黒の深淵 vol.4 「〝オブジェ〟の土の黒」◆陶芸作家「八木一夫」を語る(大長智広)
取材・文/岡崎素子
もともとちょっと違うスタートだった
―― 八木さんは陶芸の家に生まれながら、造形的なものへと作風を変化させていきました。その経緯を教えてください。
八木さんは、やきものの町として知られる京都の五条坂界隈で生まれました。
13歳で、美術工芸学校の彫刻科に入学しています。卒業後は、沼田一雅氏に師事し、陶磁彫刻を学びました。フランス・セーブルで技術を身につけた沼田氏は、日本の陶彫分野で先駆的な役割を果たした人です。
このように、早い時期からやきものの器物ではない部分の技術・視点を身につけていたことも、器物などの形式に縛られない作風につながった一因になっているのかもしれません。
父親である八木一艸氏も陶芸家でした。中国陶磁など伝統的なものに精通していて、型物や轆轤による優れた作品を多く遺しています。
その一方で、1920年に仲間と一緒に「赤土社」を結成するなど、革新的な活動も展開しています。
作品には作品名がつけられていますよね。例えば鉄絵(鉄分を含む着色料で文様を描く技法)で花を描いた壺なら「鉄絵花文壺」というように、それまでの工芸作品は、装飾の技法、文様、形状がそのまま作品名になっていることがほとんどでした。
こうした慣習を破り、《安らかの住家へ》など、自分たちの心象風景を反映させた、情緒的な作品名をやきものにはじめてつけたのが一艸氏たちだったといわれています。
このように八木さんは、五条坂という伝統的なやきものづくりの環境に身を置きながら、古典からはもちろんのこと、当時の日本では目新しかった陶彫の技や、進取の気風を持つ父親といった多様な要素から影響を受けていたことがわかります。
いわゆる五条坂のやきもの屋さんのイメージとは、ちょっと違うスタートだったといえると思います。
1940年代の終わりに、パブロ・ピカソがやきものをはじめると、そのようすは日本の雑誌などでもすぐに取り上げられるようになりました。
八木さんは1948年に、「走泥社」を起ち上げていますが、ピカソが器物に描き出すイメージや、その器物の形態などから触発されたような作品を、グループのメンバーとともにつくっています。
この他にも、パウル・クレー、マックス・エルンストといった画家の作品からの影響も受けていて、それは当時の作品意匠にも如実に表れています。イサム・ノグチの彫刻からは、土という素材の扱い方についての新しい視座を獲得しています。
こうした中で、轆轤でひいたものを変形させ、それに異なる印象の新しいものを重ねていったり、古典どうしを掛け合わせてみたり。中国の形をベースに、朝鮮王朝(李朝)風の模様をつけるというように、異種のものを混在させた作品をつくるようになりました。
実際にはどのような考えで新しい様式とつき合っていたのかはわからないところもありますが、ジャンルを超えたさまざまな人たちから強い刺激を受けていたことは確かです。
オブジェではなく花器だった?
―― 八木さんへの絶対的な評価につながったオブジェ作品は、こうした延長線上に生まれたものなのですね。
八木さんはたくさんの文章を残していますが、自身の作品や技術については多くを語っていません。思わせぶりな作品をつくっておいて、周りが好き勝手に解釈するのを聞きながら作品の道筋をつけていくといったところがあったように感じています。
《ザムザ氏の散歩》でも、自分では後々の回想で触れることはあっても、結局、核心的なところを語っていません。というよりも、周囲のさまざまな意味づけによって評価が高まり、いつしか “オブジェ陶”の記念碑的な作品になっていった過程を、逆に利用していたようにも思います。
僕は八木さん自身が、発表当時、あの作品を本当に非実用的な「オブジェ」として自覚的にとらえていたかについては少し懐疑的なんです。発表された同時期の作品から考えると、意識的かどうかは別にしても、花器としての要素も持たせていたのではないかと思っています。事実、同時期にパイプを口に見立てたような、似た形状の花器やそれに類するものを複数制作しています。実は、その一連の作品の中の一つだったのかもしれないと。
それにもかかわらず、ネーミングや造形の秀逸さから、周囲が勝手に意味づけをはじめ、「オブジェ陶の記念碑」へと祭り上げたと考えられます。調べてみると、「轆轤で成形したからこそ」という作品評価も実は後づけだったみたいですし。
周囲の見方に反応して、見事に次のステップに踏み出す。しかもそれを楽しんでどんどんと高みにのぼっていくところが八木さんにはあったように思います。
求めていた黒とは新しい時代に必要な土らしさ
―― 八木さんが黒陶を選んだ理由はどのようなものだったのでしょう?
白化粧(色のついた土に白色の化粧土を塗る技法)や無釉焼締(釉薬をかけず高温で焼成した陶器)などの技術で作品を作っていた八木さんが、黒陶をはじめたのは1957年ごろからです。
一般的には、彫刻的な仕事へと変化した八木さんが、そのフォルムを鋭角的に見せるために黒陶をはじめたといわれることが多いですよね。
八木さんの黒陶は、低い温度で素焼きしたあと、自分でつくった黒陶専用の窯に入れて、油分の多い松の葉などと一緒に焼いて制作されていました。
黒陶の黒は、不完全燃焼を起こすことで発生した煤を表面に吸着させるものです。温度が上昇してよく燃えた場合、煤はとんでしまうので黒色にはなりません。また土は、温度が高いほど変形する性質を持っています。つまり、最初から最後まで焼成温度を低い段階に保つことで、ゆがんだりする危険をかなり抑えることができるわけです。もちろん、土の調合にも気を使う必要がありますが……。
しかも釉薬をかけていないので輪郭線も甘くなりません。
このように黒陶は、シャープな黒色とともに自分が思い描いていたフォルムを比較的保つことができる技術なのです。
そもそも黒陶は、中国古代の技術で、炭素を吸着させた黒色の土器のことです。土器としては高度な技術でしたが、高火度焼成や釉薬の技術が発達した後はほぼ完全にすたれました。日本でも瓦や昔の「こたつ」などを除いては用いられることはなく、もちろん、日本陶芸史という文脈でも語られることはありませんでした。
八木さんは、まったく新しい技術を開発してものをつくるというよりは、古典的な技法をうまく取り入れながら仕事をした作家でしたので、古代の埋もれた技法を見直していく中で再発見したのかもしれません。また、父の一艸氏も黒陶の技術を身につけていました。それを見ていて自らの制作に取り入れたということも考えられます。
ただよくいわれているように、黒色だから無機質というとらえ方は、八木さんの場合には当てはまらないと思います。焼き締めとか、釉薬をかけるとか、絵付けをするとか、そういうものとは違う次元で、土が持っている本来の表情や質感を出すための技術。八木さんはそうとらえて黒陶をつくっていたのではないかと僕は思っています。
黒陶では、土の面がそのまま、作品の仕上げに関係します。土の肌は、その表面の磨き方によっても質感を変えていきます。石やスプーンの背でどんな風に磨くかで黒の光沢の出方に違いが出るのです。
逆に磨かないとざらっとした質感の黒になります。その使い分けもよく考えられています。
晩年になると黒陶に鉛板を貼った作品を創作しています。材質感の違いに加えて、土の黒に対して金属のグレーを対峙させることで、土が持っている素朴さといった本質的なものを引き出そうとしています。黒陶という土の肌を通じて、茶陶でいうわびやさび、「味」などとは違う独特の持ち味を出す。おそらくこのあたりが、古典の黒陶を今にいかす現代作家としての目線なんだと思います。
その上で、さまざまなアイデアを試みていますが、結局のところ八木さんが求めていた黒とは新しい時代に必要な土らしさだったのではないかという気がしています。
批判されても愚直にやり通す
―― 八木さんが果たした功績はどのようなものだとお考えですか?
八木さんは食器のほか、晩年になると茶碗を手がけるなど、生涯を通じて器物もつくり続けています。実用的なものと造形的なものは、最初から最後まで共存していました。
1950年代から60年代にかけて、意識的にクラフトにかかわった時期があります。生計を立てるという側面もあったのかもしれませんが、やはり生活との結びつきでやきものがつくり出されてきたという背景を考えると、五条坂のやきもの屋という出自を大事にしていたのではないでしょうか。
その意味で、終始、伝統的な陶芸そのものを否定したことはありませんし、いたずらに「新しい」ものに飛びついたわけでもありませんでした。
八木さんの功績といえば、もちろん作品そのものもですが、“オブジェ陶”という造形世界を広く世に知らしめた点が一番大きいのではないでしょうか。
それ以前にもオブジェ的な創作を試みた作家はいましたが、最終的には八木さんほどの評価を得ていません。仕事をはじめた当初は、陶芸界からはなんでそんなものを土でつくるのかといわれる。彫刻の世界からは「彫刻」としては認めてもらえない。
それでも八木さんは、批判を気にすることなく「陶芸家」としての自己を信じて愚直にやり通しました。やり続けて、土の造形という一つの立場を確立して認めさせた。その仕事は、オブジェ陶や器物が併存したものでしたし、「茶碗もオブジェ」という八木さんの言葉は、今日まで重要な問題を投げかけています。その功績には計り知れないものがあると思います。