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現代アジアの華人たち vol.4 ◆ タンシンマンコン・パッタジット (早稲田大学講師)後編
漢字、言語、食、風習――。中国ルーツの文化に生きる〝華人〟は、広くアジアの各地に暮らしています。
80年代、90年代生まれの、社会で活躍する華人や中国研究者の言葉を通して、私たちの前に見えてくるものは何でしょうか。
今回登場するのは、タイ出身の華人で早稲田大学で講師を務めるタンシンマンコン・パッタジットさん。今回も前編と後編に分けて掲載します。
インタビューと構成は、北京大学大学院で中国近代文学を専攻した河内滴さんです。
タンシンマンコン・パッタジット (早稲田大学講師)
1988年生まれ、チェンマイ市出身のタイ華人。チュラーロンコーン大学中国語学科を卒業後、在中国タイ王国大使館で勤務。その後、早稲田大学社会科学研究科で修士課程、博士課程を修了。現在は早稲田大学講師を務める。博士論文「戦後タイ社会における中国認識の変遷 -1960年代~1990年代を中心に-」。
◆◆◆
〝タイ人〟とは誰か
―― 後編では、ジェーさんの博士論文「戦後タイ社会における中国認識の変遷 -1960年代~1990年代を中心に-」の内容についておうかがいします。本題に入る前に、現在のタイと中国の関係について教えていただけますか。
タイと中国は1975年に国交回復し、今にいたるまで友好関係を保っています。王室は長年にわたって中国の歴代指導部と交流していますし、経済的な結びつきも強いです。タイでは中国の発展を好意的に捉える「中国機会論」が根強いです。タイと中国の間には歴史認識や領土をめぐる問題がないこともこれに寄与していると思われます。
コロナ禍の前は、多いときで年間1000万人以上の中国人観光客がタイを訪れていました。コロナ禍になって、タイ経済がどれだけ中国人に支えられていたかを、改めて実感している人は多いと思います。また、タイ社会に溶け込んで、政治や経済の世界で中心的役割を担うタイ華人も少なくありません。
―― ジェーさんの博士論文に関連して、特にお聞きしたいのは次の2点です。1点目は、タイは歴史的にどのように華僑をタイ社会の一員として受け入れてきたのか。2点目は、論文のタイトルにもなっている、戦後タイ社会の中国認識の変遷についてです。
それらの問いに答えるためには、はじめに「タイ人とは誰を指すのか」という定義の話をしたほうがよいかと思います。
村嶋英治先生というタイ研究の大家が、さまざまな先行研究を参考にしつつ、国籍による規定とは別に、タイ社会において「タイ人」とみなされるための3つの要件を指摘しました。すなわち、①経済的定着、②タイ語教育によるタイ語・タイ史・タイ文化の習得、③タイ国王・民族への政治的忠誠――です。
ここで注目してもらいたいのは、タイ人の要件に「血統」が含まれていないことです。村嶋先生の指摘によると、そもそも近代的な国民意識が形成された19世紀末において、タイ社会には、土着民だけでなく、ラーオやクメール、中国系住民などの多様な種族が存在していました。これらすべての種族を含めて形成されたのが「タイ人」なのです。
歴史を振り返ってみても、外国人としてタイにやってきた人が、やがてタイ人同様にタイの国家や社会の中心で活躍するケースがよく見られます。
たとえば、山田長政という日本人武士の名前を聞いたことはありますか? 彼はアユタヤで日本人義勇兵の隊長として活躍し、後に当時の王様から最高レベルの官位を与えられ、タイ人としての名前も授かっています。つまりタイ人同様に、タイ社会に受け入れられたということですね。
18世紀後半には、現在のバンコクを流れるチャオプラヤー川の西岸でトンブリー朝が興りました。その初代タークシン王は、広東省の潮州にルーツを持つ華僑2世です。今でもバンコクには、このタークシン王を祀った寺院があります。
現代で言えば、戦後にASEAN(東南アジア諸国連合)の創設とその強化に尽力したタナット外相や、タクシン元首相も中華系のルーツを持っていますね。
血統の話をすれば、前編でもお話したように、私自身の体内を流れているのは完全に〝中国人の血〟です。父方と母方の両方の祖父母が中国からタイにやってきたので。でも、私のアイデンティティとしては100%がタイ人です。同時に華人としてのアイデンティティも100%持っています。タイ人であり華人でもあることが衝突せず、どちらも私のなかに存在しているのです。
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―― 〝生まれ〟だけに縛られず、〝行い〟も非常に重視されるのですね。ジェーさんは博士論文のなかで、華僑を含む外国人のタイ人同化政策について「包括的な発想を有するものであった」と述べています。この点について、詳しくお話しいただけますか。
清の末期は戦争と内乱が続く不安定な国情で、さらに蒸気船の登場によって海外渡航のハードルが下がりました。その結果、タイに流入する華僑が急増しました。
そうしたなかで、1903年と1907年に孫文がタイを訪れます。清王朝の打倒を目指す孫文の革命思想は華僑たちを感化し、中国への帰属意識を高めました。タイ経済を支えている華僑が中国への帰属意識を強く持つことは、国にとって不安要素になります。何より、王政を敷くタイにとって、孫文の目指す共和制の社会は警戒すべきものでした。
これを受けて、タイは華僑の同化政策にいよいよ本格的に着手します。1911年に即位したラーマ6世の治世は、一般的にタイナショナリズム高揚の時代と言われています。それは、高まる華僑ナショナリズムへの警戒の裏返しでもありました。
では、そのタイナショナリズムは、華僑を含む外国人を排除するようなものだったのか。ラーマ6世は当時、「タイよ目覚めよ!」という文章を書いています。そこには華僑に関連してこう書かれています。「中国人の子のなかには『真のタイ人』になるつもりの者もいるが、少ない。中国人とタイ人を同時に兼ねることは不可能である。タイ人と自称しながら中国人社会のリーダーを務め、西洋諸国のサブジェクトとなっているカメレオン的人間は困りものである」――と。
たしかに華僑を警戒する論調は見られますが、タイから中国人を追い出せといったことはこの文章では述べられていません。むしろ、明言はしていないものの「真のタイ人になること」が暗に求められているのではないかと私は見ています。
実際にそのことを証明するかのような出来事があります。1912年に成立した中華民国は、その後3度にわたってタイに使節団を派遣し、国交樹立を求めますが、ラーマ6世はこれをすべて拒否します。なぜなら国交が結ばれると、タイにいる華僑たちは正式に「外国人」になってしまうからです。そうなると、タイに開設される中国公使館が、華僑の管轄権を握ることになります。
同じ交渉は、先代のラーマ5世と清朝の間でも繰り広げられましたが、ラーマ5世も同様の理由でこれを拒否しています。後代のラーマ7世にいたっては、中国人はタイにとって「有益」であり、「良きかつ勤勉なシャム(タイ)市民の源泉」であるとの認識を示しました。
一連の言動から読み取れるのは、タイは決して華僑を追い出そうとしなかったということです。むしろ、タイを支える貴重な経済力であり、労働力である華僑を、どのようにタイ社会のなかに包み込んでいくか――。そうした問題意識だったのではないでしょうか。
この時代につくられたさまざまな法律を見ても、そこには華僑をタイ人化するための環境整備の側面があると言えます。そして、それらの法律でも、やはりタイ人であることに「血統」は問われていないのです。
ここまで述べてきた状況を総合して、私はタイの同化政策には、排他的ではなく、包摂的な発想があったと認識しています。
―― 1937年に日中戦争が始まると、タイ華僑たちの間で再び華僑ナショナリズムが高まりを見せます。その頃、タイ政府は華僑の動きを念頭に、国内の非タイ国民にさまざまな規制を実施します。こうした規制に対して、華僑の側から反発は起きなかったのでしょうか。
いわゆる「経済タイ化政策」「封じ込め政策」と言われるものですね。詳しく資料を見ないと断定的なことは言えませんが、日々の生活に影響が出ますので、反発がまったくなかったとは考えにくいでしょう。私の父親もそうですが、中国語をあまり話せないタイ華人が多いのは、この頃の教育政策の改革に起因しています。
記録に残っている当時の事件の話をすると、第二次世界大戦後に起きた「掠打事件」という出来事があります。
第二次世界大戦にタイは枢軸国側として参戦し、やがて終戦を迎えました。一方、連合国に属した中国は戦勝国です。戦勝国の意識に酔いしれた一部の華僑は、タイが敗戦国であることから、タイの法律を無視した行動をとり、タイ官憲に取り締まられました。それに不満を持った華僑らが、中華街を通ったタイ人に暴力をふるい、そこから政府と華僑との武力衝突にまで発展したのが「掠打事件」です。
この事件には、それまで抑圧を受けていた華僑の不満が表面化した側面があると言えます。とはいえ、その掠打事件もほんの1週間程度で収束したことから、そこまで大きな規模の事件ではなかったと思います。今のタイ華人でこの事件を知っている人はほとんどいません。
結果論になりますが、今もタイ社会では多くの華人が政治経済の中心で活躍していますし、タイ華人にヘイトスピーチが向けられるようなことも以前よりだいぶ減ってきています。
同化政策には華人のアイデンティティを抹殺する側面があることも否定できませんが、大局的にはこの過程は平和裏にうまく進み、そのことはタイ人と華人の間で大きな摩擦が生まれていないことに繋がっています。
タイは隠れた華人国家である」という言葉を以前にインターネット上で見て、言い得て妙だと思いました。
「悪魔」化された中国
―― ここからは、2つ目の話題に移りたいと思います。今でこそタイと中国は友好関係にあるとのことですが、戦後ではタイは中国をどのように認識していたのでしょうか。
あるタイ人研究者は、戦後タイの中国認識は「悪魔」から「天使」へ、そして「天使」から「人間」へ移っていった――と興味深い比喩で説明しています。私としては、この説明は単純化されすぎていると思っていて、論文のなかでは再検討しています。ただ、全体の流れとしては、分かりやすい比喩だと思います。
「悪魔」というのは、共産化した中国を指します。もともと、タイは1933年に共産主義を違法化しています。王政を敷き、なおかつ仏教が深く根付いたタイにとって、そもそも共産主義は相容れないものでした。
中国では1949年の国共内戦を経て、共産党率いる新中国が建国されます。時は冷戦のまっただなか。自国に共産化の波が来ることを恐れたタイ政府は、再び反共キャンペーンを展開します。中国や北ベトナムなどの共産主義国家を、獰猛な野獣のように扱い始めたのです。1951年に発行された「The Red Hand of Communism(共産主義の赤い手)」とのタイトルの反共ポスターは、その分かりやすい一例だと思います。
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〈出典〉U.S. Information Agency. (1951) Bureau of Programs. Press and Publications Service. Publications Division.
反共キャンペーンの結果、国民のなかには共産主義に対して「悪魔」的なイメージが定着しました。また、タイ政府としては、タイ華人たちのコミュニティを共産主義の温床とみなして警戒します。したがって、華人は自ら進んで「自分は非共産主義者だ」と主張する必要がありました。
―― 華人へのそうした警戒はいつまで続いたのでしょうか。
1970年代までですね。国際情勢の変化を受け、タイの対中国政策にも変化が見られるようになったからです。
ベトナム戦争が泥沼化しはじめた1960年代後半、アメリカ国内では反戦ムードが高まっていました。国民の反戦を求める声を受け、アメリカのジョンソン大統領は1968年3月のテレビ演説で、北ベトナムへの爆撃の部分的停止などを含めた対ベトナム政策の転換を表明します。
それまでのタイは、国内に米軍基地を置くなど、一貫してアメリカのベトナム政策に協力してきました。それにもかかわらず、事前に何の相談もないままアメリカが方針転換をしたことで、タイのアメリカに対する不信感が高まります。
それまで親米反中で知られていた当時のタナット外相は、自国の運命を他国に任せることへの危機感を持ち始めます。彼がASEAN創設とその強化に尽力したのには、そうした背景がありました。
それと同時に、タナット外相は中国へ接近するため、次々と手を打っていきます。この方針はタナット外相辞任後も引き継がれ、1975年のタイ中国国交回復につながります。
タイ外交には、しばしばそうした急な方向転換が見られます。いわゆる「竹の外交」(Bamboo Diplomacy)ですね。良く言えば「柔軟」であり、悪く言えば「日和見主義」「ディシプリンがない」ということでしょう。ただ、原理原則に縛られない姿勢は、たとえば有能な外国人であれば積極的に受け入れていくといったタイ的な合理性にもつながっていると思います。
当時のタイと中国の間で大きな懸念材料となっていた華僑の二重国籍については、中国の周恩来総理が「タイに住んでいる中国人は、タイの制度やタイ人としてのアイデンティティを尊重しなさい」という主旨の発言をしたことで、タイ側の不安は払拭されました。
「天使」と「悪魔」の綱引き
―― タイが中国接近に舵を切ったことで、対中国イメージも好転しましたか。
どこに視点を置くかで中国に対するイメージは変わりますね。たとえば、1974年にはタマサート大学で中国展が開かれ、そこで『毛沢東語録』が販売されました。タイが中国に接近する前から、毛沢東は学生運動に参加する人たちにとって尊敬の対象でした。つまり、左派の人たちの間では、中国のイメージは「天使」だったのです。
では、この時期のタイ全体の対中国イメージが「天使」だったかというと、それは性急な結論です。
中国が国連に加盟した1971年に、タノーム首相は「共産主義と赤色中国は違うものだ、赤色中国はタイの敵ではなく、共産主義こそがタイ国の脅威である」と発言し、中国と共産主義を二分化しました。これが意味するのはあくまで中国への態度の軟化であり、決して共産主義への警戒をなくすという意味ではありません。
むしろ、社会運動に取り組む左派が勢いづいたことで危機感を抱いた右派は、左派の知識人や学生への批判を強めます。右派の中では、「悪魔」としての中国のイメージが根強く残っていました。同時に、共産化されたベトナムを警戒して、中国を「バランサー」とみなす声も聞こえ始めました。
このように、1960年代後半から1970年代にかけて、タイの中国に対するイメージは「天使」と「悪魔」の両極のなかで常に流動し、綱引きのような状態にありました。
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「困った時の真の友」
―― 左右の対立が深まるなか、タイと中国の国家レベルの関係はどうなったのでしょうか。
1970年代後半になると、共産主義そのものが弱体化しはじめ、タイ国内でも影響力を失っていきます。中国では鄧小平が改革開放に舵を切り、タイ共産党を動揺させました。タイ共産党は主に毛沢東路線を信奉していたため、中国の変化に完全にはついていけず、やがて党内分裂を起こして力を失いました。
また1978年には、ベトナムがタイの隣国であるカンボジアへ侵攻し、タイはベトナムへの警戒を強めます。中国との関係も良くなかったベトナムは、タイと中国の「共通の敵」となり、タイ中関係は緊密化しました。タイにとって中国は、もはや敵国の「悪魔」でも、過度に理想化された「天使」でもなく、現実的に問題を共有する「友人」となったのです。
そこから現代に至るまで、外交レベルでは、タイと中国は基本的には友好関係を保っています。そこには、自らを「小国」と自認し、「大国」である中国との摩擦を最大限に回避するというタイの一貫した姿勢があります。
ちなみに、アジア通貨危機の際、日本と中国は、静観していたアメリカとは対照的に、積極的にタイを支援しました。日本企業は大きな打撃を受けたにもかかわらずタイから撤退しませんでしたし、中国は政府高官が何度もタイを訪れ、積極的な資金援助や投資を行いました。
通貨危機の翌年にタイ経済はV字回復を果たし、タイ国内では「困ったときの真の友」として、日本や中国の評価が高まりました。
以上が、博士論文のなかで私が検討した時代の話になります。
―― タイ中関係が流動的に変化するなか、タイ社会としてはほぼ一貫して在タイ華僑・華人を包摂的に受け入れる手を打ってきたことが印象的でした。また、そうした歴史の流れのなかにジェーさんのご家族やジェーさんがいることがよく分かりました。最後に、これからのタイと中国の関係について、ジェーさんがどうご覧になっているかをお聞かせください。
今日お話したように、タイでは中国の発展を好意的に捉える「中国機会論」が根強いです。さらに「隠れた華人国家」であるタイと中国が文化的に似ている点は決して少なくありません。博士論文の最終章で触れましたが、両国の友好関係の基礎には文化の類似性があります。
今後、経済や外交の分野で中国が世界に与える影響力はますます高まると見てよいでしょう。中国に対して「小国外交」を行うタイは、その時々の国際情勢にも柔軟に対応しなければなりません。中国の状況とそれを取り巻く国際情勢を総合的に判断して、タイの中国認識はどう変わるのか。この分野を研究する者として冷静に注視したいと思っています。
☞ 【ジェーさんの博士論文の全文はこちらから読めます】
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インタビュー・構成/河内滴かわうちしずく
1991年、大阪府生まれ。2020年1月北京大学大学院中文系修士課程(中国近代文学専攻)修了。同年2月より都内の雑誌社に勤務。2022年2月からはフリーのライター・翻訳家として活動。