浄土真宗! 獲信! 他力信心! 光雲先生のグループで聞法してます(9)
『阿弥陀劇場(南無阿弥陀仏はやまびこ)』
突然ですが、ただいまより『阿弥陀劇場』を開演いたします。
題名は『南無阿弥陀仏はやまびこ』です。
なお、この演劇は、わたくし文長が書いたフィクションです。
それでは、はじまりはじまり~
【出演者】
・阿弥陀さま
・ブンチョウ(小鳥の姿を借りたもう1人の文長)
・文長(凡夫・私)
小鳥のブンチョウは、蓮池を望む丘の林で、木の枝にとまって休んでいました。
すると、どこからともなく声が聞こえてきました。
「なんまんだぶつー! なんまんだぶつー!」
眠くてうとうとしていたブンチョウは、その切実な叫び声に、目が覚めてしまいました。
・ブンチョウ
「南無阿弥陀仏」って聞こえるけど、誰の声だろう…?
よし!声がする方へ行ってみよう。
ブンチョウは、丘を飛び立ち、声を頼りに蓮池までやってきました。
すると、「なんまんだぶつー!」と、蓮池のほとりで叫んでおられる阿弥陀さまのお姿が見えてきました。
しかも、よく見ると、ただ叫んでおられるだけではありませんでした。
なんと、阿弥陀さまの両目から、血の涙があふれ出ていたのでした。
そのやさしいお顔は、血の涙で真っ赤になっていたのでした。
・ブンチョウ
阿弥陀さま! お顔が真っ赤ではないですか! どうされたのですか!?
なぜ、血の涙を流しながら、蓮池に向かって「なんまんだぶつー!」と大きな声で言っておられるのですか!?
・阿弥陀さま
やあ、ブンチョウ。
ブンチョウは血の涙にびっくりしたんだね。おどろかせてすまなかったね。
血の涙のことは、あとで説明しますね。
まずは、「なぜ私が『南無阿弥陀仏』と言っているのか」について、お話ししましょう。
それはね、この「南無阿弥陀仏」が、やまびこのように返ってくるのを、私は、耳をすまして待っているのです。
そして、この大きな声の「南無阿弥陀仏」は、じつは、蓮池に映る人間界の文長に向けて言っているのです。
・ブンチョウ
阿弥陀さまは、文長に向けて言った「南無阿弥陀仏」が返ってくるのを待っておられる、ということですね。
うーん・・・
ちょっとよくわからないんですけど、文長が「南無阿弥陀仏」と言うのを、阿弥陀さまは待っておられる、ということですか?
・阿弥陀さま
そういうことです。
文長の口から出る「南無阿弥陀仏」を、私は待っているのです。
文長の口から「南無阿弥陀仏」が出るとき、文長が自分の力で念仏しているように見えますが、じつは、私が言った「南無阿弥陀仏」が文長の口を通して出ているのです。
・ブンチョウ
なるほど、だから阿弥陀さまは、やまびこが返ってくるみたいに、文長に向けて言った「南無阿弥陀仏」が返ってくるのを待っておられる、というわけですね。
「南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまのやまびこで、文長はとなえさせてもらってる」ということですね。
・阿弥陀さま
そういうことなのです。
私は、はるか昔から、ずっと「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と言っていて、やまびこのように「返ってくるかな?」って、耳をすまして待っていたのです。
それなのに、文長は、この念仏を、なかなか返してこなかった…
だから、文長が「南無阿弥陀仏」と言うと、私は「ああー、言ってくれた、言ってくれた、言ってくれた。あー、言ってくれた、言ってくれてるねー」と、とってもうれしくなるのです。
・ブンチョウ
そっか… 阿弥陀さまは、はるか昔からずっと待っておられたのに、文長は念仏を返してこなかったんですね…
だから、阿弥陀さまは、いま、文長が念仏するだけで、とってもうれしくなられるのですね。
・阿弥陀さま
そうです。
そして、文長がどんな気持ちであろうと関係ありません。
ありがたくなくても、ただつぶやいただけでも、人前で恥ずかしくても、文長が念仏するだけで、私はうれしいのです。
・ブンチョウ
文長がどんな気持ちであろうと、阿弥陀さまはうれしいのですね。
「南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまのやまびこで、文長はとなえさせてもらってる」ということは、つまり「南無阿弥陀仏は、日常会話で使うような、ただの言葉ではない」ということですね。
・阿弥陀さま
そのとおりです。
「南無阿弥陀仏」は、ただの言葉ではありません。
「南無阿弥陀仏」は私の声であり、私、つまり『阿弥陀仏』そのものです。
私は、『声の仏』に、なりました。
文長がいつでもどこでも私と一緒にいられるように、声の仏になったのです。
私がはるか昔からずっと言ってる「南無阿弥陀仏」は、私の願いであり呼び声なのです。
文長の口から「南無阿弥陀仏」と出てくることが、私、つまり『阿弥陀仏』がいる証拠なのです。
・ブンチョウ
「南無阿弥陀仏」はただの言葉ではない。声の仏である阿弥陀さま、そのものなんですね。
阿弥陀さまの『願い』であり『呼び声』なのですね。
「念仏より他に、阿弥陀さまがおられる証拠はない」ということですね。
念仏する文長は、いつでも阿弥陀さまと一緒、ということですね。
・阿弥陀さま
そのとおりです。
では次に、「なぜ私が、目に見える仏ではなく、声の仏になったのか」について、説明します。
「なぜ、声の仏になったのか」
それは、たとえ文長が聞きたくなくても、声なら、耳に入って聞こえてしまうから。
もし、私が目に見える仏になっていたら、常に文長は、私の方を向いて、目を開いて、私の姿を確認しなければならない。
でも「聞こえる」ということは、目の前に音源がなくても、例えば、音源が後ろにあっても遠くにあっても、聞こえる範囲だったら聞こえてしまう。
「嫌だな、聞きたくないなぁ」と思っても聞こえてしまう。嫌でも聞こえるのが耳なのです。
だからこそ、私は「南無阿弥陀仏」という声になったのです。
声じゃないと、だめだった。
声であるからこそ、文長に聞こえる。
「南無阿弥陀仏なんて聞きたくない、言いたくない」と思っても、聞こえる。
聞きたくなくても聞こえてくる。「南無阿弥陀仏」が聞こえてくる。
文長の方に用事はない。
私の方が、常に文長より先で、文長は私から逃げることはできないのです。
・ブンチョウ
阿弥陀さま、詳しく説明してくださってありがとうございました。
声じゃないと、だめだったのですね。
阿弥陀さまが『声の仏』になられた理由は、
たとえ文長が聞きたくなくても、声なら、耳に入って聞こえてしまうから。
もし、目に見える阿弥陀さまだったら、常に目で見て、阿弥陀さまの姿を確認しなければならないから。
ということですね。
聞きたくなくても聞こえてくる。「南無阿弥陀仏」が聞こえてくる。
だから阿弥陀さまは、『声の仏』に、なられたのですね。
文長は阿弥陀さまから逃げることはできないのですね。
・阿弥陀さま
そのとおりです。
最後に、「なぜ私が血の涙を流しているのか」について、お話ししますね。
それはね、私は、文長のことが、ものすごくかわいそうだからです。
そして、ハラハラドキドキ、危なっかしくて見ていられないほど心配なのです。
だから私は、血の涙を流して「南無阿弥陀仏」と、叫ばずにはいられないのです。
・ブンチョウ
そっか… 阿弥陀さまは、文長のことを、ものすごくかわいそうと思っておられるのですね。
ハラハラドキドキ、危なっかしくて見ていられないほど心配なのですね。
だから、血の涙を流して「南無阿弥陀仏」と、叫ばずにはいられないのですね。
でもなぜ、阿弥陀さまは、それほどまでに、かわいそうと思い、そして、心配しておられるのですか?
・阿弥陀さま
それはね、文長がとても恐ろしい『野獣の本性』を持っているからです。
恐ろしい野獣の本性であるがゆえに、文長は、いま、悩み苦しんでいます。そのことがまず、かわいそうでならないのです。
そして、はるか昔から、文長は、その恐ろしい野獣の本性で罪を作り続けてきたのです。その結果として、ずっと迷ってきたのです。
文長は、文長としての命を終えて、自ら作ってきた罪によって、また次の世へ迷っていく・・・
私は、そのことが、かわいそうでならないのです。心配でならないのです。
・ブンチョウ
恐ろしい野獣の本性であるがゆえに、文長は、いま、悩み苦しんでいる。阿弥陀さまは、そのことがまず、かわいそうでならないのですね。
そして、文長としての命を終えて、自ら作ってきた罪によって、また次の世へ迷っていくことが、かわいそうでならないのですね。心配でならないのですね。
・阿弥陀さま
そうです。
縁があれば、何をしでかすかわからない文長なのです。
例えば、自分の家族を目の前で誰かに殺されたならば、怒り狂って、その殺した人を惨殺したい気持ちになるでしょう。そして、実際に拳銃でも持っていたら、反射的にその人を撃ち殺すかもしれません。
「俺は人殺しなんてしない。そもそも怖くてできないよ」
そう思っていても、平気で人殺しに豹変する本性を持っているのです。
そして、いつも言ってますが、実際に人を殺さなくても、殺したい気持ちになっただけで、もうそれは殺生の罪なのです。
私は、我が子 文長の、この『野獣の本性』を心配しているのです。
だから、
だから私は、血の涙を流して「南無阿弥陀仏」と、文長に向かって叫んでいるのです。
・ブンチョウ
阿弥陀さまは、平気で人殺しに豹変する本性を持っている文長のことを心配しておられるのですね。
だから、血の涙を流して「南無阿弥陀仏」と、文長に向かって叫んでおられるのですね。
・阿弥陀さま
そういうことです。
「あの犯罪者はひどい。俺はあんなにひどくない」
文長は、ニュースを見て、そんな風に思ったりするけど、私から見たらみんな同じなのです。
なぜなら、人間も、動物も、真ん中には同じ恐ろしい野獣の本性である『本能心』があるから。
目玉焼きで例えるなら、黄身が本能心であり、白身が教養心となる。
環境や縁によって、白身の厚みは人それぞれに違う。
例えば、親の愛情や受けてきた教育など、いろんなお育てに恵まれた人は、白身の部分が厚めにある。
お育てに恵まれなかった人は、白身の部分は薄くなりがち。
白身は、黄身が簡単に外に飛び出さないように、黄身のまわりを包んでくれている。
でも、いろんな環境や縁、持っている業(おこない・はたらき)によって、獣のような恐ろしい本性である黄身が、白身を突き破って出てくることがある。
つまり、「誰だって何がきっかけでニュースになるような罪を犯してしまうかは分からない」ということ。
だから、
もし文長が、黄身が飛び出してくることなく毎日を過ごし、ニュースを見て「あの人は悪い人だな」と思えているとしたら、 それはものすごく恵まれてる証拠。
文長が立派な人間なんじゃなくて「いかに今まで世間の人にいろんなお育てを受けてきたか」ということなのです。
・ブンチョウ
人間も、動物も、真ん中には同じ恐ろしい野獣の本性である『本能心』がある。
目玉焼きで例えるなら、黄身が本能心であり、白身が教養心となる。
環境や縁によって、白身の厚みは人それぞれに違う。
白身は、黄身が簡単に外に飛び出さないように、黄身のまわりを包んでくれている。
でも、環境や縁、持っている業によって、獣のような恐ろしい本性である黄身が、白身を突き破って出てくることがある。
もし文長が、黄身が飛び出してくることなく毎日を過ごし、ニュースを見て「あの人は悪い人だな」と思えているとしたら、 それはものすごく恵まれてる証拠なのですね。
文長が立派な人間なんじゃなくて「いかに今まで世間の人にいろんなお育てを受けてきたか」ということですね。
・阿弥陀さま
そういうことです。
また、『野獣の本性』は殺生の罪とだけ関係がある、というわけではありません。
昨日まで大好きだった人でも、いま、自分の都合に合わなくなると「嫌いだ。顔も見たくない」と一変する心。
自分が欲しいものを手に入れたい。やりたいことが最優先。目的を果たすためなら手段を選ばない。他人なんてどうでもいいと思っている心。
事実を自分の都合のいいようにねじ曲げて解釈する心。
などなど。
こういう、自己中心的で、自分の都合に合わないもの一切を排除する心を『野獣の本性』というのです。
・ブンチョウ
『野獣の本性』とは、自己中心的で、自分の都合に合わないもの一切を排除する心のことですね。
この心が、罪そのものであり、また、他の罪を作ってしまう元になるのですね。
・阿弥陀さま
そういうことです。
今から大事なことを言うので、よく聞いてください。
黄身である野獣の本性が文長の中心にあること。
その事実が、『南無阿弥陀仏が、文長を、必ず救う証拠』なのです。
なぜなら、恐ろしい者を救うのが南無阿弥陀仏であるから。
だから、「自分の真ん中に恐ろしいものがあるな」と感じた時は、
・だから南無阿弥陀仏があるんやな。
・だから救ってくださるんやな 。
・「落ちるものを救う」やからな。
このように、となえる「南無阿弥陀仏」に聞いていきましょう。
恐ろしい黄身を抱えた自分の姿・毎日罪を作ってるという客観的事実を、具体的にみていきましょう。
なぜなら、罪を作り続けるお粗末な自分の姿こそ事実であり、この事実こそが『南無阿弥陀仏のお目当て・救いの証拠』だからです。
・ブンチョウ
黄身である野獣の本性が文長の中心にあること。
その事実が、『南無阿弥陀仏が、文長を、必ず救う証拠』なのですね。
なぜなら、恐ろしい者を救うのが南無阿弥陀仏であるから。
だから、「自分の真ん中に恐ろしいものがあるな」と感じた時は、
・だから南無阿弥陀仏があるんやな。
・だから救ってくださるんやな 。
・「落ちるものを救う」やからな。
このように、となえる「南無阿弥陀仏」に聞いていくことが大事なのですね。
恐ろしい黄身を抱えた自分の姿・毎日罪を作ってるという客観的事実を、具体的にみていくことが大事なのですね。
なぜなら、罪を作り続けるお粗末な自分の姿こそ事実であり、この事実こそが『南無阿弥陀仏のお目当て・救いの証拠』だから。
ということですね。
・阿弥陀さま
そういうことです。
ブンチョウよ、聞いてくれてありがとう。
・ブンチョウ
阿弥陀さまは、なぜ心配しておられるのか。
文長のどんなところを心配しておられるのか。
阿弥陀さまが「南無阿弥陀仏」と血の涙を流しながら文長に向かって叫んでおられる、その理由は何なのか。
ここが、大事なところなのですね。
心配して叫んでおられる理由、それは、文長の中心に『野獣の本性』があるから。
『野獣の本性』
これはつまり、
『仏願の生起』
『南無阿弥陀仏が作られた理由』
のことですね。
文長は、この『仏願の生起・南無阿弥陀仏が作られた理由』を、日常生活の中で、自分の身の上に聞いていくことがとても大事、ということですね。
お粗末な自分を通して阿弥陀さまの親心・ご苦労を聞いていくことが「浄土真宗の聞法」ということですね。
阿弥陀さま、
大事なお話を聞かせてくださって、ありがとうございました。
(おしまい)
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