幸せの量と運は似ている。
幸せの量と運の有限性について
人は「運を使い切ったわー」と言ったりする。
何か良いことが続いた後に、突然不運が訪れたり、思いがけないトラブルに見舞われると、まるで「自分が持っている運」が尽きたかのように感じてしまうことがある。人間は運を有限なものとして捉えている節がある。いいことが続けばネガティブに備えるし、悪いことが続けば明日はいいことがあるかもと期待する。人間の運の量は決まっており、プラスとマイナスでバランスが取れている、という捉え方である。
そして、この「運」に対する考え方と同じように、「幸せ」にも量・キャパシティが決まっているのではないかと僕は考えている。幸せとは無限にあるものではなく、自分が抱えられる分だけしか持つことができないのではないか。たとえば、両手でぎゅっと抱きしめるように、ある一定の量が決まっていて、それ以上の幸せを持とうとすると、必ずどこかでこぼれ落ちてしまうもの。そのこぼれ落ちた「幸せ」を認識した瞬間、僕たちは不幸を感じてしまう。例えば、バーゲンセールに行けなかった。例えばクーポンを使い忘れていた。例えば値上がり前にガソリンを入れようと思っていたのに忘れていた。などなど。今食べたご飯が美味しかったという幸せを忘れ、失ったものがあることを不幸だと感じる。
自分が享受すべき「ちょっとした幸せ」が自分の両手からこぼれ落ちるのを知った時、それを不幸と感じてしまう。
幸せがこぼれ落ちる瞬間と新しい幸せ
では、そのこぼれ落ちた幸せはどこへ行ってしまうのだろうか?それは、消えてしまうわけではなく、別の形でまた自分の元に戻ってくると信じたい。たとえば、大切な人との別れや失敗といった不幸を経験すると、その直後はとても辛く、どうしてこんなことが自分に起きるのだろうと後ろ向きになる。だが、その辛さや悲しみの中で新たな気づきや出会い、そして経験を得ることで、新しい出会いに向け一歩を踏み出す。そしてそのマイナスが実は幸せに繋がったのだ気づくことができる。
つまり、一度こぼれ落ちた幸せが完全に失われるわけではなくて、それが転じて新しい幸せに繋がる事がある。むしろ、その別れや失敗がないと、新しい出来事に出会うこともなかったかもしれない。こう考えると、たとえ今がどんなに辛くても、また新しい幸せが訪れる事を信じて明日も少しだけ頑張ろうと前向きになれる。幸せというものは、無限にストックできるものではなく、自分が抱えられる量が決まっているからこそ、その中でのバランスを取りながら生きていくしかないのかもしれない。
人それぞれの幸せの量
幸せの量は人によって異なるということもあるだろう。ある人にとっては、美味しいご飯を食べることが最高の幸せに感じる。一方で、どれだけお金を稼いでも、どれだけ成功を収めても、心の底から幸せを感じられない人もいる。それぞれが抱えられる幸せの量も違えば、何を幸せと感じるかも違うのだ。
美味しいご飯を食べるだけで「今日も幸せだなぁ」と感じる人は、その瞬間に心が満たされてる。それは、彼らにとっての「幸せのゲージ」がその食事で十分に満たされているからであろう。しかし、一方で、何億円を稼いでも、豪邸に住んでも、常に何かが足りないと虚無感を感じてしまうような人にとっては、「幸せのゲージ」が大きい上に、「幸せの形」にもミスマッチがありゲージが満たされておらず、そのゲージを埋めるための何か、もっと別の形の幸せが必要になってくる。そして、いくら求めてもゲージが満たされない時、彼らは「自分は不幸だ」と感じてしまうのではなかろうか。そのゲージの中には、他のたくさんの幸せがあるというのに、である。
幸せの量も形も人それぞれ違うのである。ということは、「『これ』があれば幸せになれる」という単純な公式は存在しない。お金があっても不幸を感じる人もいれば、炊き立てのお米が美味しいと幸せを感じる人もいる。であるならば、自分が本当に必要としている幸せを見つけ、それを自分の両手でしっかりと抱えられるようにすることこそが大切である事がわかる。
他人と比べるから不幸に感じる。
この「幸せのゲージの最大量」が人によって違うというのは、不公平に感じるかもしれない。誰かが簡単に幸せを感じられるのにもかかわらず、別の誰かはどれだけ努力しても満たされないのは何故なのか?その不公平感は時に僕たちを苛立たせ、不満を抱かせることになる。SNSを見ては人の生活を羨み、自分の人生を惨めに感じる。SNSの投稿の裏で起きているその人にしかわからない不幸を想像できず僕たちは羨む。世の中には見える部分しか光があたらないのである。現実とはそういうもの積み重ねである。
誰にでも同じ量の幸せが与えられているわけではないし、同じ形の幸せが全ての人にとって同じように感じられるわけでもない。だからこそ、他人と比べて「自分は幸せじゃない」と思うのではなく、自分にとっての幸せとは何かを見つめ直し、その幸せをどうやって抱きしめるかを考える。それが大切なのだということに少し気付いた時、ほんの少しだけ生きることを幸せに感じ楽になれる。
終わりに
運も幸せも、両手に抱えられるほどしか持てないのだ。その両手に持てる量は人によって違うし、何がその手を満たすかも人それぞれ。だからこそ、自分にとって本当に幸せであると思えるものを見つけ、それを大事に抱きしめながら生きていくことが重要である。たとえ不公平に感じても、それが現実であり、現実にどう向き合うかが「人生の課題」であるのかもしれない。
今僕が手にしている幸せは、『他人と比べることによって得られた「幸せ」』ではないか?心の底から幸せと思えることが実は両手からこぼれ落ちていないか。ほんとはその両手にある事が大事だと感じた方が幸せなのに、それを感じる事なく、零れ落ち失ったものがあることを不幸と感じていないか。
もし今、両手に抱えきれないほどの幸せが溢れ出し、こぼれ落ちた幸せが不幸であるのだと感じているのなら、手の中に残っている幸せを認知し、そのこぼれ落ちた分が新しい幸せに変わることを信じてみたい。それが明日への希望となり、少しだけ前に進む力をくれるだろう。