耳ヲ貸スベキ!――日本語ラップ批評の論点――
第三回 空虚/ナショナリズム/六八年 韻踏み夫
「“一人称”の文化」というテーゼは、ありうべき日本語ラップ史の成立を支える正当化の論拠として立てられつつ(第一回)、その論理自体はリズム論/グルーヴ論的な射程に開かれうるようなものであった(第二回)。しかし、それは当時、実際にはどのように受け取られたのだろうか。つまり、宇多丸の日本語ラップ批評がそのアクチュアリティにおいていかなる政治性を持っていたのかということである。
端的に言って、「“一人称”の文化」などということは、