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そんな日のアーカイブ 馬場あき子講演 「日本の恋の歌」

まことに大きな題である。いつかやりたい大きなテーマではあるのだが、今日は近代の恋の歌に話を絞る。

落合直文という歌人がいる。

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地味なぱっとしない歌人である。彼が44,5歳のころ、明治34年に作ったこんな歌がある

「かのひとの 目より落ちなば いつわりの 涙をわれは うれしとおもわん」

華やかな派手な情熱ではなく、身を引いたところで歌っている。今から思えばひどく斬新な感じがする。対象に距離をおき、知的な気取りがあって、沈静化されている。恋人の涙への憧れはヨーロッパ近代詩の影響をうけ、早々と現れたテクニックである。

明治から大正の時代は語り草になる恋のなかで新鮮な危うい恋の言葉が紡がれた。比べて、現代はなぜ恋が語られないのか。噂になるような恋はしていないのか。していても内緒にしているのか。
恋愛が許されていて噂にならないのか。たくさん歌が歌われているのにフィクションだといわれリアリティについて話されない。

明治の末、大正の前期、歌人たちは激しい情熱で愛し合い、立場をおしのけて奔放な愛を実践し作品を残した。浪漫的青春の感性と自然主義の影響で自分の心に忠実に生きようとした。今に残る当時の言葉はなお新鮮である。

牛飼い(搾乳業)であった伊藤左千夫はアララギの新しい時代の短歌を作った。

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「牛飼が 歌よむ時に 世の中の 新しき歌 大いにおこる」

新しき歌は庶民生活者の中から生まれる、と。そして左千夫は「恋愛は人生の最大の芸術だ」とも言っている。

「花におう 君がこころに 夕闇の ほのかにふれて 身をあやまてり」

明治44年左千夫48歳の作である。妻子在る身で人目を忍ぶ恋をしたのだった。左千夫はこの二年後に亡くなる。最晩年の恋だった。感情に忠実に生きようという信条に基づきこの恋を貫こうとした。そしてその一年後、死ぬ一年前に愛人を別れている。

「今朝の朝の つゆひやびやと 秋風や すべてかそ(幽)けき ほろび(寂滅)の光」

晩年の恋の決別が描かれている。どこかつややかな悲しみが含まれている。「今朝の朝」というのは重なりなっているがそんなものは気にならない。「秋風や」の「や」は言葉の腕力である。
「つゆひやびやと秋風や」という詠嘆が読むものの身にしみる。恋愛と命の終わりの予感と恋の残像が潜んでいる。

リアリズムと情熱を一度に実践してこんな美しい歌を作った。胸の奥になる純情の思い。その情熱と断念。


長塚節というひとがいる。

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茨城の豪農で、小説「土」を書いた。子規、左千夫に私淑し、茂吉、赤彦に先んじ、アララギの中心になって活躍したひとである。

明治44年黒田節子と婚約したが、節に咽頭結核が見つかり、自ら破談にした。大正2年に病状が悪化し、節子が介抱し、断念した愛がもう一度燃え上がった。

「さきわいを ひとはまた得よ さもあらばあれ 我が泣く涙 拭えあえなく」

「さもあらばあれ」は、それを願うのにまちがいはないのだけれど、そういっても、という意味。
そうはいっても、次から次に涙が流れてならないのである。死に行く自分を断念してくれと言っている。つらいけれどこれ以上の愛はない。上半句の優しさがいい。

名を成したアララギ派の男性歌人の没年齢を調べるとみな五十歳を出ず死んだ人が多い。

若山牧水 43歳 中村憲吉 41歳 古泉千樫 41歳 石川啄木 20歳 長塚節 36歳。

明治の青春は懸命に燃えて亡くなった。

浪漫系は長生きしている。女性歌人も長生きだ。女性は産む器であるから。運命を恋によって変化させながらも、燃え尽きない。燃えて、悲劇にあっても我が身を保つ女性の見事さ。

昭和が近づくにつれて短歌から恋の歌が消えていく。


吉井勇はこんな歌を詠んだ。

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「君に誓う 阿蘇の煙の たゆるとも 万葉集の 歌滅ぶとも」

明治の恋は激しく比喩も大きく男らしい。大正の恋は苦しげで屈託の翳りが美しい。真摯でひたむきが心が伝わってくる。真実をかすかに秘めることで恋の純度を上げようとしている。

白秋のうたはこうだ。

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「君かへす 朝の舗石 さくさくと 雪よ林檎の 香のごとくふれ」

恋の美しさを林檎の香の雪という比喩で歌っている。ひそかなひめやかな比喩。純情な言葉に酔う。小さな世界を描きながら、あまねく人間のこころにあこがれとして広がっていく広い情緒を獲得している。

茂吉にはこういう歌がある。

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「たまきはる 命ひかりて ふりたれば いなとはいいて けゆなにもよる」

この歌には場面がある。吉井勇の歌にことがらはあるが具体はない。現場がない。

大正の恋の歌には現場が増えた。リアルな場面を写しながら、それがフィクションであることもあるが、そこに自分の心情を添えていく。そこには人間の生のなまなましい苦悩が存在する。

近代の女性は、自立する女性の幸せを求め、それを許してくれる男性を求めるようになる。が、世の中が熟していなかたので悲劇が生まれ、そういう女性の恋は失敗が多い。そのあわれの歌が残っている。哀切な情緒が残されている。

原阿佐緒は明治末年から大正期を生きた女性で、世間に翻弄されながら自分の理想を求めて生きた。

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明治32年、阿佐緒は宮城県の山奥の大和町宮床から母とともに上京した。実家は「しずや」という屋号を持つ大富豪だった。母親は阿佐緒に絵の素養を身につけさせたくて女子美へ入れた。18歳のときに阿佐緒は「しずや」の家督を相続している。

女子美の英語教師、美青年で先端的でモダンな小原要逸との恋愛関係が発覚した。阿佐緒は妊娠していた。学校を去り国へ帰った。小原に妻子があると知って自殺を図ったが未遂に終わった。やがて小原と結婚して郷里に帰った。

明治40年20歳の阿佐緒は長男千秋を生んだ。(千秋はのちに映画監督になり「小熊物語」を作るも不評で「しずや」の財産を失った)小原とはほどなく離婚する。

阿佐緒は仙台の文芸誌「シャルル」に入り、賛助会員となった。その後明星・新詩社に入り、与謝野晶子に師事し、古泉千樫と知り合う。そして明星を脱会してアララギに入会した。それは浮気なのではなく、求めるこころの激しさをあらわしている。

大正二年に処女歌集「涙痕」(るいこん)を出した。与謝野晶子が序文を書き吉井勇が序歌を寄せた。「アララギ」がその歌集の宣伝を載せた。

大正3年に洋画家庄子勇氏と結婚し、一年後次男保美が生まれる。(のちに俳優になった)しかし夫はだんだん家庭を顧みなくなった。その後、著名は物理学者石原純との恋愛し、家を出た。世間からは非難された。

阿佐緒の人生にいろいろ恋愛模様はあったがもっともこころにとめていたのは古泉千樫だろう。古泉千樫にも妻子があった。大正二年の交際だった。

「かなしくも さやかに恋と ならぬまに 捨てなんとさえ まどひぬるかな」

と阿佐緒が歌えば、千樫は書簡にこんな歌を書く。

「桃の花 くれない沈む しかすがに 乙女のごとき おみななりけり」
「朝なれば さやらさやらに 君の帯 結ぶ響きの かなしかりけり」

身にしみるいい歌である。しかし、ふたりの恋はやがて妻清子の知るところとなり、次女を産んだばかりの清子の乳が止まり赤ん坊は3ヶ月で死んでしまった。それで千樫は我に返り、目がさめた。阿佐緒もまた肉体関係を持ったことを後悔したのだった。

若山牧水は明治39年(調べると40年だったりするのだが)園田小枝子と出会い恋に落ちた。小枝子は美しいひとで、牧水は有頂天になった。

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「山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇(くち)を君」

「吾木香 (われもこう) すすきかるかや 秋草の さびしききはみ 君におくらむ」

しかし小枝子には夫と子がいたのを隠して付き合っていたのだった。牧水が小枝子の現実を知る日が来るが、そのとき小枝子は妊娠していた。牧水の子だという。多額の保障をしなければならず憔悴して、明治44年春に終止符を打った。

同年夏の太田水穂宅で初めて太田喜志子に出会い、明治45年にプロポーズした。牧水は喜志子に二日おきに手紙を出している。4月27日には「逃げてきてください。親兄弟をお捨てなさい」と書き送っている。

手紙の情熱、純情な青春である。大正期の自然主義の思想である。自分の意思で決定する。貧乏でもいい、手鍋提げてもという暮らしのなかで、愛は育つのではないか。喜志子はそれを実行し、牧水の下宿へ向かった。そこから出発した。

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bunbukuro(ぶんぶくろ)
読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️