坂東玉三郎が演じるこの舞踊をみるのに理屈はいらない。
あざやかな着物の引き抜きに拍手し、そのあでやかさにため息をつきながら、鷺の精の生き様にただ見惚れるのいいのだと思う。
見惚れているときれぎれに「きれい」「かわいい」「せつない」「はかない」「あわれな」などという言葉が吐息のように自然にわいてくる。
素直にその感動を味わえばいいだのと思う。
米原万理さんのエッセイに生まれてはじめてオペラを見たNという男性が出てくる。どうせ自分はオペラなんてわからないし、寝てしまうだろうから後ろの席でいい、と言っていたひとが第一幕の終わりにこう言うのだ。
「ああ、ああ、あのおなごの声のちれーなこと、ちれーなこと。オペラってええもんだったんだな」
この素朴でまっすぐな感動はいっしょにいたオペラ通のインテリたちを恥じ入らせるほど力強かったのだという。それは実に幸せな出会いだ。歌舞伎との出会いもそんなふうであったら、一生楽しめるに違いない。
玉三郎のサイトにこんな一文がある。
この二つの演目はある意味歌舞伎の両極であり、どちらも歌舞伎の魅力にあふれている。
この演目が初めての出会いのものであったら、とちらを見てもN氏のように歌舞伎って「ええもんだったんだな」という思いを抱くにちがいない。
玉三郎自身がこう言っている。
それにしても、玉三郎が舞台に立つとなにもしていないのに、なにやら幻を纏っているような気がする。
おとこでありながら、おんなであるという幻。生身の人間でありながら鷺の精であるという幻。今目の前に見えているもののうえにおのおのの想像力が生み出すなにものかが現れるのか。
傘を差し、ただ俯いてせりから上がってくるその立ち姿の美しさ。確かにそこにありながらふっと消えてしまいそうなあわあわとした存在感。「ちれー」だ。
歌舞伎役者の筋肉は修練の賜物である。そして女形の体の線もまたそうなのだ。
「ぼくの演劇の目的のひとつは、技術なり練磨なりが、資質に見えていく」ことだと玉三郎自身が書いているように、生まれつきの骨格であるかに見えても、その見え方を常に意識の底に置き、あらゆる所作の意味を計算しつくした立ち姿である。
彼が「人間の動きに対しての美しさは重力からの解放にあるのではないか」というように、そのしなやかな肢体は重力を感じさせない。顔の造作、声の質もさることながら、骨格のありよう、肉のつきかた、その太さ細さというものが芝居や舞踊の大きな要素であると感じ入る。
鳴り物が次第に高鳴っていく。傳左衛門の重々しい掛け声も鼓も押し寄せる高波のように客席に襲いかかってくる。その音にあわせ狂ったように降りしきる雪のなかで、あわれ傷ついた鷺が最後の力を振り絞って舞う。飛び立とうとして飛び立てない。やがて力が尽きる。
ずっとその姿が忘れられずにいる。
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