現代の新しい呪いの言葉「自分の機嫌は自分で取れ」について思うこと
この言葉には、他者を突き放す冷たさを僕は感じる。自分の進む道の先にいて邪魔だと思った人をなんの躊躇もなくどんっと突き飛ばすような。
とはいえ、この言葉に共感できないわけではない。
確かに、シチュエーションを考えると同意したくなることもある。
例えば、
こんな場面を想像すると、よくわかる意見だなあと思う。
同じようなシチュエーションは身に覚えがある。いつもの会話のつもりで冗談を言ったら、ちょっとキレられたりとか、そんなバリエーションもある。それであっ、こいつ今日機嫌悪いじゃん、近寄らんとこ、となったりする。不機嫌による攻撃性の被害者となってしまうこちらからしてみれば、理不尽もいいところだ。お前が抱えた不機嫌になんでこちらも巻き込まれなきゃいけないんだよと言いたくなる。
しかしまた一方で僕は、不機嫌さを抱えたまま職場に出なければならないという日が少なからずあり、そのために周りに気を遣わせてしまうことも経験してきた。そんな僕のことをダメなやつと非難してもらっても一向に構わない。
ただ、世の中の不機嫌さの中には、もうどうしようもない不機嫌さというものもあると思う。例えばこんなシチュエーションを考えてみてほしい。
極端なシチュエーションだろうか? 僕はそうは思わない。むしろこのくらいは軽いもので、もっとひどい環境で働いている人がたくさんいると思う。ここまでくると問題は機嫌とか不機嫌とかじゃなくて労働環境の問題だろう、という人もいるかもしれない。そう、問題は環境にあるのかもしれない
。労働環境だけではない。
ムカつきませんか?
こんな主張は正当と言えるのか。
僕が示したいのは、不機嫌さを抱えている人のバリエーションはあまりにも多種多様であるということ。そしてその人を不機嫌にさせている要因も無数に存在しうる。
一口に不機嫌であることが悪かのような、そして機嫌は誰でも容易にコントロール可能であるかのような言説を流布させるのは、不寛容で不用意で、それこそ邪悪なのではないか。
「自分の機嫌は自分で取れ」と言う人は、もしかしてそこまで追い詰められて働いたことがない人なんじゃないだろうか? ちょっと高いスイーツでも食べれば「明日も頑張ろ♪」と気持ちを切り替えられる程度の、大したことない仕事しかしていないのではないか? そういう人が軽い気持ちで「自分の機嫌は自分で取らなきゃ」と口々に言っているのではないか──なんていうふうに「自分の機嫌論者」を攻撃することも可能である。
もちろん僕はそんなふうには思ってないし、上記の文は仮に攻撃するとしたら、の例である。
「自分の機嫌は自分で取れ」という言葉は、言い換えてみれば「こっちまで機嫌悪くなってくるから不機嫌なツラ見せんじゃねえ。俺様のために、俺様が気分よく仕事できるように、お前が抱えてる問題なんか知ったこっちゃねえから不機嫌さなんか見せんじゃねえよ」ということに他ならない。いや、そこまで思ってない? いやいや、思っているでしょう。
「自分の機嫌は自分で取れ」は非常に自己中心的な言葉だ。もちろん不機嫌さ全開で周囲に当たるのも、自己中心的な振る舞いだ。だから、同レベルのクソみたいな争いだと僕は思う。
不機嫌な振る舞いもクソだし、「自分の機嫌は自分で取れ」なんていう言説もクソだ。
もっと根本的なことを考えると、自分の機嫌など自分でコントロール可能なことなのか。感情を表に出す出さないを含めて、僕にはそう簡単なことには思われない。
他者はゲームのNPCじゃないし、誰かの風景の一部でもない。人生と生活がある生きた人間なのだ。気分の浮き沈みがあり、第三者の見えないところで様々な問題に直面していたり、悲しい出来事や辛い出来事に打ちのめされているかもしれない。そういう想像を深〜くすべきだとは思わないけど、そういう想像力をほんの少し働かせるだけで、「自分の機嫌は」などとはそうそう口にできないと思う。
別に、イライラしている人に同情して優しく接してあげないといけない、などという話をしたいわけではない。「なんかあったんかなあ」と心の中で思うだけでもいいし、思わなくてもいい。ちょっと関わらんとこ、とさっと避けるとか。少なくとも、「なんでテメエの不機嫌さに振り回されないかんのやムキーッ」っとならなくてもよくないだろうか。
自分の機嫌は自分で取れるべきだという風潮の息苦しいこと。世間の不寛容さのまた一側面。あるいは同調圧力が生み出した残酷で利己的なモンスターの息遣い。
誰もが自分の機嫌を自分で取る世界はどんな世界か?
みんなが明るく、楽しく振る舞わなければならない社会。古いSF小説のディストピアのようだ。悪い冗談にしか思えない。
明るさが求められる社会。元気さが求められる社会。楽しく生きることが求められる社会。
ぺっ!
つば吐きたくなる。吐いたことないけど。