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そんな日のアーカイブ 玄侑宗久講演 「宮沢賢治における修羅と慈悲」

仏教において愛は良い言葉ではない。それは妄執である。仏教で愛に相当するのは慈悲である。

「宮沢賢治を論じるのは猛獣が入っている檻に入っていくようなものだ」と言われている。それほど賢治を愛する人は多く、「わたしの賢治」となっているから、迂闊なことはいえない。

しかし、賢治の父親の政次郎さんは賢治の死後たずねてきたひとには「賢治を知りたいなら仏教を勉強してください」と言っていた。(だから玄侑さんは大丈夫)

「春と修羅」という詩集がある。

仏教で「六道」というのは、こころがたどる六つの段階のことである。地獄・餓鬼・畜生を三途という。もともとは三塗と書いた。その上に修羅がある。人間同士が争っている世界である。その上のじんかん(人間)は人間関係の悩みであり、そのうえの天は人間関係が喜びである世界だ。

修羅は阿修羅ともいう。 興福寺の阿修羅像は美しい。阿修羅は、こうしたいけれどこうできない怒り、自分に対する怒りを感じている。そういう美しさを持っているのではないか。

賢治は誰とどのように争っていたのか。それは見えてこなくて自分に怒っていたのではないかと思われる。

父親との争いもあった。

それは自分の中学時代を思い起こさせる。お寺に生まれ、後を継いでくれるものという暗黙の期待を感じていた。遠くまで見えるレールを歩いていくのはいやだが、納得しようとして、勉強していた。しかし、お寺が生活の場になっているのが納得できなくなる。お布施で暮らしている。葬式があると、つまり人が死ぬと生活費が入るということが大きな悩みになった。

賢治が争ったのは父親の政次郎だった。政次郎は暁烏敏を呼んで仏教の勉強会を主催するような熱心な浄土真宗の信者だった。それに対して賢治は法華経に心酔していた。在家の法華経行者になろうという宗派に属していく。父親との信仰のちがいが軋轢になっていく。

家業の古着の質屋にも反発していた。お寺と同じで困っているひとが客なのだ。晩御飯というと口論になっていた。賢治は家出癖があり、新興宗教に出入りしていた。

玄侑さんも父親と口論していた。玄侑さんはかつおが大好きなので、掲示板にお布施にはかつおがほしいと書くべきだと言ったりした。

お釈迦さんは一生お布施で暮らした。食事をいただきものですました。それは食べたいものを食べられない暮らしだ。それをあえてやっていた。考えようによってはとてもつらい。それでもお釈迦さんはベジタリアンの弟子に時には肉を食べよと言ってたりする。お金はお釈迦さまの気持ちに反するのではないか、と思った。

賢治は父親との争いを後に振り返って書いている。死の床で清書した『文語詩稿・一百篇』にある題名のない詩だ。

「われのみみちにたゞしきと、
 ちちのいかりをあざわらひ、
 ははのなげきをさげすみて、
 さこそは得つるやまひゆゑ、
 こゑはむなしく息あへぎ、
 春は來れども日に三たび、
 あせうちながしのたうてば、
 すがたばかりは録されし、
 下品さんげのさまなせり」

「自分が信仰を考えると、自分が正しいと思って、父の怒りをあざ笑い、母の嘆きをさげすむ日々だった」

苦しみの話は修羅の内実で、体を悪くして後悔して書いている。

懺悔のしかたには三つある。上品(じょうぼん)懺悔は毛穴と目から血がでる。中品(ちゅうぼん)懺悔は発熱して目から血がでる。下品(げぼん)懺悔は発熱して目から涙がでる。賢治は発熱して涙を流している。その姿ばかりが似ている。

賢治は法華経でいこうと決意したのだった。仏の慈悲がいきわたっている状態を賢治は「春」と呼んでいるが、現実はなかなか修羅から抜け出せないでいた。

夕食時の口論が続いた。父政次郎は「なにも喧嘩じゃないんだからそうムキになるなよ」と言っていた。

賢治は求道一本やりだったかといえば、あるべき「春」が頭ではわかっていても、うまくいかなくてガタガタしていた。賢治は生活の上でまったく自立したことがなく、親の金を使いまくっていた。玄侑さんがお寺の暮らしに納得できなくても、かつおを食べていたのと同じだ。

禁忌は好きだから禁じることに意味がある。禁じられたことでエネルギーを溜め込むことができるのはそうではない性(さが)があるからだ。

「ほおっておくとどこへいくがわからないので、わたしが手綱をつけていたのです」と政次郎さんは言う。

賢治は蓄音機を買い、クラシックレコードを買いまくり、英語を習いにいき、アインシュタインの本を読んでいた。色っぽい浮世絵もいっぱい持っていた。古着屋の親父が稼いだ金で買いまくっていた。

そうはいってもねー。レコードは聴きたいし、~はしたいしという思いが賢治のなかにあった。
なにしろずっと父親の金で暮らし、一生自立していないのだから、修羅は父親との争いというより、理想がはっきりありながらそうできない自分への怒りだった。

賢治は怒りをブルーという色で表すことが多いが、その怒りが不甲斐ない自分へ常にフィードバックされ、創作の意欲になっていた。

賢治の世界で、慈悲は「春」と表現された。慈悲というのはとてもやっかいである。

瞑想をするときに心がけるべき4つの方向性がある。
慈-サンクリット語でいうとマイトリー。あらゆる生き物にたいする友愛のこと。友情のようにすべてを愛すること。
悲-カルナー。他人の悲しみに同調すること。
喜-ミデター。他人がうれしいということをそのままうれしがれること。「ご同慶の至り」のこと。そこに嫉妬が入らない。(嫉妬はやっかいでおそろしいものである。能面は嫉妬が進むと変化する。その最上級は般若で、その下が泥顔である)
捨-ウデクシャー。どんなことがあっても極端に大げさな表現をしない。

その4つの方向に自分のこころを広げなさいとお釈迦さんは言った。しかしこの慈悲というのは、誰にでもできてかなうものとして想定されはいなかった。はるかに目指すべき仏のあり方とされていた。実現不可能ではあるが、はるかな目標は大事だと。

実現不可能なことを目指そうとすると美しくなる。人を美しくする効果がある。僧侶の修行では汁の椀が水平から曲げてはならない、箸は垂直から曲げてはならないと注意されるが、まあそんなことは絶対できないのだけれど、そういうことを気にしていると食べる姿が美しくなる。

慈悲喜捨は実現不可能である。

大乗仏教では、あらゆる命を殺さないためのプログラムであるお釈迦さんの教えにはみんなが混じれないとした。それでは生産活動ができないと。
お釈迦さんの教えには混じれないけれど、それでも仏教を学びたいひとのために大乗仏教ができた。そのなかに法華経もでてくる。

六道を越えたものに、声聞・縁覚・菩薩・仏がある。

声聞は羅漢さんの位で、耳の大きい人、人の話を聞くことに関して特段優れているひとは六道を越える。仏というはるかな目標を目指すひとに誰もがなれるという考え方になっていく。目指すことは誰でもできる。

菩薩というものは誰にでもなれる。日蓮上人は地湧の菩薩のさきがけだった。仏におさまっていなくて自分も苦しみながらみんなを助けていこうというのが菩薩である。お悟りをひらいた人が山から降りて人といっしょに暮らしていこうとすることだ。

自分たちも菩薩になれると考えるのが大乗仏教である。大乗仏教の教えは困ったことになってきた。自分が救われなくても人を救うことができるという考えになっていく。

しかし、子供が悩み苦しんでいるときにいっしょに悩み苦しむことは子供の役に立つのだろうか。
水の中で溺れかかっている子供を助けるにはかなり泳げないと助けられない。自分が泳げないのに助けに行ってしまうひとがいる。そういう「自分が渡っていないのにひとを渡してしまう」という考え方に賢治はかなりとりつかれていた。自分を犠牲にすることが慈悲ではないかと思い込んでしまったフシがある。

「銀河鉄道の夜」ではジョバンニが、死んでしまったカムパネルラといっしょに電車に乗って死の国へ行く。「銀河鉄道の夜」は死んであの世へ旅に出る中陰の物語である。そしてカムパネルラは天国に一番近い駅で降りる。

カムパネルラの死んだ原因はおぼれかかった友人のザネリを助けたからだった。身を捧げて犠牲になったこの死はもっとも天国に近いというのである。

このようなことを書いた賢治の作品は多い。「二十六夜」というのは初期の動物小説で、フクロウの和尚が説教をする。フクロウたちのヒーローである疾翔大力はもとは南天竺の雀だった。

あるとき飢饉で、6歳の子とその母親が空腹で餓死しそうだった。それを見かねて疾翔大力(そのときは雀だった)は遠くの森へ木の実を取りに行った。木の実を10個見つけてその親子の下へ運んだ。一個でも自分が食べることに罪悪感を感じた。それで自分はなにも食べず、10個まるごと親子に運んだ。10個目を運ぶときふらふらになって地面に落ちた。そして自分も食べてもらおうと死んだふりをした。

その功徳により疾翔大力は仏に会い、次第に法力を身につけ「火の中に入れどもその毛一つも傷つかず、水に入れどもその羽一つぬれぬという」菩薩になった。

正倉院の玉虫の厨子に捨身飼虎図が描かれている。飢えたトラにわが身を食べさせるために崖から落ちたのである。これは仏教にはない。自己犠牲を目指すものではないのだ。自爆(テロではないが)して、良いところへいけると考えると危ない。厨子にあるのは、間違って落ちたひとがおっちょこちょいだけどいい人だったということからできた話だろう。

賢治は自己犠牲の物語にとりつかれていく。慈悲にとりつかれてしまう。他人に対して元気な波動を発散できるくらいに元気でないと慈悲にはならない。実際賢治は病気になっている。

金子みすずは仏教をよく学んでいる。


   「すずと、 ことりと、それからわたし、
    みんな ちがって、みんな、いい」

表現者は極端を目指すので、そこでやめられずに

   「わたしはすきになりたいな、
    だれでもかれでもみいんな。
    お医者さんでも、からすでも、
    のこらずすきになりたいな。
    世界のものはみィんな、
    神さまがおつくりなったもの」

と表現する。それは難しいことだ。個人の幸福に先立って世界の幸福を願うのは順番がちがう。それは仏教ではない。

表現者は突出したものを目指す。表現するものの表現である。時にひとは言いすぎることがある。それで、金子みすずは夫さえ愛せない自分を許せなくなり、自殺に及ぶ。

小林一茶は30歳のとき、北陸に出向き、良寛の父親である橘以南に俳句の詠み比べを挑んだ。そのときのテーマが慈悲だった。一茶は詠んだ。

「やれうつな ハエが手をする 足をする」

それに対して70才の橘以南はこう詠んだ。


「そこ踏むな 夕べ ホタルがいたところ」

一茶は思わず、参りましたと頭を下げた。しかしその以南の句では、どこも踏めないことになってしまって蟄居するしかない。表現が常に行き過ぎるいい例である。
(以南も京都桂川で入水自殺している)

「虫を踏むかもしれないから歩くな」とかなり無茶なことをお釈迦さんは言っている。「女性にも接するな」とも言っている。賢治はそれに習おうとした。童貞でベジタリアン。

生きとしいけるものすべてに慈しみを注ぐのが慈悲であり、それ以外悪循環を断ちこることはできないという考えだ。

しかし、童話「なめとこ山の熊」で、賢治は猟師が命がけで撃つのはちがうだろうと訴える。生きとしいけるものすべてに慈しみを注ぐというお釈迦さんの慈悲の教えにこだわったのは確かだが、
それに対していろんなものを書いて考えようとした。

生命の連鎖の対して賢治はいろいろ書いているが、その連鎖にせつなさを感じている。やむをえないことだという童話も書いている。

賢治はお釈迦さんへのこだわりがすごかった。

お釈迦さんは最期のときに百歳を越えたひとが弟子になりたいとやって来た。弟子たちはこんなときにと止めたがお釈迦さんは「会うから通してくれ」と言った。

賢治が最期を迎えるとき、肥料の相談にきたひとがいた。賢治は身内のひとを制して「いいから通してくれ」と言ったのだった。


読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️