【エッセイ】ロバート キャンベル「戦争を言葉で記録する人々のこと」
ロシア軍が東・南・北の三方向からウクライナに攻め入ってから二年が経ち、先月で三年目に入った。二〇二二年二月二四日の朝、戦車部隊の車列がウクライナ北東部の国境を越え、隣接するスーミ州のオフティルカという街を制圧しようとするが策戦は成功せず、翌日にロケットランチャーから街をめがけミサイルを降らせた。英紙The Independentによるとクラスター爆弾が使われたと見られ、その爆弾が落ちた保育・幼稚園では子どもは一人、大人二人が犠牲になったという(二月二八日配信)。直後にアムネスティ・インターナショナルは、クラスター弾禁止条約(=オスロ条約)に抵触したとして、オフティルカへの攻撃を戦争犯罪と見なしうることを示唆した。以降、二〇二四年二月までに、ウクライナの検事総長室はロシア軍による戦争犯罪容疑を一二万五〇〇〇件以上検査しようとしている(Foreign Policy、二〇二四年二月二〇日配信)。武力で隣国の侵略に抗うと同時に、ウクライナでは後々相手が犯した戦争犯罪の証拠を国際刑事裁判所に提出し訴追できるよう膨大な証拠確認を行っている。一例は、ペン・ウクライナの会員であり同国の著名な小説家ビクトリア・アメリーナ。彼女は全面侵攻がきっかけで人権団体「真実の猟犬」に入会し、ロシアによる戦争犯罪の文書化に尽力した。二〇二二年春に児童文学作家のヴォロディミル・ヴァクレンコをロシア軍は捕らえ殺害するのだが、彼らの残虐行為を克明に記した日記をヴァクレンコは庭の地中に埋めていった。物的証拠となるこの日記を探し当て発掘したのはアメリーナであった。彼女自身、昨年六月、東部クラマトルスクの料理店で食事をとる最中にミサイルの着弾を受け落命した。多くの市民が犠牲となったこの爆撃自体が、戦争犯罪の一案件として検査の対象になっているという。
侵略開始の日からウクライナ各地の人々は家を追われ、西へと逃れようとして、その数を増していった。同年春までに国内外を合わせた避難者が数百万人となったことはよく知られている。ポーランドとの国境に近い、古来交通の要衝でもあるリヴィウ市に住む詩人で翻訳家として著名なオスタップ・スリヴィンスキーさんは、即日の入隊を断念し、波うって救済列車で運ばれてくる避難者――ほとんどが女性と子どもと高齢者ばかりの群集――をリヴィウ中央駅のホームで待ち受け、飲み物や医薬品などを配り宿泊の調整を行うというボランティア活動に徹していた。
数週間、駅舎で支援活動を続けた。他者のケアをするかたわら、彼らの話を真剣に聴きとり、夜に帰宅すると印象に残った話を独白という形で書き起こし、積み上げていった。老若男女の短い物語には序列などを付けず、言及される日常的なものごとを取りだし章題として、ウクライナ語のアルファベット順に配列した。この記録がウクライナ語で刊行される前に英語のネット雑誌で抄訳が公開され、たまたま目にしたわたくしが全文を日本語に訳し、昨年暮れに『戦争語彙集』(岩波書店)として出版することとなった。
わたくしは翻訳する途中、昨年の夏にリヴィウを訪れた。スリヴィンスキーさんに駅舎を案内してもらった。ホームの上で避難者たちの当時の様子について教えてもらった。
彼曰く「……多くの家族とその持ち物を目にしました。そうしたものを普段は目にすることができない。家の中に隠れていますから。戦時下の状況では中にあるものがすべて外に出ます。……秘めていたことまで、まるですべてが陳列されていたかのようでした」(『戦争語彙集』「戦争のなかの言葉への旅」)。その時、話を聴きながら思い出したのは、すでに翻訳ができていた「空」という証言であった。ワレリアさんはスーミ州の住人で女性、ポーランドまで逃れた時点でスリヴィンスキーさんに声を寄せたらしい。実家は冒頭に触れたオフティルカの街で、爆撃を浴び、まさに「中にあるものがすべて外に出」され、むき出しの状態になっているという。市民への無差別攻撃を証拠づける彼女の言葉は、壊された生活ではなく、その現場を覆う天空が焦点となっているところが底抜けに悲しい。
(初出 「文學界」2024年4月号)