東京消費 #2 飯碗 「深川製磁」 sandz
国語辞典で「茶碗」を引くと「茶を入れ、また飯を盛る器」と書かれている。「飯碗」という言葉もあるが、一般的には「茶碗」という言葉が使われる。飯を盛るのに茶碗。昔から不思議に思っていた。
上質な物が欲しいけれど、それについての知識がない。ネット検索も良いが、東京に住んでいれば百貨店という選択肢がある。
銀座4丁目の交差点に三越が店を開いたのは1930年。2015年から使われ始めた「This is Japan」とのキャッチフレーズにうかがえるように、訪日外国人の観光客が買い物をする際に、最初の選択肢になるのが「銀座三越」だ。
上京した2009年以来、東京を離れていた時期を除いて、僕は足繁くこの百貨店に通っている。銀座三越と日本橋高島屋S.C.、そして伊勢丹新宿店――。僕の〝東京消費〟は、大部分がそれらの百貨店に支えられている。
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銀座三越の食器売り場は7階。売り場に並んでいる茶碗をひと通り見た後に、女性の店員が1冊のカタログを見せてくれた。僕が「深川製磁」に出合った瞬間である。
有田焼を代表する窯元・深川製磁のルーツは17世紀に遡る。日本の磁器発祥の地とされる佐賀県有田で代々窯焚き業を営んできた深川家。1894年(明治27年)に深川忠次によって窯元が設立される。
言うまでもなく、磁器の製造技術は半島や大陸から日本に入ってきた。深川忠次はそこにヨーロッパの技術を新たに取り入れる。特徴は「フカガワブルー」と呼ばれる鮮やかな青と和洋折衷のデザインだ。
店員と雑談しながら、パラパラとカタログをめくっていると、一つの茶碗が目に留まった。
ブルーとライムグリーンとグレーの3色のボーダー。今思えば、茶碗にしては珍しい多色による全面への彩色と、紋様のないデザインに惹かれたのだと思う。在庫を確認してもらうと、六本木の直営店に行けば買えることが分かった。
店員は、取り置きの手続きをしてから、直営店への行き方を丁寧に説明してくれた。驚いたのは、説明の最後にサラッと言われた一言だった。
「六本木店はマンションの一室なので、到着したら玄関のインターホンを鳴らしてください」
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六本木駅から地上に出ると風が少し冷たかった。外苑東通りに入り、数分歩いたところで左に折れるとすぐにそのマンションはあった。
外壁はクリーム色とレンガ色の2色で10階建てくらいだろうか。エントランスまでは石畳のアプローチになっており、両脇には日本庭園風の植栽が並ぶ。いくつかの木々は紅葉が始まっていた。
部屋に入ってみると、そこは「マンションの一室」という言葉が不釣り合いなほどしっかりした店舗だった。広さは優に100平米を超えているし、余計な仕切りは全くない。店舗用に改装したのだろう。
目当ての茶碗を実際に手にしてみると、思っていたよりも軽く感じた。陶器のつるっとした肌触りも良い。照明を当てながら、いろいろな角度から眺めてみる。カタログで見た時にはライムグリーンが印象的だったけれど、間近に見てみるとブルーのグラデーションに目が奪われた。
「よほどお気に召されたようですね」
女性の店員の言葉で我に返る。もはや迷いが入り込む隙間はなかった。カードで決済し、建物の外へ出た時には、心なしかさっきよりも気温が少し高くなっているような気がした。
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買った茶碗をダイニングテーブルの上に置き、スマホで写真を撮ってWeChatのモーメントに投稿する。何件かの「いいね」がついた後に、中国人の友人がコメントをくれた。
「もしかして1個だけしか買ってないの? そんなことしてたら、あなたいつまで経っても独身よ」
辛辣な物言いはそれほど気にならなかった。むしろ、家族を大切にする中国人の価値観が垣間見えた瞬間に、東京での一人暮らしに慣れていた自分の価値観が相対化されたのが新鮮だった。
なるほど。家族ができてから揃えるのではなく、その時のために今のうちから揃えておけばいいのか。友人の言葉にひらめきを得た僕はそれ以降、食器を買う時は必ず対で購入するようになった。
そろそろ対になる茶碗を買おうと思ったのは、初めて六本木の直営店を訪れてから数年が経った頃だった。カタログに、ライムグリーンをオレンジに置き換えたものが載っていたことを鮮明に覚えていた。
ところが、残念ながらすでにそのデザインの茶碗は廃盤になっているとのこと。肩を落としたつもりも、うなだれたつもりも全くなかったけれど、どうやら店員の女性にはそう見えたらしい。
「商品代金と別に注文料をお支払いいただければ、受注生産で作ることもできますが、いかがなさいますか。納期は今だと……そうですね、2ヵ月ほどかかりますけど」
話を聞くと、廃盤になったものでもデザインの版が残っていれば、比較的安価で受注してくれるそうだ。僕が欲しかったものは、まだデザインの版が残っていた。悩む理由はなかった。
2ヵ月後にオレンジの茶碗が届いてからというもの、友人や親密な関係になった人を気兼ねなく自宅に招き、食事を振る舞う機会が増えた。ここで「家族」……と書きかけて筆が止まる。
「結婚」という言葉を国語辞典で引いてみると「男女が夫婦となること。夫婦の縁を結ぶこと。婚姻」と書かれていた。
オレンジの茶碗が本来の役割を担うためには、どうやらこの国のカタチがほんの少しだけ変わる時を待たなければならないようだ。
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写真:Yoko Mizushima