか、また、「運命」という形象が持つ多彩な側面を描き出していく。
 実際、本書を読んでからクンデラのテクストに戻ってみると、「運命」という語やそれに関連する意匠があちこちに見つかることに気づかされる。私にクンデラの専門的な研究についてコメントする能力はないが、この点についてはクンデラ研究者の篠原学が、フランス(語)とチェコ(語)、「二つの言語、二つの社会にまたがって展開されたクンデラ文学の全体像を偏りなく示している」点をはじめとして、その貢献を高く評価している(注2)。私自身の率直な印象を言えば、本書の論述には多少のムラがあると思う。第一章の「歴史の終わり」を四つのメランコリーとして読み解く鮮やかな『冗談』解釈に比して、第二章の「自己批判」論は『生は彼方に』の読解としてはややおもしろみに欠けるように思われたし、所々で、濃密なと形容すべきか混乱したと形容すべきか迷うような文章に出くわした(これについてはむろん単に私の理解が足りていない可能性もある)。しかしこれから述べるように、「運命」というテーマが、クンデラにとって、小説にとって、かくもおもしろい着眼点になると提案した本書の価値は、それを補って余りある。

1. 運命とは何か

  それにしても「運命」とは、なんともつかみどころのないテーマである。「運命は、とくに西洋文学の伝統において古典的な観念だ」(12)と須藤は言うが、一方でそれは学術や批評の用語として定着している言葉ではない。この研究の元々のテーマであったという「偶然性と必然性というペア」(12)とは、その点が大いに異なっている。この本はむしろ、須藤自身が、ギリシャ悲劇からクンデラに至るまでの文学史を通じて、「運命」を注目に値する概念として立ち上げようとする試みである。
 献辞によれば本書は「ふたりのひねくれ者に」捧げられているらしいから、「つかみどころのない」という印象にも何か本質的なところがあると見てもう少しこだわってみたい。もっとも本書による「運命」の定義自体は、明快に示されている。結論から引いてしまおう。

運命とは、偶然性に浸された個が世界という普遍に対峙するときに、ふたつの相反する磁場のあいだに作られる、止揚されない緊張関係そのものである。(346)
このような偶然性と必然性という双極を、その絶え間ない振幅――有限のなかの無限――において捉え続けたのが運命という形象だったのである。(347)

重要なのは二点である。第一に、運命は、偶然と必然の二項、その間にあるものとして位置づけられる。そして本書では、この必然/偶然の周辺にさまざまな対概念が配置されていく――決定論と非決定論、集団と個、ストーリーとプロット、根拠と身振り、生誕と死、超越と歴史。まずもってこうした二項を見出していくのが、本書の方法である。第二に、それにもかかわらずこの二項の関係は、「振幅」、「緊張関係そのもの」にとどまる。つまり運命は、間にあるとは言っても、偶然何割、必然何割でブレンドされたどこかの地点にピン留めされるわけではない。
 この第二の点が、話をややこしくする。というのも、そうだとすると、「運命」の実在(と仮に表現するとして)が怪しくなるからだ。偶然・必然の対は、比較級では表せない。運命は、偶然の側から見れば必然にしか見えず、必然の側から偶然にしか見えないのである。終章で挙げられている例に沿って言えば、あるとき「偶然」出くわした人と二度、三度と続けて遭遇したとき、ひとまず起こることは、いや、これは「必然」だ、という判断の切り替わりでしかない。そこには偶然か必然か(という判断)しかない。しかし、この判断の切り替わりに、それに留まらない何かがともなう。その「何か」が運命だ。須藤はこのことを、「人間の〔認識の〕有限性にその根拠を持っている」(348)という言い方で表現している。よりラフに言えば「運命」は、認識のバグなのである。
 この事情を別の観点から言い直してみよう。須藤は序論のなかで、「本書全体にとってそれこそ決定的に重要」なまとめとして、『宗教・倫理百科事典』の「Fate」の項目を引用する。曰く、Fate〔Fatum〕とFortune〔fortuna〕は「相対する」概念である。前者の観点からすれば「すべてが決定されて」おり、後者の観点からすれば「すべては未決定である」。いずれも日本語では「運命と訳され得る」これらの概念は、その「成立と時を同じくして」「混同」されるようになった(33-34)。要するに、偶然も、必然も、いずれもが運命でありうるわけだ。
 こうした事態は、運命と隣接する主題との関係にまで波及する。例えば、本書の重要テーマのひとつである「歴史」。図式的に見ると、第一章で、運命は反歴史という立場、歴史を批判する位置にあるのだが、第三章においては、歴史はその強い強制力を以って運命として現れてくる。もちろんこれは単なる矛盾なのではなく、「プラハの春」を境に「歴史」の持つ意味が大きく変わったことによって説明されてはいる。しかし、運命が決定的でも非決定的でもありえ、かつ歴史が主観的でも客観的でもありうることが絡まって、このようなねじれが生じているのである。(なお、「歴史」という主題に関して、中央ヨーロッパというコンテクストは本書が力を入れて論じるところで、私にはたいへん興味深く、日本では見落とされることの多い文脈でもあるだろうからぜひ注目して読まれるとよいと思う。中欧の小国を「歴史の客体」に押し留める力への認識が「運命」という語には含まれている。)
 あるレベルでは偶然と必然しかない、あるいは必然も偶然もともに運命であるという状況から、どのように運命が生じるのか。この「運命」発生のメカニズムとして重要なのが、各所で登場する「二重性」、あるいは「視差」の構造である。偶然と必然が二重なものとして保持された上で、必然の側から偶然を、偶然の側から必然を見たとき、その視線は単純にその両者を結ぶ直線上の点には落ち着かない。第四章で集中的に論じられるように、その二つの視線は「視差」と呼ばれる対象の変容を生み、それが偶然-必然とは別の次元にある何かを見せるのである(注3)。だからこうした議論の先で、例えば中欧が「中位性」という概念で捉えられるのを読むときにも、それを極端を避けた中庸のように受け取るべきではない。極端と極端のあいだで揺れ動くことを前提にした「中位性」は、見かけに反して穏やかならざる概念だ。

2. 終わりの物語としての運命

  ひとまずこれが、須藤による運命のややこしい規定の概要である。しかしそれを踏まえた上であらためて、この本は何をしようとしているのだろうか。
 まず考えたいのは、「運命」が「物語」ときわめて親和的な概念であるということである。わかりやすいところで言うと、第六章で須藤は、「登場人物の人生と運命の関係」は「ストーリーとプロットの関係」に重ねられると述べている(290)。ストーリーは実際の時系列順に並べられた出来事、プロットはそれを語り手が再構成したものを指す物語論の用語だが、運命は後者の側に、つまり、なまの出来事に対してその「語り」の側にある。あるいは、第一章で主題化される「終わり」。『終わりの意識:虚構理論の研究』のフランク・カーモードは、「始・中・終」の三項で組織される虚構を通じ現実を受けとめる人間のあり方を論じたが(注4)、運命もまた、有限な主体としての人間が現実と向かい合うときに生じる一種の「終わりの意識」である。さらに挙げれば、第六章で論じられる「理解」にも同じことが言える。アリストテレスの「アナグノリシス(認知)」に由来する物語論の中では、物語の発見的、認識的な側面が強調されてきた(注5)。
 つまり、分析的に思いきり脱神秘化してしまうなら、「運命」とは「物語」のことなのである(注6)。帯にある「運命、この文学的なもの」という文句は、「文学的」という言葉が一般にもつ曖昧さと裏腹に、こうした直接的な意味で理解すべきだ。運命研究は物語研究であり、この本は物語論の教科書に「運命」という項目を加えてみてはどうかと提案しているように読めるという点を、まずは指摘しておこう(そしてこの物語論が中欧の歴史をはじめとして種々の「現実的」な問題に広げられていくことはすでに述べた通りである)。
 この上で私が強く興味を引かれるのが、「終わり」というテーマである。須藤は本書の前半が「歴史哲学的な問題系」、後半が「物語論的な問題系」を扱うとしているが(38)、「終わり」を中心に据える第一章こそ、本書の基本的な物語論的立場を打ち出している章だと言えるのではないか。フランシス・フクヤマの有名な「歴史の終わり」を皮切りに、『冗談』の四人の登場人物に体現されたイデオロギーの終焉の分析を通じて展開されていく「終わり」への注目は、 「逆向きの回想」(252)を論じる後半の『存在の耐えられない軽さ』論に、真っ直ぐつながっている。
 「運命」はどのように語りのなかに現れてくるか。須藤によればそれは、「ある完成された「物語」」の「予感」(必ず〜が起こる)、あるいは「回想」(〜は避けられなかった)の形をとってである(229)。つまり運命はある出来事が過去に属するか未来に属するかにかかわりなく感じられうるわけだが(注7)、この予言と回想に共通するのが、その物語(例えばオイディプスが父を殺して母を妻とすること)が「完成され」ていること、終わっていることである(その意味で運命は、文法の用語で言えば時制よりもアスペクトに関わりの深い概念なのかもしれない)。しかし、「予感」や「回想」の活用自体は、取り立てて「運命」的とは言えない一般的なリアリズムの語りにおいても当然のようになされうる。むしろカーモード的な物語理解では、物語はほどよい「予感」によって、終わりとの適切な緊張関係のなかでこそ有意味なものとして立ち現れるのだった。では、「運命」という物語の特殊性をより厳密に言うとどうなるか。それは、「終わり」が「始・中・終」のゴールとして遠くに期待されるのではなく、全体が「終わり」に満たされた物語、「終わり」が最初から世界の前提となっているような物語であると考えられないか。
 ここから少し自由に展開させてもらいたい。いま「有意味なもの」と述べたように、「終わり」はしばしば「意味」と結びつけられてきた。ある出来事や記号の「意味」は、時間的に捉えればその「目的/結果」(end)であり、これが人間の見る世界に秩序を与え、人間を縛りもする。しかし同時に、「意味」の完結性は不安定であり、記号に内在したものではありえない。ある時期以降の常識として、意味はある記号が発せられ受け取られる限りにおいてその都度生成される、一種の幻であるからだ。その点で言葉は自律的な領域をなしており、この自律性が暴走すれば、言葉と現実の乖離が際立った滑稽な状況が現出する。「楽観主義は人民の阿片だ! 健全な精神なんて馬鹿臭い! トロツキー万歳!」――『冗談』の主人公ルドヴィークが恋人にほんの冗談のつもりで書き送ったこの言葉が、本人の意図や信念とは無関係に彼を放校処分にしてしまうのはそのいい例だ。
 何かが終わったという感覚と、意味の完結性、自律性、拘束力——これらは自然の装いを纏ってあらわれ、その装いのもとで真剣に受け取られるのが常である。西欧のリアリズム小説で典型的な「終わり」のパラダイムだったものに主人公の結婚があるが、これは人生(小説内の出来事)の自然な意味づけであり目的である。そしてこの「自然」の欺瞞に、現代批評は照準を合わせてきた。そこでは「終わり」の虚構性が指摘され、例えば新婚夫婦の幸福の裏に別の可能性が読み取られるという形で、自然のベールを剥ぐ作業が行われてきた。しかし、「運命」の物語において、物事はこのように進まない。なぜならそこではすべてがとっくに終わっており、物語の現在はメランコリーの、祭りの後の状況にあり、「終わり」は世界の前提をなしているからだ。そのとき「終わり」は、もはや暴くべき虚構ではない。
 大掴みであることは承知の上で、ここでは「終わり」のあり方の異なる物語を、二つの虚構の型として考えてみたいのである。第一の型において、終わりや意味の見かけ上の自然さと、その虚構性を指摘する批判的作業は、じつのところセットになっている。その条件のもとで真剣に受け取られる虚構があり、そこでは可能的なものが前傾化する(注8)。他方、最初から「終わり」が前提である第二の型においては、意味や終わりの自律性や他性が剥き出しになっている。それゆえ「終わり」は偶然的なものとして、「自分の中に根拠を持たない」ものとして(九鬼周造による偶然の定義の一部、222)経験されるのであり、そこでは滑稽さが基調をなす。須藤の『冗談』論でも引用される主人公の決定的な一言「歴史が冗談を言っているのだとしたら?」をもじって言えば、運命の物語においては「終わりが冗談を言っている」のである。
 ここで、クンデラとは別の例を取り上げてみたい(注9)。リヒャルト・シュトラウスの音楽とホフマンスタールの詞によるオペラ『ばらの騎士』である。『ばらの騎士』は、作品内外複数の意味で「終わり」に満ちた作品だ。まずこの物語のプロットは、一つの恋の「終わり」を語っている。大人の女性の元帥夫人と、彼女に憧れる青年オクタヴィアンの恋は、彼と若い女性ゾフィーとの新たな恋を前に、元帥夫人が手を引くことで終わりを迎えるのである(そしてこの物語の主軸は明らかに元帥夫人の側にある)。『ばらの騎士』はウィーン世紀末の作品であり、ホフマンスタールはウィーンの出身である(祖先はチェコに辿れるらしい)。オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊や第一次大戦の予感のにじむこの作品は、そう、まさに、須藤の言う中欧のコンテクストから出てきた作品なのだ。さらに付け加えれば、この『ばらの騎士』は、オペラというジャンルのひとつの終わりを画する作品にもなった(注10)。これは後知識にすぎないにしても、「物事には終わりというものがあるのです」という元帥夫人の台詞には、それこそ運命的な響きがある。
 では、この作品の場合、元帥夫人とオクタヴィアンの恋の終わりは、どのように予告されるだろうか。それは第一幕で、鏡に自分の姿を見た元帥夫人が、あなたはやがて自分から離れていくだろうと、オクタヴィアンに不安を告げることによってである。オクタヴィアンは反発する。そんなことはありえないと。しかしこの瞬間に、「終わり」の物語は動き出す。私見によれば、「予言」と機能的に等価な、オペラ作品によく登場するギミックとして「呪い」があるが、ここでの不安の吐露は、そのもっとも世俗化されたバージョンである。
 劇作品である『ばらの騎士』に、クンデラの小説にあるようなメタナラティヴの装置は備わっていない。にもかかわらず、その物語には「運命」的なものが感じられる。ここにはまず、抗えない必然性の感覚がある。元帥夫人の、現実になることが確実な「予感」。演者も観客も毎回同じプロットをなぞる劇作品であればなおさらのことだ。この二人の関係は終わる、その物語が今日もまた動き出したと、この場面は確かに告げている。しかし同時に、ここにはどこか偶然的なものが感じられる。元帥夫人がこの一言さえ口にしなければ物事は動き出さなかった、それはただ一瞬の気の迷い、いわば偶然の言い間違いに過ぎなかったという印象がつきまとうのである。実際オクタヴィアンは、即座にそんなことはありえないと否定する(当然だ、この時点で彼はまだゾフィーと出会ってすらいないのだから)。この些細な出来事さえなければ二人は幸福な関係を続けたのではないかという疑念が拭えないのだ。
 この作品は全体として「終わり」を語り、第一幕はいわば「終わりの始まり」を描いている。この「始まり」は、果たしてお馴染みの「始・中・終」の第一部を構成するだけだろうか。すでに述べたように、『たまたま、この世界に生まれて』からは、そうではないと考える道筋が見出せるように思われる。オクタヴィアンとゾフィーの出会いから結婚へと向かう十九世紀的な、未来志向の、可能性の物語と、元帥夫人が担う、完了形の、必然性と偶然性の、「運命」の物語。そして後者には、ゾフィーを娶るはずが足蹴にされ笑われながら退場していく元帥夫人の粗野な同世代人、オックス男爵の哄笑が鳴り響いている(オックス男爵は元々この作品のタイトルロールになるはずであった)。元帥夫人とオックス男爵のペアは、若い十九世紀のカップルをまさに逆向きに回想しながら、「終わり」の顕在化した偶然性と必然性の色濃い二十世紀の物語を生きている。そして二人はこの第二の物語を、ペーソスとユーモアというそれぞれのやり方で受け止める。

3. 運命と恥ずかしさ

  最後に改めて、運命と向き合う主体は世界とどのように関わるか、と問うてみよう。それは本書が明示的にはあまり語らない、われわれ読者と運命の関わり方にも関係するように思われる。
 本書が描き出す主体のあり方は、基本的に受動的である。それは当然で、運命の基調をなす必然性は主体に選択の余地を与えないからだが、それだけではない。偶然性にも要因がある。可能性と区別されるところの偶然性が独自の領域を持つのは、「「他でもあり得た可能性」、つまり「自己」と「他」の交換可能性それ自体の「足場」となる「私」という「主体の座」が揺るがされるほどに、「外的要因が圧倒的に強い」場合に限」(257)られるからだ(これはクンデラの「小説の原理」であると須藤が言う「実存の実験室」の条件でもある(255))。
 『不滅』を扱う第六章では、この問題が「根拠」と「身振り」という新たな二項対を通じて探求されていく。「根拠」と訳されるところのドイツ語のGrundは、同じように訳されうるラテン語のratioと異なり、「合理性や理性というニュアンスが比較的薄い」。それはわれわれの「運命の本質を含む暗号」であり、『不滅』においてある少女が自殺するのは、彼女のグルントが開花した結果としての、避けられない運命だったと捉えられる(271)。他方、「身振り」はその行為者の本質や個性を表さず「自己表象を裏切る」、「偶然的な属性」(279)だ。この小説の主人公アニェスはひとつの「身振り」から生まれてきたが、それは別の女性が父に向けた身振りを真似たものであり、のちに妹のローラが真似てアニェスを不快にさせた身振りでもあり、さらにはゲーテの同時代人ベッティーナの身振りでもあった。作品冒頭で語り手「クンデラ」の目を引いたこの美しい身振りは、なんらアニェスの個別性を表さない。そして見ての通り、「根拠」と「身振り」は、緩やかに必然性と偶然性に対応している。
 しかし、所々で須藤も示唆している通り(281, 286など)、根拠と身振りの対立は必ずしも安定したものではない。須藤によれば、根拠は、アリストテレス的悲劇が要請する「因果的な必然性」と対照的なものとして、ストーリーから離れた図像として、論理から離れた「散文性」としてあるのだが、その散文性が意味するところの「生の具体的、日常的、身体的な性格」は、やはり偶然性に侵されているはずだからだ。例えば例の若い女性が、「何ら合理的な理由はな」く「なぜだかわからないままに」、「歯痛」によって自殺へと差し向けられるとき。あるいはそうした彼女の根拠が、主人公アニェスの根拠と、「「クンデラ」の想像力のなかで……鋭く響きあう」とき(283-84)。そしてここから須藤は、根拠の「なぜだかわからない」という要素、暗号としての特性が、その解釈を通じた「理解」へと語り手を促すというふうに論を核心へと進めていく(注11)。
 ここで『不滅』のある一節を引いてみたい。須藤の分析の主な対象である第五章「偶然」から、アニェスの父の死が回想される場面である。ここでアニェスは、「十六歳のとき……月経があり、シーツを血で汚した」経験を思い出し、「死ぬほど恥ずかしい思いだった」と考える。しかし語り手はいう。

なぜ彼女は恥ずかしかったのか? 女は誰でもすべて月経周期があるではないか? アニェスが女性の器官を発明したのか? 彼女にその責任があるのか? もちろん、そうではない。でも、責任は恥とは関係がない。もしアニェスが、たとえばインクをひっくりかえして、泊めてくれた家のテーブルクロスや絨毯を台無しにしてしまったとしても、気まずく不愉快ではあったろうが、しかし恥ずかしがったりはしなかっただろう。恥というものは、われわれが犯したかもしれぬ過失を根拠としているのではなく、自分で選んだわけではないわれわれの姿にたいして味わう屈辱と、その屈辱がいたるところにはっきり見えているという耐えがたい感覚とを、根拠にしているのである。(注12)

ここで語られている責任と恥の対比はおもしろい。人が恥ずかしさを感じる状況としてよく引き合いに出される例に、裸を見られる場面がある。自分の裸は通常、人目に触れない自分、秘められた自分であり、何にも増して(例えば装身具や人に見られることが想定された体の部位に比べて)自分そのものである、だからこそそれが曝されることが恥ずかしさを催すのだと考えられているだろう。しかしクンデラにとって、恥ずかしさは自分の固有性とは関係がない。「月経周期」や「女性の器官」を発明したのはもちろんアニェスではなく、それはたまたま女に生まれれば誰にでも備わっているものだ。ここから話は父の美しさへと向かっていき、それもまた「偶然の戯れがあらゆる寸法の平均を選んだ」もの、醜さよりもずっとはっきり「顔というものの個人的でない性質、人格的でない性質」を明示するものであるとされる。そして、だからこそ、「彼も恥ずかしがっている」。父は死ぬ直前、アニェスに「もうわたしのことを見ないでおくれ」と頼むのである。
 ここでは「身振り」と「根拠」、個性と非個性が相互に乗り入れる地点における、個人と世界の関係のあり方が表現されているように思われる。道徳哲学者バーナード・ウィリアムズは『恥と必然性』において、罪と対比されるところの恥を「力を失う」経験だと述べているが(注13)、「自分で選んだわけではないわれわれの姿」という表現には、確かに主体に受動性を強いる外的力の存在、主体が引き受けざるを得ない偶然性の作用が読み取れる。しかしそうした非個性が、自分を自分自身からただ遠ざけるということにはならない。われわれはそこに「耐えがたい感覚」を実感し、その非個性をあくまで自分の内なる出来事として経験するのでもあるからだ。だからこそクンデラは、複製可能な非個性とこの私であることの「取り返しのつかなさ」の共存がもたらす感覚を、人間に「生涯ずっと……付いてまわる根本的な恥ずかしさ」と表現する。
 人は、自分が始めたわけではないのだから自分に責任はない、その意味で自分とは関係がない対象を、それでも自分にとってどこか本質的な、親密なものだと感じ、係わりを持つことがある。そしてこれは、人を「運命」の読者にするメカニズム、「解釈」や「理解」へと差し向けられる人の自らと世界の引き受け方でもあるはずだ。人間は運命を、恥ずかしそうに見つめる。そのとき、個性と非個性、近さと距離という双極もまた絶え間ない振幅によって捉えられることになり、この振幅が人間のある物語的活動の条件を構成する。——とこう整理した上で、最後にそうした恥ずかしさが、あくまで「耐えがたい」「屈辱」であることを思い出しておきたい。「運命」を通じた「理解」や「解釈」の活動は、ここでもまた、見かけ以上に穏やかでない。


(注1)須藤輝彦『たまたま、この世界に生まれて』晶文社、2024年。本書の頁数を文中の括弧内に示す。
(注2)篠原学「ミラン・クンデラの描き出す運命――運命を認める自由、その可能性を、小説という形式のうちで模索しつづけた作家」『図書新聞』3650号【Web】。
(注3)蛇足ながら、視差とは「対象との同一直線上にない異なる二点から見た時の、対象の見かけのうえでの変異ないしは変容」(200)であるわけだから、レンヌ、地中海沿岸の小都市、プラハが直線上に配置された202頁の図はいささかミスリーディングではないだろうか。
(注4)精神分析に依拠した物語論でも似た議論が展開されてきた。例えば、Peter Brooks, Reading for the Plot: Design and Intention in Narrative. Harvard UP, 1992.
(注5)例えば、アントワーヌ・コンパニョン、中地義和・吉川一義訳『文学における理論と常識』(岩波書店、2007年)「認識としての「ミメーシス」」141-48。
(注6)前田龍之祐による書評「文学における「運命」とは何か」(『クライテリオン』、https://the-criterion.jp/mail-magazine/240709/)もこれに近い点を強調している。「歴史のなかに生きる人間について考え、その運命をいかに語るのか――本書の問いは、私が抱く文学とは何かという問いと、そのまま繋がるものに思えた。言うなれば、文学とは、人間の運命を描く営みにほかならないのである。」
(注7)須藤によれば、歴史が「過去」にのみ関わるのに対し、運命は「全時制的であり得る」(55)。
(注8)須藤が提示する可能的なものの定義にはばらつきがあるが、ライプニッツによって「存在することができるなにか」(222)と定義された可能的なものは、「他でもありえた可能性」までを含むとも考えられ(257)、こうした可能性の一様態とは別の、独自の領域を持つ偶然性の定義が検討される。
(注9)以下の議論は切江志龍との会話から示唆を得た。
(注10)岡田暁生『オペラの終焉:リヒャルト・シュトラウスと〈バラの騎士〉の夢』ちくま文庫、2013年。
(注11)須藤は、「暗号解読」、「読解」、「解釈」の中欧性の観点から、オーストリア帝国フライブルク(現チェコ)の出身であるフロイトに言及している(349)。必然性としての無意識が偶然的な形をとって表出すると同時に、無意識が内なる他者として、それ自体が「自分(意識)のうちに根拠を持たない」偶然的なものとして捉えられるとすれば、精神分析の人間観自体が「運命」的だと言える。
(注12)ミラン・クンデラ、菅野昭正訳『不滅』集英社、1992年。376頁。
(注13)Bernard Williams, Shame and Necessity, U of California P, 1993, 2008. 219-23.

須藤輝彦『たまたま、この世界に生まれて ミラン・クンデラと運命』晶文社、2024年3月

▶勝田悠紀(かつた・ゆうき) 1991年生。文学。東京大学大学院博士課程。論考に「今村夏子とポスト・クリティーク——新たなリアリズムと批評の声を求めて」(『エクリヲ vol.9』、2018年)、「ポータブル・キャラクターズ——ディケンズの複製技術」(『リーディング』39、2019年)、「距離、あるいはフィクションの恥ずかしさについて」(『エクリヲ vol.13』、2021年)など。最近の関心事は、将棋と魚の流通。

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