浄土真宗! 獲信! 他力信心! 光雲先生のグループで聞法してます(2)
法話 『南無阿弥陀仏ってなあに?』
(これはご法話の書き起こしです)
ご讃題「ところで、無量寿経に『聞』と説かれているのは、私たち衆生が、仏願の生起本末を聞いて、疑いの心がないのを『聞』というのである」
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
今日は、分かりやすくですね、『仏願の生起本末』ということをお話ししたいと思います。
誰が聞いてもわかるぐらいのやさしさで、生起本末の話をしたいと思います。
簡単に申しますと、生起本末というのは「どうして南無阿弥陀仏ができたんだろうか? なぜ南無阿弥陀仏ができたのか?」ということなんです。
それを知っていただきたい。「そのことをよーく知ってくださったら、ご信心を得ることができますよ」というポイント、なんです。
まずは、南無阿弥陀仏について少しお話をして、それから『どうして南無阿弥陀仏ができたのか』ということをお話ししようと思います。
南無阿弥陀仏について
みなさん、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」って、聞かれたことがありますね。
日本の方だったらほとんどの方が知ってるんじゃないですかね、南無阿弥陀仏。
まったく信じてなくても、信心がなくても、南無阿弥陀仏という言葉ぐらいはみんなが知っている。これはすごいことだと思うんです。
一方で、『南無』という言葉の下が阿弥陀仏なんですけど、他にも聞いたことがあると思います。
例えば「南無妙法蓮華経」って、聞いたことないですか? これも南無です、最初の言葉は。
その他にも「南無観世音菩薩」っていうのは、他の仏さまとか菩薩さまです。南無の後に違う言葉がきてるものもあります。
でも、私たちがとなえるのは『南無・阿弥陀仏』です。
これは、ほかのものとは全然違うのです。それを知っていただきたい。
どこが違うかっていうと、(まず、一般的に)「南無」といいますと「お願いいたします」という意味です。
南無妙法蓮華経といったら「法蓮華経(お経)のことを私は信じますので、どうか救ってください」とか、また、南無観世音菩薩といったら「観世音菩薩さまを信じますので、どうか救ってください」と、お願いします・頼みますというのが南無です。
「南無で何を頼むのか」ということです。全部そうなんですけど、南無阿弥陀仏だけは違うのです。
何が違うかというと、他のはね、南無するのは私なんです。私が「お願いします」と、頼む。でも、南無阿弥陀仏は阿弥陀さまのほうが頭を下げて南無してくださっているのです。
「お願いします。どうか南無阿弥陀仏を聞いてください。どうか私の名前を呼んでください」と、頼んでくれているのが阿弥陀さまのほうなんです。仏さまのほうが頼んでくださっている。
それが、南無阿弥陀仏。すごいね、違うんです。
私は、頼まない。なんでかというと、そんなに頼む気持ちがないから。
(私が)頼むといっても、私たちの心はずっと頼み続けることができるわけじゃないでしょ。すぐにいろんなことを考え出します。「お願いします」と言った後に「あ、お昼ご飯どうしようかな」とか「あ、学校行ってるけど子供は元気にしてるかな」と、気持ちがちりぢり散っていくのが私たちですから、私たちが南無するっていうのは非常に弱いんです。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまが南無してくださってるからものすごい強いんです。もっといいますと、どんな南無阿弥陀仏かっていうとね、すごい南無阿弥陀仏なんです 。
難しい言葉というか、お経さんのことを言いますと 、大無量寿経という浄土真宗で一番大事なお経さんの中で、阿弥陀さまが「私はこんなふうにして、みなさんを救います」と、48個もあげておられるんだけど、その中で17番目の願いというのがあって、それは、阿弥陀さまが「私は南無阿弥陀仏を作ります。みなさんのためにお浄土を作ります。そして、それが出来上がったら、たくさんの仏さまが、もうすべての仏さまが 、『素晴らしいね!南無阿弥陀仏はすごいよ! 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏』と、となえずにはおれない、そういう南無阿弥陀仏にします」と、言っておられるんです。
「どういうことなんかなぁ」と思うかもしれません。
これはね、まず、仏さまというのはたくさんおられるんです。例えば、インドのガンジス川、海のように広い川です。そこの砂。その砂の数ほどたくさんの仏さまがおられるんです。
「その仏さまがみんな『南無阿弥陀仏は素晴らしいよ!』とほめたたえる、そういう南無阿弥陀仏にします」と言ってくださったんです、阿弥陀さまがね。
「そういう仏さまになります」と言われて、実際になられたんです、阿弥陀さまに。お寺にもありますね。みなさん「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と言いますね。
阿弥陀さまになられたということは、「そういう素晴らしい仏さまに、もうなってくださった」ということなんです。
これはどういうことかと言いますと、いくら「南無阿弥陀仏は素晴らしいよ!」と言っても、「ああ、そうですか」っていうかね、「ふーん…」という感じじゃないですか、ただ聞いただけだったら。
例えば、
車が古くなったので新しい車を買うことになったとします。「どんな車にしようかな」と、調べますね。
良いのが買いたい。でもすごく高い値段のものは買えない。
それなら、買う前に色々調べますね。ネットで検索して「この車はこんなところがいいです」というレビューがあれば、それを参考にするでしょ?
何百人もの人々が「この車はすごくいいよ!」と言ってたら、「この車にしよう」と思いませんか?
自分の身の回りのみんなが「この車はいいよ!素晴らしいよ!」って言ってたら、「 あ、そうなんや」って思うじゃないですか。
この南無阿弥陀仏もそうなんです。もうね、阿弥陀さまになっておられるということは、数々の仏さまが「いやー すごいよ! 南無阿弥陀仏は!」と言ってくださっている。すごい力なんです。
その代表がお釈迦さまです。お釈迦さまがこの地球にあらわれて、「南無阿弥陀仏はすごいよ!」と言ってくださったから、私たちはなんか知らんけど「南無阿弥陀仏」と言ってるんです。日本だとほとんどの人が(南無阿弥陀仏を)知っている、ということなんです。
だから、この南無阿弥陀仏というのは、他の南無、ね、そういうものと違う、特別なんです。特別な力が入っているんです。
他の仏さまもみんな応援してる。みんなすすめてくださってるんですから。
それが南無阿弥陀仏のすごいところなんです。
この南無阿弥陀仏がすごいものなんだっていうことは、分かってくださいましたかね。
そして、阿弥陀さまがね、「南無阿弥陀仏」って言う時は、私がお願いするんじゃないんです。「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と私から出ている声の中に「必ず信じさせてみせる! 必ずとなえさせてみせる!」という力が入っている。
それが、南無阿弥陀仏、なんです。
この南無阿弥陀仏は、私たちが、いただいたらいいんです。
心から信じる。自分からじゃないですよ。ご信心をいただいたらいいんです。「南無阿弥陀仏 あー ありがとうございます」と、疑いなしに 。最初に読みましたけれどもね、「疑心あることなし」という言葉があります。
疑う心が「あることなし」と言ったらすごい強い日本語なんです。
「絶対なし!」
そういうものを、いただくんです。
どうして南無阿弥陀仏ができたのか
どうしてできたのかということを、もうちょっと言いましょうね。
それには、『私』が関係あるんです。みんな一人一人が関係あるんです。
なんで作ろうと思われたかというと、『私』のためなんです。
私が、ずーっと、仏になれず、苦しみの中で生きているから。私が原因なんです。 私を見ておられたんです、阿弥陀さまは。
以前もお話しいたしましたね。「この世は生まれて死んで、それでおしまいじゃないですよ」ってお話ししました。
輪廻と申しました。いま生きている。でも必ず死ぬときがくる。でも死んで終わりじゃない。また次の人生がはじまる、また次の人生がはじまる、とね 、ぐるぐるぐるぐると回っている。
阿弥陀さまが、それを見ておられたんです、まずね。もうこれは、はるか昔のことです。
みなさん、「地球ができて」とか、人間の知恵で分かっていることで考えるかもしれないですけど、地球ができるとか銀河系ができるとか、そういうことより遥か昔、もう、永遠のような昔です。
私たちは、ずーっと、さまよっていた。で、阿弥陀さまはそれを見てくださっていた。「ああ… かわいそうだなぁ…」って。
「一生懸命頑張っていたのに、苦しい中で頑張っていたのに、命を終えて、仏になれず、また次の世で迷い、また次の世で迷い、苦しみの世界にいる」
「これを何とかしてやりたい!」って思われたのが、もともとの理由なんです。だから私なしには南無阿弥陀仏はできなかったんです。お一人お一人そうです。あなたがいなかったら南無阿弥陀仏はできなかった。
私がいたから南無阿弥陀仏はできたんです。それを難しい言葉で『生起』と言うんです。
私がやってきたこと。それを見ておられたんです。
では、私がやってきたことってどんなことなのか。今日は具体的にお話しします。
何をやってきたかというと、あんまりいいことしてきてないんですね。
だから今も仏になってないんです。
私がしてきたこと。この体でやってきたこと。この口でやってきたこと。この心で思ってきたこと。
『体・口・心 』
三つあるんですね。それがもとなんです。
さあどういうことをしてきたかというと、
◆まず、体でやってきたこと。
・一つ目、命を取ってきた、ということ。(体の罪1. 殺生)
命を取ったと言うと、「あー よかった。自分は殺人はしてない。人を殺してないよ」と思われるかもしれない。そうじゃなくて、仏教では『命はみんな同じ』なんです。牛も豚も鶏も虫もみんな一緒。だから、私たちが食べるということは命を取ってきた、ということ。
これが一つ目。これをやってないと言う人はいないと思います。
・二つ目、盗むこと。(体の罪2. 偸盗)
「いいものがあるなぁ。いい車があるなぁ」と思う。
「いや、盗んでないよ、私は。よかったよかった。泥棒じゃないし」
そうではないんです。仏教では「あれが欲しいなぁ、いいなぁ。あの人の車いいなぁ」と思ったら、「それは取ったも同じ」と言うんです。本当に盗んでなくても、そう言います。
・三つ目、淫らなこと。エッチなことですね。(体の罪3. 邪婬)
これはね、結婚して奥さんがいる、あるいはご主人がいる。だけど、その人以外に、「あー いいなぁー あの人」と思って仲良くなったりする。あるいは仲良くなってなくても、「あの人は素敵だなぁ。あの人はとってもきれいだなぁ、かわいいなぁ。あんな人が恋人だったらいいのになぁ」と心で思う。それがもうすでに「淫らなことですよ」と言うんです。
そんなふうに考えたら私たちはいつも淫らですね。そのように考えるんです。
◆次、口です。口で何をやってるか。
・一つ目、噓をつくこと。(口の罪1. 妄語)
嘘をついてはいけません。でも嘘をつきますね~ 私たちは生きていく上でいろんな嘘をつきます。自分がかわいいので、自分が不利になるようなことだったら、ちょっとずつ噓をついていきます。
「嘘を今まで何回ついたかな?」ということなんです。
・二つ目、仲たがいをさせる言葉。(口の罪2. 両舌)
二つの口・二つの舌と書いて、両舌(りょうぜつ)と言うんです。
人を仲たがいさせてしまう。例えば、会社の中で上司にはこういう風に言う。でも部下にはああいう風に言う。と、言うことが違う。
近所の奥さん、隣に住んでいる人にはこう言う。向こうの人にはああ言うとね、違うことを言ったりする。ぜんぶ自分の都合です。自分がうまくいくように、いろいろ違うことを言い分ける。その結果、仲が悪くなったりする。
「そういうことをしてませんか?」ということ。
・三つ目、一番よくやっちゃいますね、悪口です。(口の罪3. 悪口)
罵ったりする。悪口を陰で言うことを私たちは結構楽しんでます。
いろんなニュースでも、ゴシップとか、そういうものをちょっと知ったら 、やっぱり心がおどってしまう。そういうのを見て楽しむような心があります。
あるいは、その人がいないところで「いやー 歳とったね、あの人も」とか、そうやってみんなでその人がいないところで悪口言ったりとか、しますね。それを楽しむような心が私にもあります。
「そういうことをしてませんか?」ということ。
・四つ目、誠実でない言葉。(口の罪4. 綺語)
この口は本当のことではない。心で思ってないことを言ったりします。
飾るんですね。心で思ってもないのに、その時にうまくいきたいから「あー ありがとうねー!」って、全然思ってないのに言ったりすることがあります。
あるいは、赤ちゃんを見て、本当は「ちょっとこの子、お猿さんみたいな顔してるねー」と思っても「まー かわいい赤ちゃんだねっ!」と、心と違うことを言う。飾ったりする。
「そういうことをしてませんか?」ということ。
◆最後、心です。心でどんなことを思ってるか。
・一つ目、欲しい、欲しいです。(心の罪1. 貪欲)
「あれが欲しいな、これが欲しいな」って思います。
ケータイを持ってるのに、新しくていいケータイを見たら、「もっといいのが欲しい」と思ったりします。パソコンもそうですね。いいのが出たら「いいな〜」と思います。
「欲しい、欲しい、欲しい」ということには終わりがないです。欲しいから、最初に言いました「盗みたいなぁ」とか 「食べたいなぁ」とか、他の罪をおこしていくんです。
・二つ目、怒る心。怒り、ですね。(心の罪2. 瞋恚)
腹が立つ。自分の思ってるようにいかなかったり、自分の考えと違うことを言われたりしたら腹が立つ。怒る、ムッとする、とげとげする、イライラする。それを顔に出す。怒る心です。
怒る心があるから、悪口を言ったり嘘を言ったり、そういうことが起こってくるわけです。
・最後、三つ目。愚か、智慧がないこと。(心の罪3. 邪見)
これはどういうことかと言いますと、いまここで話してきたこと(十悪)など、仏さまが「あなたはこんな悪いことをしてますね」ということを、否定する。「そんなことないよ!別に悪い事と違うし!」と、仏さまの教えを認めない心です。それが愚かな心なんです。
これで10個言いました。
ちょっと分かりづらかったかもしれないですけど、体・口・心、全部足して10個もあるんです。
そういうことをずーっとしてきた。それだから、阿弥陀さまは「これは救わなあかん。こりゃ、ナンボなんでも酷い」と思われたんです。
もう限りなく、そういうことをしてきてますから。体・口・心と言いましたけど、もとになるのはやっぱり心なんです。
欲しいと思わなかったら、怒らなかったら、愚かでなかったら、殺したり嘘ついたりということになってこないんです。だから仏教で一番大事なのは心なんです。
心で何を思っているか。心から罪ははじまるから、心の罪が一番重い。これは仏教の考え方です。ほかでは見られない特徴です 。心がなかったら悪いことをしませんから 。そういうことなんです。
これ(生起)がもとになって本末がある。難しい言葉ですけど、本末というのは阿弥陀さまのお救いとご苦労なんです。
もとがあって南無阿弥陀仏ができた。ものすごく長い間、私のことを見ておられたんです。1時間とかそんなんじゃないんです。
永遠に近いほど長いこと見ておられた。そして「どうやったら救えるんだろうか」と考えられた。
「どうも(この子は)修行ができそうもないね。10個のこと(罪)をいっぱいやってるし、やめないねぇ。どうしたらいいんだろうか」と、長いこと永遠ほど考えられて、そして、「よし!南無阿弥陀仏一つや!南無阿弥陀仏なら救える!」と思われてから南無阿弥陀仏を作るまでに、さらにまた、ものすごい長い時間をかけられた。
難しい言葉で『兆載永劫のご苦労』って言いますけど、ものすごい長いこと時間をかけて作られた。
で、やっと出来たのが、南無阿弥陀仏、なんです。
このことを「いただいて欲しい」と、言ってくださっているんです、阿弥陀さまは。
「信じて欲しい。信じさせてみせる」と 。
じゃあ私はどうしたらいいのか。
「あ、そうなんや。そんなすごい人がおるんやったら信じたいな。信心いただきたいな」ってみんな思うと、思うんです。それをどうやったら信じれるかって言ったら、私がやったこと、私が先ほど言いました体・口・心、この三つで何をやってきたのか。それを考えてみる。
悪いことをしたら、いいところにいけないよね、悪いことばっかりしてたら。でもそれを阿弥陀さまが「全部引き受けた」と言ってくださってる。
「それほどすごいんだ。それほどのことをしてくださったんだ」ということを、その重さを知るには、『私の重さ』を知らないといけない。私の重さを聞かせてもらう。
それが求道なんです。それをしていってください。
十悪を申しました。重たい重たいこの私。たくさんいろんなことをしてきた私。今日、いま、何をやってるのか。
今まで何をしてきたのか。もう子供の頃からしか分からないですけど、もっと前もあるんです。そのことをみさせていただくと、南無阿弥陀仏が分かるような仕組みができている。
だから自分の重さを知らずにご信心をいただくことはできないんです。
自分の重さを知る。
私がやっていることをよーく知る。そしたら南無阿弥陀仏が分かるようになってますよ。それが『生起本末』という言葉なんです。仕組みなんです。分かるように出来てる。
ちゃーんと分かるようにできてるよ、難しくないよ。
それにはあなたのことを知ってください。あなたが何をしてきたのか知ってください。ノートに書いてもいい。
10個あったけど、「どんなことしてるかなー」と、ノートに書いてみてください。思い出したこと全部ね。そういうことをすると、分かります。
「南無阿弥陀仏が私一人のためにあったんだ」ということがはっきりとする日がきます。
今日は、『南無阿弥陀仏はどうしてできたのか』ということをお話しさせていただきました。
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