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そんな日のアーカイブ 16 2004年の評論家 川本三郎

「白秋―若き詩人の肖像」   講義録

日本では年齢というものが話題になり語られるが、海外の本には何年生まれという明記はない。

近代日本は100年の西洋化を大忙しでやったので、ひとりの人間のなかで時代がめまぐるしくかわり、年齢的ギャップができるので時間というものに敏感にならざるをえなかったのだろう。

それは青春というものにもかかわってくる。

近年、青春という言葉は使われなくなった。青春の価値が低くなっている。モラトリアムとは、年を取っても若いひとのことを言う。

文芸評論家の磯田光一氏は青春の特色を1.性の問題 2.死の問題 3.革命の問題に敏感になることだといっている。

1.性の問題。SEXは開放された。60年代はどうやって性体験するかは大きな問題だった。
2.結核、肺病は死病だった。戦後ほとんど治るようになった。青春の悩みではなくなった。
3.ソ連などを見ても、もはや死語になっている。

かつての特色が時代から消えてしまった。青春という劇的なドラマが消えうせていっている。

若さ=青春という考え方、価値観は時代によって変わる。相対的な価値である。例えば、アメリカでは、1960年代 ジョン・F・ケネディが40歳代で大統領になった。大人社会から若者社会へ変わった。

カウンターカルチャー ユースクエイク―若者が文化政治で反乱を起こし、意義を申したてた。「30歳以上のひとを信じるな」というのが合言葉のようだった。

50年代に若者はいなかった。ただ通過の時期だった。アイゼンハワーを頂点にして大人が価値のあるものであり、早く大人になることが求められた。

オードリー・ヘップバーンの主演する映画「ローマの休日」や「サブリナ」では相手役が40~50歳代である。同世代の男と恋愛していない。恋の相手が年齢差20以上のおじさんでも当時は不思議に思われなかった。そのように若者に価値がなかったが、やがてオードリーの相手役をおじさんたちから奪い返したのだった。

現在日本では若さが強調されている。高度成長期からバブルの時代、若さがたたえられていた。若さが謳歌された時代だった。

明治の作家漱石は立派なひげを蓄え大人の男の顔をしている。老けてみえる。大人というものに価値があったが、やがてそれが揺らいで青春、若者が価値のあるものになった。

第三次産業への時代の変化があった。第一次、第二次産業では年長者の知恵が大切にされたが
第三次産業では年長者より若い方が技術革新を受け入れやすい。「渡辺恒夫氏対IT産業の若者」の図である。高度成長以来これで来た。

青春はひとつの時代によって規定された相対的価値であり、誰かが作り上げた物語、神話、病であり常に時代と先に揺れ動いていくものである。

北原白秋は昭和17年57歳で死亡した。詩人だけで通したひと(日本ではめずらしい)である。
筆一本でやってきた。(今、詩だけで食っていけるのは谷川俊太郎だけ)詩とのかかわりがとても深い。全存在が詩人だったひとだ。

明治時代に生まれた白秋が芸術(詩)に一生かけたというのはすごいことだ。明治というのは時代としては前向きの、青春の時代だった。実業の世界に青春のエネルギーを注ぎ込む環境、汗水たらして働け、というのが時代の正統的な考えだった。その時代に詩はそれほど価値を認められてはいなかったが、白秋は早い時代から文学に目覚めた。

明治12年生まれの永井荷風は文学をやること反対され挫折があったが、それでも文学をやろうと心にきめていた確信犯だった。漱石や鴎外は国家の実学のために官費留学したが、荷風は私費留学だった。荷風はおよそ国家のことなど考えていなかった。文学を学ぶ留学だった。

白秋は九州、柳川の旧家に生まれた。15,6歳のときに詩に目覚め晶子、藤村を愛読した。芸術に目覚めるのが青春のひとつの特権であろう。

実学の国家的使命から外れていき正統から異端になった青年がそのギャップに悩む。その悩みに目覚めたところで近代の文学が生まれ、青春が生まれた。その悩める姿が青春だったと理解したい。

造り酒屋の旧家の息子で家を継ぐことを期待されていたのに詩にひかれ、そのことが父親の嘆きや怒りの対象になり、隠れて読んだ。隠すために地面に埋めたこともあった。

国家のような非文学からの圧力、そして父親からの圧力がなくなっているのが、今、青春がなくなった原因かもしれない。

白秋は柳川で10代から詩歌を作っていた。父親は断固として国家的要請をする。母親は芸事の好きなひとで三味線をひいたり小説を読んだりしていて、軟派少年に理解があった。母と息子の密通のようであった。

そして実学の裏側でややデカダンな習い事や小説へ入っていった。ダブルスタンダードがあった。

高校卒業して上京した。故郷を離れて東京に出てくるのも青春の特色である。三浦雅士は「青春の終焉」で青春はひとつのイデオロギーだと言っている。(三浦氏は青森出身でカルチャーギャップに悩んだ)
1.三角関係 2.革命 3.自殺 4.故郷 が特徴だといっている。

白秋にとっても故郷の重みがものすごく大きい。柳川の重みである。「思い出」(柳川を歌ったもの)で注目を浴びた。

柳川での文学少年仲間でロシア語の勉強していた中村ミズオが日露戦争下スパイだと嫌疑をかけられ、ナイフを咽喉にあて自殺した。父親との対立と親友の自殺によって白秋は自我の思い、青春というものを意識する。

白秋は日露戦争にはほとんど関心をもたず、背を向けていた。それは永井荷風にも共通する。当時荷風はニューヨークにいたが、滞米中いっさい戦争に触れていない。まったくの無関心だった。そういう価値観の外にいた。

日露戦争(1904年、明治37年2月から翌年にかけて)後、こういう人間が増えていく。国として壮年期にさしかかり、自信を深めた頃、詩人や文学者を余計者扱いしなくなり、青年という言葉が生まれた。壮士と呼ばれる人が青年と呼ばれるようになって、華々しく煩悶する青年が現れたのは日露戦争の後からではないか。文化、文学に溶け込んでいつもおかしな青年が登場してくるのが日露戦争のあとのことである。

日露戦争後の東京へ上京した白秋は幸運だった。芸術グループ「パンの会」(パンはギリシャ神話の牧神(パン))は、明治末期の耽美派の青年芸術家グループの懇談会で、反自然主義を掲げた。

山本鼎・石井柏亭ら美術雑誌「方寸」の洋画家と木下杢太郎・白秋ら雑誌「スバル」の詩人が交流をはかったという。

そこで若い白秋たちは押さえられていた芸術への野心、詩や芸術への憧憬をアピールしていこうという芸術運動を起こした。

フランスの詩人や画家に思いを託した。そこから強いイメージが生まれていく。

それまではイギリス、ドイツに対する尊敬度が高かったが、フランスに対する評価が深くなっていった。武張ったドイツとはちがってプラスのイメージが作られていく。

フランスに対する強い憧れを持つようになる。そのフランスのイメージを借りて自分たちは新しいのだと宣言していった。

西洋文化に対する憧憬が生まれる。西洋文化に惹かれていくのが青年の特色である。上田敏の「海潮音」が出版されたのも日露戦争後である。(M43)

フランス留学をしたひとの書いた「パリの美術学生」という本の影響を受け、パリ的フランス的なものが白秋たちに影響しボヘミアンの生活をするようになった。

もう一度、青春の特徴である1.三角関係 2.革命 3.自殺 4.故郷 を白秋に当てはめて考えてみると、親友の自殺を経験し、故郷柳川から東京へ上京し、人妻との恋、つまり三角関係を経験して姦通罪に問われ、芸術的な意味での革命は白秋のなかで西洋への限りない憧れ、フランスに対する憧れが生まれたのだということになる。そういったいくつかのメルクマークで白秋の青春が作られていった。

いまや西洋への憧れもなくなり、手ごたえのある他者圧力がなくなったので、青春、若者というのがなくなっている。白秋の生きた時代は青春というものが発見された幸せな時代だったと思う。

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2004年の文学学校。テーマは青春。備忘のための覚え書きのようなものも残しておこう。

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bunbukuro(ぶんぶくろ)
読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️