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②2023年のモネ展をもっと楽しみたいならコレ読んで!!!

おはようございます。ぶんぶんです。

本日も、先日行ってきた 上野の森美術館でやっているモネ展で展示されていた作品について、独り言ちたいと思います。前回同様、私だけの妄想で生み出したモネさん達の似顔絵出てくるので、苦手な方はブラウザバックお願いします。

参考文献は日本にある印象派の文献はほとんど読みましたが、結局、基本的には『印象派の歴史』ジョン・リウォルド著からの情報です。
タイトルにある通り、今回の展覧会をもっと楽しみたいなら、ジョン・リウォルドの『印象派の歴史』読んでからもう一回、展覧会に行くのもオススメです。文庫本出たんで、ぜひ気になった方はぜひ。特に若い頃の印象派のエピソードめっちゃ面白いので!

今回はその本の中から、展覧会に沿った絵で、印象派のモネさん周辺の面白いエピソードを抜粋しつつ、モネさんが27歳のときに描いたこの作品をご紹介します。↓

クロード・モネ「ルーヴル河岸」 1867年 デン・ハーグ美術館、オランダ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Quai_du_Louvre_1867,_by_Claude_Monet.jpg

そう…個人的に大変気に入っている時代…1867ねん…胸アツ…

いや、正しくは「印象派」というグループ名(?)が生まれたのが1874年からなので、美術史では1874年よりも前の時期の印象派の作品群は「印象派以前」とか言うんですけども。
それでも言わせてくださいませ。

1867年頃 の 印象派は各々のエピソードが死ぬほど楽しっくてよ!!!!!

どこが楽しいかといえば、この頃のモネさん、バジールさん、ルノワールさん、シスレーさんの4人組の距離感が近い。一緒に住んでたりしている。
あと同じモチーフを描き合ったり、友達の肖像画を描いたりしている。
こんなに仲の良い画家同士のエピソードが読めるのは、そう1867年(及び1864年から65年)の初期印象派だけだと個人的に思っております。

なんとなくわかる 

印象派 仲良し4人組 相関図

今回 主に話す印象派のメンバー仲良し4人組

なんで、はい。上記のモネさんと同年頃に描かれた同じパリの風景を描いたルノワールさんの作品をどうぞ。↓

ピエール=オーギュスト・ルノワール 「パリのポン・デ・ザール」 
1867年から1868年の間 ノートン サイモン美術館、アメリカ合衆国
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pierre-Auguste_Renoir_-_Le_Pont_des_Arts_Paris.jpg

モネさんとルノワールさんは結構同じモチーフを描いていて、有名なあたりだと「ラ・グルヌイエール」(1869年)かな~と思います。
でもその前から、二人はお互いに似たようなモチーフを描いているんですね。かわいいです。あ、この頃はルノワールさんがバジールさんの肖像画を描いたり、バジールさんとシスレーさんで同じ鳥のモチーフで絵を描いていたりしている素敵エピソードもあります。

なんで、みんながそれぞれの似顔絵を描いた作品たちを貼り付けておきますね(^^)
※画家名は敬称略しました。

〇 ルノワールさんが描いたバジールさん

ルノワール「バジールの肖像」1867年 オルセー美術館、パリ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Renoir_-_Fr%C3%A9d%C3%A9ric_Bazille_peignant_le_h%C3%A9ron,_1867,_D2006.3.5.jpg?uselang=ja

〇 バジールさんが描いたルノワールさん

バジール「ルノワールの肖像」1867年 オルセー美術館、パリ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fr%C3%A9d%C3%A9ric_Bazille_-_Renoir.jpg?uselang=ja

〇 ルノワールさんが描いたシスレーさん

ルノワール「アルフレッド・シスレーの肖像」1868年 財団 EG ビュールレ コレクション、スイス
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pierre-Auguste_Renoir_110.jpg

下記は余談で1864年頃に、モネさんとバジールさんがお互いに描き合った似顔絵…。エモすぎる…。

〇 モネさんが描いたバジールさん

モネ「バジールの肖像 サン シメオン農場にて」1864年 ファーブル美術館、モンペリエ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bazille,_Fr%C3%A9d%C3%A9ric_-_Self_Portrait_at_Saint-Sauveur.jpeg?uselang=ja
※2016年~17年にパリで開催されたバジール展のカタログ参照

〇 バジールさんが描いたモネさん

バジール「L'Ambulance improvisée (急ごしらえの病室とか病床のモネとか呼ばれている)」
1865年 オルセー美術館、パリ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bazille_L%27Ambulance_improvis%C3%A9e_1865.jpg

なぜかモネさんの似顔絵だけ、モネさんが足を怪我している姿(笑)

このときのモネさんは、超ビックサイズの絵を外で描こうとして、地面に穴を掘ってそこにキャンバスを入れて、絵を描いてたんですが、その穴に落っこちたらしいです。さすがっす、モネさん。エピソードに事欠かない。

話がずれて、すみません。

まとめると1867年頃の印象派は、モネさん、ルノワールさん、(たまにシスレーさん)ともに貧乏だったんで、唯一のお坊ちゃんバジールさんが借りていたアトリエに大集合する時期があり、そのときにお互いがお互いに影響を与え合う時期がありました!胸アツ!!という話です。


ルーブル美術館に模写しに行く印象派(参考図書:印象派の歴史 ジョン・リウォルド)


やっぱり同じ生活をしてたら、同じモチーフを描いたり、画風に影響を受けたりするようになるんですかね。
ふふふ…こんなやり取りがあったら楽しい…。(以下、妄想注意)

モネ「今日天気がめっちゃ良いから、外いって、描いてくるわ!」

ルノワール「え、じゃあ僕もいくーー!!」

シスレー「僕も~」

バジール「え…今月ピンチだから(主にお前らがいるせいで)、今日は安い食材の確保と資金繰りをしたいのだが…?お前らも手伝えなのだが…??」

モネ「安心しろ、昨日近所のおばちゃんにインゲン豆とビンズ豆を大量にもらった。食料はある。では絵を描きに行くぞ。」(貧乏には慣れている)

バジール「ぜんぶ豆じゃねーかッ!!いやだよ!」

ルノワール「食べるものがないよりはマシだね!!じゃあ行こうか!」(貧乏には慣れている)

バジール「ぜんぶ豆だが!?」

シスレー「バジール、こうなった二人は誰も止められないのだ…」(あきらめの眼差し)肩ポン・・・。

そしてバジールは結局、モネ達と絵を描きにはいったが、相変わらずお金はなかったので自分の時計を質に入れて、資金繰りをしたのであった…。

…みたいな。ぜんぶ妄想ですが。こういうやり取りがあったのかと思うと胸アツ。

仲間と絵を描くのは楽しいが、どんどん生活が貧しくなっていくバジール氏。

あ、でもこの頃、モネさんたちはお金がなくて豆ばかり食べていた話や、バジールさんが時計を売って資金繰りをしていた話はほんとです。

もちろん、金欠の原因はバジール宅に居候していた彼らです。↓

モネ氏とルノワール氏。夕食が豆だけでも絵が描ければそれでいい。

あとこのときはまだ、外で絵を描くっていうのが珍しい通り越して変人扱いされてたんで、もし仲良し4人組のみんながパリの風景を描くときにセーヌ川の畔とかで並んで描いてて、それを見た当時のパリの人々は「な、なんじゃありゃ…」って白い目で見てるけど、それを一切気にせず、キャッキャッいいながら切磋琢磨して絵を描いていたかと思うとエモいです。(オタク特有の早口)

あ、今回の展覧会にもこの頃に描かれたモネさんの絵がもう一枚ありましたね。これです。↓

クロード・モネ「サン=タドレスの小屋」1867年 ジュネーヴ美術歴史博物館、ジュネーヴ
https://www.wikiart.org/en/claude-monet/the-cabin-at-saint-adresse
夏にカミーユとの子どもができたって、パパに報告したら、再度仕送りを止められて、バジールさんがそれを見かねてモネさんのパパに「息子さんが食う飯もなく困っています、酷い有様です。(直訳:なんとかしてください)」と手紙を送ったところ、パパが「よろしい、ならばモネだけ家に帰ってこい」となったときに実家へ渋々帰ったモネが描いた絵。(長い)

モネさんのこのときの、イケイケドンドンな生命力を感じる良い絵ですね。
このときはあれでしたね。恋人のカミーユと子どもができてしまったのに、官展どスベリしたし、絵も売れないしで、超困窮生活してましたね。

このときのモネさんはバジールさんに宛てた手紙の中で「思わず身投げをしちまった…怪我しなかったけど」という自殺をほのめかす内容を送っていたりします。印象派のとある本には「自殺をほのめかす」っていう文章で、まじで書いてある。ほのめかすって(笑)

それを見かねて、バジールさんがモネさんの絵を分割払いで買い取ってあげるっていうエピソードも残っています。
バジールさん、優しすぎる…(´;ω;`)(しかし後にこの件でケンカする二人)

あ、ちなみに買ったのはこの絵です。↓

「庭の女たち」クロード・モネ 1866年 オルセー美術館、パリ 
https://www.musee-orsay.fr/en/artworks/femmes-au-jardin-807

あとせっかくなんで、

モネさんとルノワールさんとバジールさんの幼少期ついても独り言つ。


ルノワールさん


ルノワールさんは印象派の中でも特にお金がなかった組で、両親は仕立屋でした。9歳のときに聖歌隊に入って「天才か!?」と言われましたが、スケッチでも目を見張るものがあったので、父親が「これは早いうちから手に職をつければ食いっぱぐれない!!」という精神のもと、13歳で磁器の絵付け職人へ奉公に出されるルノワールさん。
そのあと装飾家として扇子や器や壁に絵を描いて飯代を稼いでいたらしいんですが、それも束の間。産業革命の影響で絵付けという仕事が機械化され、機械に職を奪われたルノワールさん、はやくも10代で失業することに(´;ω;`)

それで、どうすんべ~って思ってたときに、パリの街中にあった女性の美しい銅像とか、ルーブル美術館にあるワトー、ランクレ、ブーシェといった先人の画家たちの作品をみて、女性の美しさに目覚め、画家になるんだーーーー!!ってなったそうです。国立美術学校の学費は自分で稼いで、出しました。えらいよ、ルノさん…。
そしてあまりに有名すぎる、ルノさんの名言をどうぞ。

「もし女に乳房と尻がなかったら、私は絵描きにならなかっただろう」

ほんとにおっぱい好きだったんだねっ…。あと東京富士美術館にあるブーシェさんの「田園の奏楽」っていう作品を見たときに、これがルノワールさんが魅了されたおっぱいか…ってけっこう見入ってしまって、作品鑑賞どころじゃなかったよ…(知らねえよ)

そんなこんなでルノさん。苦労して入った美術学校の入学時の成績は

80名中68番目の成績。まじかよ。

そしてシャルル・グレールという画塾にも通うんですが、そこでも一時は12人中 9位の成績でした。けっこう成績低い!?

未来の愛され巨匠やぞ!?!?


当時はそんな低評価だった人が未来の巨匠って、なんだか励まされるエピソードで、ほっこりします。いまが上手くいかなくっても、それはそれ。人生、人の評価ばかり気にしてもアカンってやつですね。あと画塾に入って、お金がないから、画塾で捨てられていた、まだまだ使える絵の具を拾って再利用していたルノワールさんのエピソードは泣く。

モネさん

若い頃のモネさん

モネさんは、パリから離れた田舎の港町で食料品屋の次男坊として育ちました。よく学校を抜け出しては海をながめていたやんちゃボーイだったようです。モネさんにはレオンというお兄ちゃんがいる!!!!

ちなみにモネさんがはじめて「絵画」に触れたのは、お父さんの妹(モネさんからみたら叔母)のルカドール夫人のおかげだったのでは?と個人的に思ってます。この叔母さんが、けっこう美術好きで絵画のコレクションとかもあって、モネはその作品を小さい頃に見て、絵に興味を持ち始めたようです。

あとモネさんの学校生活ですが、よく学校を抜け出しては海をながめていたらしい。モネさんが「あれ?今日はめずらしく、席について授業受けてるな??(先生)」というときは、だいたい有名人の似顔絵を皮肉って描いてました。


クロード・モネ「Jules Didier」1860年頃
https://commons.wikimedia.org/wiki/Claude_Monet?uselang=ja#/media/File:Claude_Monet_-_Caricature_of_Jules_Didier.jpg



私が先生でしたら、まずは両親呼び出しますよね。
当時の先生も、もちろんそうしました。注意&お叱りを受けたモネさん。

しかし、反省する気ゼロ!!!

さすがですわ!そういうところにシビれる、憧れるゥ!!←

あと勉強の成績はサボってる割には悪くなかったそうです。先生はさぞかし、叱りずれぇ…となったことでしょう。


あと授業中に描いてた先生の似顔絵とか、当時の政治家とか画家とか有名人を皮肉って描いた絵とかが町で評判になり、町の文房具屋のショーウィンドーに展示されて、ちょこちょこ売れたりします。モネさんのドヤ顔が目に浮かびます。

そのショーウインドーをみて、モネに声をかけたのがブータン先生でした。

でもこのときのモネさんは、結構荒れてた時期でもあって。
お母さんがこの頃、亡くなってたんですね。
それがきっかけで大学入学資格を取得する前に退校したりしています。

そんなときにブータン先生が外に連れ出してくれて、モネさんが好きだった海の美しさ、空の広大さ、それらを自分の手で絵にしていく楽しさを先生は教えてくれました。

見ること、絵の具で描くこと、
風景画を作ることを学ぶんだ。
空や海、動物、人々、樹木はこんなにも美しい。
自然が作ったままの姿で、それぞれの性格や純粋さをもっている。

ブータン先生からの有り難いお言葉

あと個人的に勝手に妄想しているのは。
モネさんはチューブ絵の具に惹かれて、戸外制作はじめた気がしています。モネさんは新しいもの好きだから!!晩年だって、車が発売されたら、すーーーぐ買って、街中乗り回してたらしいですからね!!

このとき「チューブ絵の具」は、まだめずらしくて、昔は動物のとある部位の皮(お下品な部位なので書きませんが。)を使って絵の具を持ち歩くのが普通だったので、ブータン先生に最先端のチューブ絵の具をみせてもらったモネさんは絶対大興奮だったはず。

で、このあとに色々あったけど若いモネさん「俺、パリに行って絵を学ぶ!!」って言い出した。さぁ、モネのパパが大変ですわ。
とりあえず奨学金を申請するも、その返答を待たずにパリへ行くモネさん、まじ短気。
そして美術学校の入試試験を受けるも…

まさかの不合格。


そう…未来の巨匠、当時の美術学校の入試、落ちています。
ルノさんもいい成績じゃなかったし、モネさんは落ちてるし、このときのパリの試験がいかに、モネさんたち印象派の人達と気が合わなかったか伺えますね。当時の試験官の気持ちを今風でいえば、美大向けの立体的な鉛筆デッサンしろっていう入試で、モネさんはマンガ風の激ウマ デッサン提出したみたいな感じかもしれません。

「いや美大に入りたかったら、美大向けのデッサン出してぇ~~~~(´;ω;`)」by美大試験官の叫び


そんな試験官泣かせのモネさんはシャルル・グレールという画塾(今でいう予備校的な)で、ルノワールさんやバジールさん、シスレーさんと出会うんですね。

バジールさん

ちなみにバジールさんは、もともとパリには医学の勉強をするために来ていました。はじめは医者になるのが目標だったので、絵は趣味の範囲で頑張る的なノリだったんだと思います。しかしモネさんたちと同じ画塾に入ったのが運のツキ。
モネさんがバジールさんと出会って「こいつ!!金持ちや!!絶対離さねぇぞ!!」って思ったのかどうかは知りませんが、モネさんに目をつけられまして(言い方)。
一緒にシャイイに絵を描きに行こうぜ~とモネさんに写生旅行とかに誘われたバジールさんは、だんだん美術の世界の面白さに引き込まれ、画家を本格的に目指すようになっていきます。
1864年~65年頃には(モネさん達に会って1、2年経ったぐらいのとき)画家になりたいから、医者になれないという話をバジールさんは親にしたそうです。

バジールさんは、モンペリエというフランスの南の方の出身で、お父さんが上流階級出身の由緒ある家柄でした。で、伯父のルイ・バジールが町でも有名な芸術愛好家だったので、小さい頃からバジールは一級品の芸術作品に触れて育ちました。なんで、もともと美術系の素質があったっちゃ、あった。
でもお父様的には、金にならん絵描きより、医者になって堅実な生活をしてもらいたい…長男だし…。という思いがあったことでしょう。

ドンマイ、お父様。

モネさんやルノワールさん、シスレーさんの才能に触れて、絵の面白さを知っちゃったら、そりゃ画家目指しちゃうって…。


ほんとこれが未来の巨匠達じゃなかったら、バジールさんは普通に医者になっていたかもしれませんが…。

あとバジールさんがいると上流階級の人と繋がりができるから、金銭的にも、コネ的にも、モネさん達にとってバジールさんは大変有り難い存在だった。

あとバジールさんは

モネさん達よりも1歳年下。

なのに、このメンツの中では誰よりもしっかりしていた説。キャラ立ちすぎでは???

以上、幼少期編でした。シスレーさんエピソードも書きたいが、また今度にしよう…。シスレーさんこんな扱いでごめんね…シスレーさんの描く雲の表現とか空の色とか、空気感とか超好きだよ…。ルノワールさんと女の子好きで意気投合しちゃうとことかも好き…。

ほんとにこの頃の印象派のおもしろエピソードはつきない。

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あと1867年パリ万博があったんで、みんな気合い入れて官展に作品を出品した年でもあったんですよね。
では、なぜ皆がそこに命かけたかというと。
例えば。
今でいえば大阪万博がありますけど、もしその万博会場の付近に国主催の一大イベントの大展覧会があったら、皆、ついでに絵も観に行くじゃないですか。で、そこで話題になったら、メディアにも取り上げてもらえて、一躍有名アーティストになれるチャンスがある。次につながるお仕事がもらえるかもしれない。

1867年のパリ万博は、それと似たような感じです。世界中からパリ万博を観にお客さんが来るので、今回の官展で入選して。作品が展示されれば、これを機に自分の絵がメディアで取り上げられて、有名になるかもしれない…というビックチャンスだったわけです。そこで印象派の皆さん、めっちゃ気合い入れまくった大作をこのとき官展に提出しました。

また当時1867年頃のモネさん達の状況を簡単に言えば、皆、27歳ぐらいで就職せず、画家になるんだーーーー!という夢のもと、社会的には現状ニートと同じ扱いだったんで、家族にも恋人にも迷惑ばかりかけてました。
なので、…それは困る!このビックチャンス逃すかぁ!!

一発入選して大逆転狙うんじゃーーーーーー!!!!!!

はい、1867年の官展、入選者の結果は!!?

全員、落選するっていう…。

地獄かな…?

この頃のことをバジールさんが手紙で残しているんですが、
「現状の官展(サロン)は審査員の好みで入選作品が選ばれていて、俺らの絵がはじかれるのが大変不本意!!みんな良い絵を描いてるのに!!あと絵を描くのも、画家を目指すのもお金がかかるのに、審査員の好みで人生左右されるってどういうこと!?」プンプン

「もう官展に出品する意味がないわ!!」

(意訳)ってバジールさん激おこ。

26歳ですべて投げ売って画家稼業してんのに
「画風が新しすぎる」という理由で官展に入選しないので
いつまでたっても一人前の画家になれないし、友人達は自立しないしで
地獄みたいな状況だったバジール氏。

で、ちょうどこの頃にマネさんがパリ万博で2回目の個展やっていたこともあり、バジールさんはある策を閃く。それは…

自分たちだけのグループ展を開けばいいじゃん!?


お金が無い者同士が、お金を出し合って、それぞれの自信作をお披露目する場を作ると。今までは国が主催する官展でしか作品の発表の場がなかったし、個展を開くにも大金がいるしで、才能あるけど貧乏な画家たちは出世できないでいた。
だったら人数集めて、お金を出し合って、絵をそれぞれ数点持ち寄って、グループ展を開催しよう!国が主催じゃないから、審査員の評価は気にしなくていい!平等に作品を世間に発表できる!という希望のもと、「モネたちと個展開く!!」と意気込むバジールさん。(一番年下)

今ではアーティストの人たちが集まってグループ展を開くって普通の考え方だと思いますが、ここが原点です。グループ展を開くっていう考え方の始まりは、こんな感じで始まりました。

そこでバジールさんは印象派メンバー含め「官展ありえないよね」っていう考え方の画家グループたち、みんなに声をかけて資金繰りを始めます。

が、結局、グループ展が開催できる額の資金は集まらず…。


<補足>
ちなみにマネさんは官僚の親に2000万円ほど出してもらって個展開催したよ!(ブルジョワの本気)つまり個展開催には当時、2000万円は確実に必要だったんだね!この時代にクラウドファンディングがあればよかったね!!

グループ展の件は、いったん保留になります。
しかしこのときのグループ展の構想が、後に1874年の印象派展の構想に繋がっていくんです。
それが叶うのは1870年に勃発した普仏戦争の後なのですが、このときの戦争で、グループ展の提案者、バジールさんは出兵して戦死してしまいます。
そう、印象派展は発案者バジールの死後に実現しました。

戦時中、ルノワールさんも出兵を余儀なくされますが、生き残りたい一心で馬の世話係とかに志願して最前線へいかない仕事をして生き残り、モネはイギリスへ避難します。シスレーは敵兵により家・財産を失い、翌年には父が破産して、大変なことになりますが、なんとか生き残りました。
しかしバジールさんだけが、自ら激戦地への出兵を志願し、結局、還らない人となります。
このときルノワールさんは「なんで自ら激戦地へ行くんだ!俺たちとこれからも絵を描くんじゃないのか!?ぜったい、行くな!」と引き留めたらしいんですが…。(海外の印象派ドラマでそういう感じのシーンがある)
あとバジールのお父様も「出兵取り消しする用のお金を出すから、戦地に行かないで!!」とバジールさんに提案したのですが、バジールさんは断り、遺言のような2対の絵を最後に描き遺して、戦地へ。還らぬ人に。
(個人的には、なぜバジールは戦場に自ら行ってしまったのか。ここが結構気になって、フランスの大回顧展まで行って調べたんですが、まだ謎のままです。)

戦後、バジールさんの死について、印象派のメンバーは誰も書き残してないんですが、それが逆に悲しさを物語っているというか…。
それで個人的に思ってるのは、少なからず印象派メンバーたちは、生前バジールさんが「グループ展をやって、お前らのいい絵をみんなにみせたい」と語っていた想いを引き継いだからこそ、1874年の印象派展の開催へこぎつけたんだと思うんですよね。(他にも色々な要因があるとは思いますが)

その証拠といいますか。最後に私のお気に入りのエピソードをひとつ。

さっき紹介したルノワールさんが描いたバジールさんの肖像画(↓)、1876年の印象派展に出品されていたらしいです。当時の出品目録にその記録があります。

このときバジールさんのお父様も印象派展を訪れていて、この絵を目にしたそうです。それでこの絵を、かつてバジールさんがモネさんの困窮を助けるために買ったある絵と交換で、このバジールの肖像画を持ち帰ったというエピソードがあります。

ある絵とはこれです。↓ さっき紹介しました、あの絵です。

なので個人的に胸アツなのは、後に有名になった1874年の印象派展は、バジールさんがいなければ、もう少し開催が遅かったかもしれないし、なかったかもしれないということです。

今日は以上です。
笑いあり、涙ありの印象派のエピソード、おもしろすぎませんか?
誰か映画化しよ。海外ではドラマ化してるけど、若い頃の印象派について、もっと知りたいです。初期の印象派のエピソードを語るには、noteじゃ足らんのよ。

あ、だめだ…10,000字超えた…。ひとりごととは…。
今日はこのへんにしときます。
次回は、バジールが戦争で死んだ後の年に描かれたモネさんの作品か、1926年の皆に先立たれても絵筆を取った晩年のモネさんの話か…。
まぁ…どっちかを書くと思います。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました!

今日はモネさんが亡くなった日。モネさんの絵が未来永劫ずっと愛されますように!!



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