聞き分ける
東京に住んでいた頃のこと。
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小雨が降る朝早くコンビニへ出かけると、途中の団地のゴミ置き場を掃除しているひとがいた。よくみかけるおばあさんだ。
あたしがその前を通ると、こちらを見て
「まあ、どうしたの?大丈夫?」
と声をかけてきた。
朝早くだったせいもあって、左頬に肌色のテープを貼らないでガーゼのまま出かけた。そのガーゼに気付いてそう言った。
(あたしは、悪性腫瘍の手術で左顎の関節を取っている。もう痛みはないが、再生手術をしていないので左頬はへこんだままだ。そこをカバーするためのガーゼであり、デープである)
片頬になってから、数え切れないほど同じ質問をされた。言葉にならない視線が問いかけてくることもあった。
好奇心はだれにでもある。あのひといったいどうしたのかしら、知りたいわ、という思いがにじむ声もあれば、ああ、なんだか可愛そう、でも、自分がそうでなくてよかったわという響きもある。
普通ではないことが気になる人もたくさんいて、奇異なものを見る視線には、無言で詰問しているような気配がある。
立ち入ってはいけないと思いつつも気になって、つい見てしまうという感じのチラチラとした視線もある。
そのたびにイライラと過敏に反応してしまう自分がいやだったけれど、
相手が自分を見て反応してしまうのは、ひととしては、自然なことかもしれないとも思うようになった。
ずっと、そんなことを重ねているうちに、いつしか、問うて来る同じ言葉でも、その声に含まれる何かが違う、と思うようになった。
見当ちがいもあるかもしれないが、相手がどんなこころもちでたずねているかが、なんとなくわかってしまうようになった。
信号待ちしているときに振り返った工員風のひとは、いきなり
「どうした?痛むか?」
と聞いた。
露天商のおにいさんは
「可哀想に、はやくなおるといいな」
と果物のおまけをしてくれた。
そのふたりの言葉は真摯で、そして、いいようもなくあたたかだった。おばあさんの声もまたそんなふうに聞こえた。
痛みを案じる思いがあり、手を差し伸べるような声だった。
自分に、なにかできることがあるかい?と問うている声でもあった。
自分が、あるいはまわりのひとが、大きな怪我をしたり、病んだりした経験があるひとたちなのかもしれない。
それがおおきなマイナスとなることもあるのも承知しているが、
遠い日の痛みの記憶、大切なひとの苦しみをそばで見るつらさせつなさは、いつか他人を思いやるあたたかさに変わることがある。
自分もそうなれているか、と自問する。