(再掲④)2023年のモネ展をもっと楽しみたいならコレ読んで!!!
こんばんは。
ぶんぶんです。
すぐに更新するかと思いきや、「せっかくだから…」という謎のもったいない精神が働き、イラスト4枚追加してましたら、いつのまにか4日間過ぎ去っておりました…。時が流れるの早ぁ…。
というか、あと17日後には正月とか、信じられないのですが??
私の心はまだ秋なのですが??
さて、それはさておき。
前回お伝えしました、1867年頃の仲良し印象派4人組メンバーのお話です。
あらすじ!
1867年にパリでビックイベントの万国博覧会が開催され、それと同時期に官展が開催されるので、これは名を売るチャンスだ!と意気込んで、大作を官展に応募した結果、全員落ちたみんな…(´;ω;`)
そこでバジールは、政府主催の官展に頼り切りになるのではなく、自分たちの手で展覧会を開けばいいじゃない!!と意気込みますが…展覧会開催費用が捻出できずに、企画倒れ…。そこまでお話しました。
今回はその後のお話です。
結果的には、このときバジールさんが考案したグループ展の構想が、後に1874年の印象派展の構想に繋がっていくんですが、ご存知の通り、印象派展にはバジールさんは作品を出品していません。
発案者が出品していないって、どゆこと!?ですが…実はバジールさん。
印象派展を開く少し前の、1870年に勃発した普仏戦争に
バジールさんは出兵して戦死してしまいます。
若かった…まじで、夭折の画家だった…。亡くなったのは、29歳の誕生日を迎える少し前の11月28日でした。
そう、印象派展は発案者バジールの死後に実現したんです。
戦時中、ルノワールさんも出兵を余儀なくされますが、生き残りたい一心で馬の世話係とかに志願して最前線へいかない仕事をして生き残ります。
モネとシスレーは妻子がいたんで、イギリスへ避難します。
あとシスレーさんは敵兵により家・財産を失い、翌年には父が破産して、大変なことになりますが、なんとか生き残りました。
ただ問題は、バジールさん!!
なぜかバジールさんだけが、激戦地への出兵を自ら志願し、結局、還らない人となっちゃうんです。まじでなんでぇ・・。
このときルノワールさんは「なんで自ら激戦地へ行くんだ!俺たちとこれからも絵を描くんじゃないのか!?ぜったい、行くな!」と引き留めたらしいんですが…。(海外の印象派ドラマでそういう感じのシーンがあるし、手紙も残っている)
あとバジールのお父様も「出兵取り消しする用のお金は出すから、戦地に行かないで!!」とバジールさんに懇願したのですが、バジールさんはそれを断り、遺言のような2対の絵を最後に描き遺して、戦地へ。還らぬ人に。
(個人的には、なぜバジールは戦場に自ら行ってしまったのか。ここが結構気になって、フランスの大回顧展まで行って調べたんですが、まだ謎のままです。)
戦後、バジールさんの死について、印象派のメンバーは誰も書き残してないんですが、それが逆に悲しさを物語っているというか…。
これがあったんで、日本でも異常に認知度が低いバジールさん。
ただ最近、ネットとかでちらほらバジールさん記事が出てきて嬉しい。
また学者の中でも、ちょっと前までは「バジール?あぁ、彼は未来ある画家だったけど、戦死したため、彼の画業は未熟のままに終わった。でも印象派の立役者的なポジションでの功績はあるよね」みたいな評価だったんですが、最近のフランスでの研究で「いやバジールさんは早くに亡くなったけど、めっちゃ才能あったし、フランス絵画史の中でもモネやセザンヌにも影響を与えた重要な画家だったんじゃね!?」と再評価されはじめてきました。嬉しい。
(ここだけの話、高階秀爾先生のとある本の中には、バジールの評価が昔は「未熟な」と書いてありましたが、最近その本が再版されて、その中のバジールの評価が訂正されていました。嬉しい。)
それで個人的に思っているのは、少なからず印象派メンバーたちは、生前バジールさんが「グループ展をやって、お前らのいい絵をみんなにみせたい」と語っていた想いを引き継いだからこそ、1874年の印象派展の開催へこぎつけたんだと思うんですよね。(他にも色々な要因があるとは思いますが)
その証拠といいますか。最後に私のお気に入りのエピソードをひとつ。
前々回で紹介したルノワールさんが描いたバジールさんの肖像画(↓)、1876年の印象派展に出品されていたらしいです。当時の出品目録にその記録があります。
そして、このとき。
バジールさんのお父様も印象派展を訪れていて、この絵を目にしたそうです。それでこの絵を、かつてバジールさんがモネさんの困窮を助けるために買ったある絵と交換で、バジールの肖像画(↑)を持ち帰ったというエピソードがあります。
ある絵とはこれです。↓ さっき紹介しました、あの絵です。
最終的に自分の死後、バジールさんがモネさんを助けるために買った絵と自分の友が描いた自分の肖像画が交換される日がくるとは、1867年のバジールさんは思ってもみなかったでしょうね。
不思議な縁もあるものです。
あと1867年のこの「庭の女たち」を購入したときのシーンですが、海外ドラマ「印象派若き日のモネと巨匠たち」では、モネさんが妻子がいるのにお金がなくて、親にも「恋人のカミーユと別れろ、でないと仕送りは送らない」と言われて悩むモネさんに「この絵(庭の女たち)を毎月分割で支払うからカミーユと別れるな」と説得したバジールさんの言葉が泣けるんですわ…。
これです。↓
なので個人的に胸アツなのは、後に有名になった1874年の印象派展は、バジールさんがいなければ、もう少し開催が遅かったかもしれないし、なかったかもしれないということです。あとそういう理由から、上野の国立西洋美術館の常設展示に早くバジールさんの絵が収蔵されてほしいですね。バジールさんの絵がそろえば、もうバッチリですからね。ただでさえ、あちら様の印象派コレクションは神レベルの収蔵品数ですから。バジールさんがそろえば、鬼に金棒ですわ。世界に誇れる。
最後に。
またどっかで取り上げるかもですが、バジールさんの故郷にファーブル美術館ってのがありまして、まぁバジールさん推しには欠かせない3大美術館の一つなのですが。
その美術館が面白い試みをしていたので、それだけ紹介しときますね。
題して
フレデリック・バジールがあなたに語りかけます!
Podcast du musée Fabre : Frédéric Bazille vous parle !
まぁ、要するにバジールさん目線で台本を書いた音声ガイドなんですがね。
ようできてるのですよ。
3つのバジールさんの作品と例のルノワールさんが描いたバジールさんの肖像画の計4点を取り上げて、各絵に合わせてバジールさんが当時の気持ちを吐露し、我々に語りかけてくれるという…。それはもう、バジール好きには堪らない、大・大・大興奮スペクタクル企画でございます。
公式何してくれちゃってんだ。バジールさんの声はこんなんだったのかよ。まさかバジールさんの声が公式(美術館)から公開される日がくるとは思わなかったんだわ。2018年のバジールの大回顧展で、バジールイベントは終わったんだと思ってたんだわ。まさかの公式からの供給があるとは思わなかったんだわ。あ、嬉しすぎて息が吸えない…。でもいいんだ。ありがとう、ありがとうー…いつ死んでも後悔はないーーー…。(オタク特有の早口)
あ、これです ↓ ここから聴けます。
毎晩、寝る前に聞いてます。はじめて見つけた日は、次の日が仕事なのに、なんだったら体力温存したい火曜日だったのに、夜中の3時ぐらいまで翻訳し続けて、身悶えしてしまいました。
は、話してもいいかな…?? え、エピソード4のところなんですがね…?バジールさんが戦争に行く直前まで描いていた2枚のうちの1枚の絵なんですが、その絵の回で、バジールさんは最後のメッセージにこんなことを語りかけてくれたんです…。
いや、ごめん。フランス語、わかんねぇわ。
ということで、
文明の利器~~!!ボイス音声翻訳アプリ~~ひゅーっ!!
で、翻訳した結果がこちらです。ちょい、内容をロマンチックに一部訂正してます。ニュアンスが伝わればいいかなぁって。あと途中から翻訳しているので、文章は抜粋してます。よろしくです。
「さようなら、友よ。」で涙腺崩壊するわ。よくマンガとかでそういうセリフありますけど、これは150年くらい前に本当にあった史実ですからね…!!
あと「さよなら」を「Adieu(アデュー)」にしてるところが泣く。
フランスではもう一回合う相手には「Au revoir(オール ボワール)」といいます。ニュアンス的には「また会いましょうね」です。
でも「Adieu(アデュー)」を使うときは、もう二度と会わないであろう相手に使います。
だからこれは本当に本当の
「さよなら」なんです~~(´;ω;`)
こ、公式~~!!ぶんぶんの涙腺を崩壊させて何が目的じゃ!!!!!!
ありがとう、ファーブル美術館・・・
今日は以上です。
笑いあり、涙ありの印象派のエピソード、おもしろすぎませんか?
誰か映画化しよ。海外ではドラマ化してるけど、若い頃の印象派について、もっと知りたいです。初期の印象派のエピソードを語るには、noteじゃ足らんのよ。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
今度はどこのあたりの印象派を紹介しようかな~~
マネさんがブチ切れて決闘したあたりとか、マネさんが善意でドガの絵を裁断するエピソードとかも面白いですよね。
またお会いしましょう!Au revoir!!