旅を思う。
レオレオーニの絵本に性格の違う二匹のノミがいた。好奇心に満ち冒険心をもつ行動的なノミは、ここではないところへ行こうと言い、つねに命の危機のリスクを考える慎重なノミは、ここにいようと言う。
それぞれの生き方に是非は付けられない。そう思ってしまう自分を抑え込むことはなかなか難しい。
2022.5/17.18の萩津和野の旅で、山に囲まれた町並みのなかで、その話を思い出した。
松下村塾の小さな家屋の壁に飾られた肖像写真を見ていると、この山あいの小さな町から歴史の舞台へ飛び出して、時代のうねりの中で大きな役割を果たした人物たちがこんなにたくさん輩出されていることに驚く。
それはそういう波乱の時代に、国を憂い志を立てることの意味を説いたひとがいたから、ということもあるが、そのおおもとには、山の向こうへの好奇心やそこでこことは違う生き方をしてみたいというやまれぬ思いがあったのだろうなと推察する。
当然、そんな危険なことを、と尻込みしたひともいるだろうし、ここが好きだから、ここにいなければならないからここにいる、と言い張ったひともいたことだろう。
こことそこの距離は人生も隔てる。出ていった人間にとって見るもの聞くもの出会うもの全てが新鮮で、敬愛し学ぶべきものであり、同時にその場に馴染むための努力が求められる。
生まれ育った土地の価値観とは異なる環境に身を置くことは、片側に強い向上心を持たなければ、大きなストレスとなることだろう。
そのバランスのどちらに重心を置くか、それがそれぞれの人生を異なるものにするのだろうな。
耐えきれないストレスで挫折する予感に、ここがいい!と言い切ることになるのかもしれない。この写真の向こう側の、志を立てることもなく、ここにいることを決めたひとたちが、この町を存続させてきた。山あいの小さな町を出ないという決意と共に。
☆☆☆☆☆
あたしは旅があまり好きではない。旅という非日常では、何が起こるかわからんぞ、という不安が大きいからだ。
リスクを考える度に荷物が増え、これを抱えて移動するしんどさに出かける前にぐったりしてしまう。
計画することが苦手なせいもある。何が起こるかわからんから計画してもその通りにいかないと思うし、なにより計画に振り回されるのがきゅうくつだ。
いきあたりばったりがいいのだけど、それはそれでリスクがある。理屈の堂々巡り。旅を思うと、なんだかため息が出る。
人生の大半を生まれた土地とは違う場所で過ごしてきた。転勤族の夫を持ってみればいたしかたがない。否応なしに、行きなさいと言われた土地に住むとこになる。
岐阜各務原、東京文京区、国分寺、山梨甲府、横浜、東京品川、そんな町に住んだ。
人生の大半の日常が旅のようなもので、どこにいっても、新しい土地の見知らぬひとたちとの暮らしが、それまでの繋がりをご破算にして、初めまして!から始まる。
ここにいたい人間がそこではない場所で人生の大半を過ごし、やがて、生まれ育った土地に戻ってきたわけなのだが、家人の実家では、また初めまして!なのだ。それでいながら、この家の嫁というポジションにおかれ、まわりは知らない人ばかりなのに、気楽な匿名性はない。
自分が立ち回りが下手くそなんだろうけど、それにしても、京都でのその感覚はなんとも居心地が悪い。
今のところ、ここはここではなく、新しいあっちで、なかなかここにならないのは、コロナ禍という事情も大きいのだが、関東圏に人生の思い出の大半と、その時間を共に過ごしたたいせつなひとたちを置いてきた寂しさが根っこにある。
だから、今は旅にでてもいいやと思ったりするのだ。家人の計画に乗って、お気楽に、窓の外の景色を眺めているだけでもいいや、って。名所旧跡とかじゃなくても、どの町でも、人の暮らしの輪郭にそれなりの面白さを見つけられるようにはなってきたから。
あーそうか、結局、人生が旅なんだな、と思ったりしている。