どうせ死ぬ三人#042【水野氏ゲスト回】を聴いて思うこと。あるいは考えること
これは、Spotifyで配信されているPodcast「どうせ死ぬ三人」#042優秀なAIに仕事を奪われた三人【四人目:水野太貴氏】を聴いた感想である。
先に申し上げておくと僕は「ゆる言語学ラジオ」のTシャツも「どうせ死ぬ三人」のTシャツも購入しているくらいには両番組及び両番組の出演者が好きで応援している。
通勤に片道1時間程かかる生活を送っているので、通勤中をどう楽しく過ごせるかがQOLに非常に大きく関わっている。そのような中で、これらの素晴らしいポッドキャスト番組との出会いは変え難い喜びに違いなく、日々感謝の念と共に拝聴させていただいている。
したがって、僕の心の中には批判の気持ちはかけらもなく、単に番組を視聴して思ったこと考えたことを記したもので、番組や出演者へのネガティブな感情は一切ないことは宣言しておきたい。
考えごとをする人としない人
#042では考えごとをする人と考えごとをしない人が居ることが話題となっていた。水野氏が考えごとをしないという点をmuro氏が「人である意味がない」と指摘したエピソードは別の場所でも(色んな意味での衝撃と共に)度々話題になっていた。
まず前提として、考えるということを一切しない哲学的ゾンビみたいな人は居ないはずである。なので、放送中に水野氏が話していたように、考えごとの射程が自分のことに近い人から遠い人まで、グラデーションになっているのではないかと思われる。
その上で、考えごとをする人=射程が遠い、考えごとをしない人=射程が近いと表現できる。
番組の中では上記の2つの区分で分けていたが、僕が思うに、射程が「遠い」「近い」の軸と「広い」「狭い」の軸があるのではないか。
これだけだと分かりにくいのでよりビジュアライズした図が下の通りである。
クソ分かりやすい。
そしてこの図を基に、考えごとをする人としない人を表すと次の通り。
この図で僕自身のことを表すとこのようになると思う。
僕自身の生活や人生に関わることについては僕はあまり考えない。考えたくない。自分に近いことは、思考の材料の中でも自分自身というファクターが非常に重みを持つ枷となってしまい、自由自在になんでも考えられるというわけにはいかないからだ。
例えば、自身の身体的特徴や年収、資格学歴経歴を無視して自分のことは考えられないだろう。
他方、自分と関係がないことは「自分自身がなんであるか」に制限を受けずに思考できるため、自由で楽しい(どこまで突き詰めても自分へのフィードバックは少ないので虚しくもある)。
考えごとは、自分に近いほど重力が強く、自由がない。
ちょっと歪んだことを言うと、自分自身というファクターが恵まれている人(努力して高めた人)は、自分に近いことを考えることも楽しいのではないかと想像する。
さらに歪んだことを言うと、家庭環境がめちゃくちゃだったり貧困な家庭で育った人、先天的に病気を抱えている人などは自分から遠いところで考えごとをするのが楽しかったり、あるいは救いだったりするのではないか。
少し話が逸れたが、思考射程図でいうと、僕の考え事は「遠い」そして「狭い」ということになる。遠い考えごとの方がエラいわけではないということは明らかで、僕の場合、自分自身からの逃避のために遠いことを考えているにすぎない。
また、思考射程図は考えごとの傾向を表しているだけで、僕自身も自分とは無関係なことを考えるのが好きなだけで、自分に関わることは全く考えないわけではない。考えろと言われればもちろん考えられる。
水野氏及びimu氏も遠い考えごとをする必要性を感じていないだけで、「遠いことの話題」になれば考えられないわけではないと思う。
ただ、「遠いことの話題」が目の前に現れているとき、すでにその話題は、その瞬間だけは自分にとって関わりのある「近い話題」になっている。そしてその話が終われば、すぐに「遠く」に変わっているはずである。なのでやはり、思考の射程が近いことには変わりがない。
考えごとは石ころを遠くに投げてみること
僕は一応、考えごとをする方の人だと自認している。なぜ僕=考えごとをする人は考えごとをするのだろうか。
水野氏から「考えてもわからないことを考えても仕方ない」というような印象を受けた(もちろん短い放送の中での短い発話から受けた印象なので勝手な誤解であろうと思われますが、勝手にそういう印象を受けたと述べさせて下さい。)。
考えごとを積極的にしない人は、考えるということを目的へ至るための手段としてしか見做していないのではないか。
一方、考えごとをする人は、おそらく考えるということ自体が目的化しており、その対象がなんでもいいのだ。思考を巡らせるというプロセスに意味や面白味を見出している(上水さんはこのような感じでしょうか)。もちろん着地点がなんでもいいわけではないだろうが、やっぱり重要なのはどちらかというとその過程にある。
つまり、考えごとをしない人は、的やゴールがあって初めて石を投げるのだが、考えごとをする人は的がなくてもとにかくやたらめったら石を投げまくる。
足を上げて重心を高くし、軸足を屈曲させ、腕をしならせる。投擲メカニクスそのものを追求する。どこに届くか、どこまで遠くへ投げられるかわからない。目の前に横たわる大きな川の対岸へ届くわけもないと分かっていても、石を投げる。
僕が思うに、川の中にぽちゃぽちゃと石が沈むばかりの、この虚しく見える営みは、やっぱり実際虚しい。けれど、思いがけず対岸へ石が届いて、より良いメカニクスが確立したり、川底に堆積した石がやがて向こう岸に渡るための飛び石や橋になったりするのではないか(ちょっと前向きすぎる都合の良い想像だが)。
もしかしたら意志がどこから来るのか、思考の射程が伸びた末にはっきりとわかるようになるかもしれない。
さいごに
ちなみに僕はもっぱらメカニクスを追求するのが好きで本当に意味のないタイプ。石がどこに飛んで行こうがどうでもいいのです。
それにしても色々考えてたらもう疲れたので今日はこのくらいでやめにします。
改めてゆる言語学ラジオとどうせ死ぬ三人に感謝を述べて、僕の感想文は終わり。