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靴のサイズが合わなかった話

靴を買うならAmazonがおすすめ

田舎と都会を分ける境界線はいくつもあるが、その中でも「好きな靴を実店舗に買いに行けるか否か」はかなり明快でそして分厚い境界線だと思う。
僕は境界線のこちら側、つまり靴を探そうと思っても実店舗の選択肢なんかほとんどない田舎に暮らしている。

にも関わらず、身につけるものの中でも最も試着が必要なのが靴だ。
大抵の衣服がS、M、L、XLくらいしか選択肢がなく、多少サイズが大きくてもなんとかなるのに対し、靴はそうはいかない。
サイズは単位を含めて様々あり、cm単位のものであれば0.5cm刻みで区別されている。
サイズの合っていない靴ほど役に立たないものもない。小さすぎればそもそも履くことができない。少し小さい程度でも足を傷つける。少し大きくても靴擦れを起こす。すっかり大きいというのなら、もはやそれを履いて歩くことはできないだろう。

だから田舎で靴を買うには限られた店舗で試着できる靴を買うか、試着後返品可能なネットショッピングかということになる。

ちなみにAmazonは返品可能な商品であれば、返品手続きがかなり簡単でおすすめだ。画面上で返品を依頼すれば、なんと配達業者が自宅まで集荷に来てくれる。
発送のためにコンビニや営業所に行く必要がなく、バーコードを印刷して貼る、みたいな手順もない。届けられた段ボールにしまってガムテープさえ貼ってしまえば自分ですることは何もない。手数料もゼロだ。

例えばZOZOタウンの場合、「サイズが合わない」等の自己都合の場合、返品の際手数料がかかってしまう。
そういうわけで、取り扱いがあれば、Amazonで購入することが一番多い。

周知の事実みたいなお役立ち情報はさておき、僕はその時靴が欲しかった。
結構長いこと買い替えていない汚れた靴を履いていて、毎日出かけるたびに見窄らしい気分になっていた。
靴のバリエーションもスニーカーばかりで、ちょっと格好つけたい気分の時にも足元だけ力が抜けた感じになってしまう。そういうオシャレもあるかもしれないけれど。
革靴で、それでいてビジネスシューズとは一線を画してカジュアルな靴が欲しかった。
そんなわけでZOZOタウンでビルケンシュトックのポストマンシューズを買うことにした。

靴のサイズが合わなかった

僕は足が小さいので、商品のサイズ展開の中では一番小さい規格を選択してポチった(25.5~26.5cm)。
ナイキもアディダスも26.5cmで、オニツカタイガーは26cm。革のビジネスシューズは25.5cmなので、まあこのサイズでちょうど良いに違いないと考えた。というより、これより下もないし、これしかないという感じだった。

商品が届けられ、試着してみる。返品する可能性もあるので、皺や跡がつかないように、慎重に丁寧に履く。

ジャストサイズじゃないか。

奇跡的なほどサイズは合っていた。
ほとんど着ることがないジャケットと合わせたりして「完璧だ!」と嬉しくなった。秋になったら、いろんなファッションが楽しめるじゃないか。
この時はそう思った。

数日後、休日になってから新品の靴を履いて散歩することにした。

あれ、なんか大きい気がする……。

いや、気がするどころの話ではない。

初めて履いた日は、少し足が浮腫んでいたのかもしれない。
あるいは、使用感が残らないように、履いてはみても歩きはしなかったから気が付かなかったのかもしれない。
ともかく、歩いていて物凄く感じる「サイズがあっていない」という感覚。

慣用表現として「靴の中の小石」というのがある。
要は邪魔者、異物感、違和感を意味する言い回しである。
ゴッド・ファーザーに「靴の中の小石を取り除いてもらいたいものだ」というセリフがある。もちろん、邪魔者を抹殺せよという意味だ。

しかしその時僕が襲われた感覚はそんなものではなかった。
音こそならないものの、漫画だったら「ガッポガッポ」と効果音が描かれてそうな気がした。多分サイズとしては0.5cm小さいサイズの規格があればそれがジャストサイズだったのだろうと思う。合わないといってもそのくらいの微妙な差だった。
けれども、その感覚は耐え難いものだった。
0.5cm合ってない程度の誤差はきっと第三者にはわからないと思うのだが、その時はすれ違う街ゆく人々がみんな僕の靴を見ているような気がした。
そして「恥ずかしいやつ」と蔑んでいるような気がした。

「靴のサイズが合ってないみたいだな」というセリフがマフィア映画に出てきたら多分、「分不相応な輩は抹殺すべし」という意味になるだろう。その時僕は抹殺されるべき存在だった。
世の中の誰もが自分のサイズに合った靴をきちんと見つけて履いているのに、僕だけが、自分の靴のサイズもわからずにみっともないでかい靴を履いている。

よく、村上春樹が小説を書くことは「他人の靴に自分の足を入れるようなもの」だという表現をしている。小説という物語を通して、自分ではない誰かになる、誰かの気持ちを理解する、ということなのだろう。
オシャレな物言いだなと思っていたが、どうやらこれは英語圏の定型表現らしい。
ブレイディみかこのエッセイに出てきて、初めて知った。イギリスの学校ではエンパシーとは、他人の靴に足を入れることだと教わるらしい。

 自分で誰かの靴を履いてみること、というのは英語の定型表現であり、他人の立場に立ってみるという意味だ。日本語にすれば、empathyは「共感」、「感情移入」または「自己移入」と訳されている言葉だが、確かに、誰かの靴を履いてみるというのはすこぶる的確な表現だ。

ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』kindle位置No.831

その時まさに僕は、他人の靴を履いているような気分だった。
しかし実際にはそれは誰でもない僕自身の靴なのである。
僕は、僕自身にすらエンパシーを働かせている。そして僕は僕自身とすらズレているのだ。
自分で自分のことがわかっていないということの象徴的出来事のように思えた。小説でこのことが描写されていて、現代国語の授業で取り扱われたら、間違いなく赤線が引かれることだろう。

…みなさん、傍線部の意味を考えてみましょう。
はい、先生。ここは主人公が自分のことが自分でもわかっていないということの象徴的なシーンであり、彼の精神的な未熟さを表していると思います。…

英語の慣用句としてもありそうな気がする。
慣用句:a man who don’t know his own shoes size
意味:自分のことを見失っているさま

僕は全身の毛穴から溢れてくる恥ずかしさと失望に塗れて帰宅した。
こんな靴、なんで買ったんだ。
靴は悪びれるでもなく、玄関で一番存在感を放っていた。太い野郎だ。
今更返品もできないし、返品したところでもうこれより下のサイズがあるわけでもない。なんということだろう……。

生きていくということは、自分の靴のサイズを知るということ

生きていくということ。社会に出て適合していくということは、周囲に自らをアジャストさせていく行為だと思われがちだ。
しかし、実際にはそうではないのである。
自分がどういう人間であるかを理解し、自分自身について理解していくこと。それが即ち社会への適合につながっているのだ。
僕はどうしようもない社会不適合者で、どうして他人と違うのだろうと理解できずに長らく苦しんだ。
今それが多少楽になっているのは、社会人として致し方なく働き、多くの人と関わっていくうちに、自分の姿がわかってきたからではないかと思う。

社会というのはよくわからない不確かな渦のようなもので、こんなものに迎合する必要はない。というか、試みたところでほとんど不可能なのではないか。
逆に、自分はこういう人間だと表明することにより、社会の側がそれに応じて変化してくれるのだ。もちろん、自分にとって居心地の良い形に変化してくれるとは限らない。自分にとって攻撃的で不愉快な形態になって襲い掛かってくることもある。しかし、向こうが自分にフィットし、居心地の良い形態をとり、また自分自身が他者にフィットする社会形態の一部となることもできる。

もちろんすべてが受容されているとは思わない。
多様性を認めるということは、個性を認めるとは、単に存在を排除しないということを意味しない。社会の側が受容する形態をとることなのだ。
話が大きいように聞こえるかもしれないが、個々人が生きづらいと感じることと、この問題は地続きだと思う。

社会というのは自分のあり方によって姿を変える鏡のようなものだ。
だから少なくとも、自分自身のことがわかっていないと、鏡の側もどういった形態を取ったら良いかわからない。
結果的に受容というよりは疎外に近い形態を取らざるを得なくなってしまう。それを社会だけに責任を負わせることはできないだろう。

何が言いたいかというと、自分の足のサイズはよく知っておいた方がいいということだ。
僕は今回、ビルケンシュトックのポストマンシューズから大切なことを教わったような気がする。

追伸

Amazonで中敷を買ってみたら、靴はピッタリフィットした。
見た目にも「やけにでかい靴を履いてるな」とは全然思われない、普通のサイズの靴に見える。
シンプルが故に文句の付け所のない、質実剛健という響がピッタリくる靴だ。どんな服装でも自然に馴染んでくれるが、存在感もしっかりある。
何より、革なので履くたびに皺や癖ができ、味わい深くなっていくのが楽しい。
ビルケンシュトック、おすすめです。

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