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浄土真宗! 獲信! 他力信心! 光雲先生のグループで聞法してます(4)

法話 『本願成就文』


(これはご法話の書き起こしです)

ご讃題「すべての人々は、その仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる」

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏



私(光雲先生)が今、読ませていただいたのは『成就文(後)』です。大無量寿経の中にある『本願成就文』という有名なところです。

みなさんは、浄土真宗の教えで一番大切なもの(箇所)はどこだと思いますか?

それが、じつは『成就文』なんです。

ですから、これは必ずみなさんにお伝えしなきゃいけないという気持ちで、今回選びました。

浄土真宗は、みなさんもご存知のように、三つのお経を大事にしています。

『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』

三つの中で一番大事なのが、大無量寿経です。

大無量寿経の中で一番大切なところは、十八願ではなく、じつは『成就文』なんです。

そのことを、今回、お話ししたいと思います。



まずは、十八願の現代語訳と成就文の現代語訳、この二つを比べてほしいんです。

「何が違うんかなぁ」っていうことが、すごく大事なんです。

十八願というのは、法蔵菩薩(阿弥陀仏になる前の修行者)が「私は必ず迷っているあなたを救います」ということでたてられた願いです。



わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

これが十八願です。



次に、成就文(前)を見てください。

成就文は、大無量寿経の、下巻の最初にある言葉なんです。

釈尊が阿難に仰せになった。

さて、無量寿仏の国に生れようとする人々はみなこの世で正定聚に入る。
なぜなら、その国に邪定聚や不定聚のものが生れることはないからである。すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。




ここからが、十八願の成就文(後)になります。

すべての人々は、その仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる。



この二つなんです。

で、この十八願だけでは分からないことがあるんです。私らの力量・浅い知恵では分からないことがある。

だから、それを、お釈迦さまが、成就文で説明してくださってるんです。



ここで、クイズです。

十八願をもう一度見てください。



・クイズ1

「わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら」

十八願の、この言葉について。

「浄土に生まれるということは、いま決まるの? それとも死ぬ時に決まるの?」

この答えは成就文のどこにあるでしょうか?



・クイズ2

十八願に、「心から信じて」とありますが、「わずか十回でも念仏して」という言葉もありますね。

それなら、

「信じるのが大事なの? それとも念仏するのが大事なの? どっちなの?」

この答えは成就文のどこにあるでしょうか?



・クイズ3

「もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません」

十八願の、この言葉について。

「法蔵さまは、今どうなってる状態なの? その願いはかなったの?」

この答えは成就文のどこにあるでしょうか?

ーーーーー

お釈迦さまがおられたから、阿弥陀さまのお心を分かってくださったんです。

仏と仏だから、分かる。

だから、お釈迦さまがおられなかったら、私たちは分からなかったんです。

お釈迦さまが仏でもあられる。でも、地球に人間として生まれてこられて、私たちに説明することができる立場にあられるわけなんです。



・クイズ1の答え(解説)

「浄土に生まれるということは、いま決まるの? それとも死ぬ時に決まるの?」という問いについて。

成就文で、

「さて、無量寿仏の国に生れようとする人々はみなこの世で正定聚に入る」と書いてあるんです。

「みなこの世で、この世で生きてるうちに正定聚に入るよ」と(お釈迦さまが)言われてるんです。

正定聚という言葉がちょっと難しいですね。必ずさとりを開いて仏になることが決定している状態、それを正定聚と言うんです 。他力の信心を得た人のことです。

だからここで、クイズ1の問いに、(お釈迦さまが)答えておられるんです。

平生業成という言葉があります。意味は「この世で生きている間に、お浄土に行くことがはっきりするんですよ」ということです。これをお釈迦さまが言ってくださってるんです、私たちに。



また、みなさんは「邪定聚って何なの?不定聚って何なの?」と思うかもしれないですね。

この邪定聚の『邪』というのは、悟ることのない者の仲間という意味。だから邪定聚とは、自分の力で良いことをして浄土に往生しようとする者のこと。十九願の行者のこと。

不定聚とは、自分の力でお念仏をして浄土に往生しようとする者のこと。
「いや~ 私は信心ないけどねぇ、たくさん念仏したから大丈夫じゃないですかね~」という感じ。二十願の行者のこと。

でも、良いことをして浄土に行こうとする者、あるいは、たくさん念仏をして浄土に行こうとする者、「そのような者たちは私の浄土にはいませんよ」と書いてあるんです。

書いてあるということは、私たちに(お釈迦さまが)教えてくださっているということなんです。

「自分の善を頼りにしたり念仏をたくさんとなえても、そこには(その行いでは)浄土行きのチケットはないですよ(チケットは手に入らないですよ)」と、お釈迦さまが言ってくださっているんです。



・クイズ2の答え(解説)

クイズ2はね、これは大事なところですね~ これは大事なところなんですよ。

十八願に「すべての人々が心から信じて」があります。そして「わずか十回でも念仏して」と並んでます。

「では、どっちなの? (『信じる』と『念仏』は)どっちが大事なの ?」ということです。

その答えが成就文の中にあるんです。

まず、成就文を見てみましょう。さぁどっちが大事なんだろうね。

ここをみてください。

「すべての人々は、その仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき」

「おこるとき」

「それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり」

とありますよね。 何がなくなっていますか?文章として。なくなっているのは「わずか十回でも念仏して」なんです。

だからどういう風にしてお浄土行きが決まるかと言ったら、やっぱり『信じ喜ぶ心がおこるとき』なんです 。

「名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき」で、念仏ということは書いてないんです。

だからですね、このまえ、歎異抄の法話会をしましたね。その時、私が「(唯円さまは)どっちかというと念仏よりですね。念仏、念仏と(歎異抄で)書いてありますね。そこがちょっと問題です」と言ったのはこういうところです。(こういうところに根拠がある)

よく比べてみてくださいね。



・クイズ3の答え(解説)

十八願に「もし救う(生れる)ことができないようなら、わたしは決してさとりを開きません」と書いてあるってことは、「現在はどうなってるの?(法蔵さまは今どうなってる状態なの?その願いはかなったの?)」ということが気になるところなんだけど、そこをお釈迦さまが、成就文というかたちで、つまり「成就している」というかたちで、書いて(言って)くださっているのです。

だから、「この十八願は、願いだけじゃなくて、行(修行)もされて、南無阿弥陀仏はもう出来上がってますよ(法蔵さまは阿弥陀仏になられましたよ)」と、いうことなんです。



そして、

そのこと(「現在はどうなってるの?」について)は、十八願と成就文の間で、阿難がたずねてるんです、お弟子の阿難がね。

この大無量寿経というのは、お釈迦さまがお弟子の阿難に向かって話をされてるんです。

この、阿難というのは凡夫の代表なんです。

凡夫の代表としてここに書かれてるんですね。だから阿難は私なんです。阿難が凡夫の代表として、ここでたずねてくださってるんです。

阿難はありがたいね~ 私たちが思うようなことを言ってくださってるんですよ。



阿難はこうたずねてます。

「 法蔵菩薩は、仏となって、すでに世を去られたのでしょうか。あるいはまだ仏となっておられないのでしょうか。それとも仏となって、今現においでになるのでしょうか 」と。不安やね、十八願だけ聞いてたらね。



そうしたら、お釈迦さまが、阿難つまり私に、こう言ってくださってるんです。

釈尊が阿難に仰せになる。

「 法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたところにあって、名を安楽という 」

と答えてくださってるんですね。そして他の箇所(観経)で、

「ここを去ること遠からず」

「遠くない。近くにおられる」と、お釈迦さまが言ってくださってるんです。



だから、これ(お釈迦さまの仰せ。阿難とお釈迦さまの問答)は、遠い2500年前の話を掘り起こして昔話を聞いてる(昔話として聞く)、ということではないんです。

無量寿の仏さまになったということは、『無量寿だからずーっと働き続けることができる仏さまになった』ということなんです。

そして、働きかけておられるのはいつなのかっていうと、2500年前じゃないんです。

阿弥陀さまの働きは『永遠のいま』と言われるんです。いまなんです。

いま、こうやって話してくださっている。

だから私が「いま阿弥陀さまは何とおっしゃってると思いますか」と(みなさんに)言うのは、『阿弥陀さまがいま働きかけてくださっている。そういう無量寿の仏さまだから』ということなんです。

しかも阿難に言われているということは、『私にいま』言ってくださっているということなんです。だからこれは昔話ではないんです。

いま働きかけてくださるお経なんです。

「すごくないですか?すごくないですか?すごくないですか?」 宝でしょ、これは(大経は)。

『永遠のいま』ということは、私が死んでもこのお経があって、このお経の教えに出会った人はですね、 やっぱり『いま』なんです。「いま働きかけてもらってる」と聞けるように、この大無量寿経はできてるんです。

だから素晴らしい。



最後に、どうしてもみなさんが気になるところに触れます。

それは、両方(十八願と成就文)に書いてあります。



「ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」



これは、十八願にも成就文にも書かれているんです。

これはですね、じつは、十八願にもありますけれども、お釈迦さまが言ってくださってる言葉なんです。お釈迦さまが親心で足してくださってるところなんです。

私のところにもよく質問をいただきます。

「五逆の罪を犯したり仏の教えを謗るものが除かれるんだったら、私は除かれてしまうんですが、それはどうなんでしょうか?」と。ここが大事なところなんです。



『五逆』とは、

・父を殺す。
・母を殺す。
・お坊さんや阿羅漢の聖者を殺す。
・仏の身体を傷つけて出血させる。
・教団の和合を破壊し分裂させる。

これが五逆なんです。



「いやー よかった~ やってないわ~ よかったわ~」と思われる人がいるかもしれないですが、これはいつも聞かせてもらっているように、心で殺しても同じことになるんです。

「死んだらええのに」と、父や母を殺すかのような思いを持つ。

「介護も大変やなぁ。だんだん歳とってきて、もっと歳とってきたらどうなっていくんかなぁ」という心。あるいは、まさにその最中の人もおられるかもしれない。

お坊さんを殺したことがなくても、お坊さんを粗末にするようなこと。

「仏の身体を傷つけてない」と言っても、仏さまの教えをおろそかにする。そういう心が出血させていくわけです。

そして、仏さまの教えを伝えていこうとする集い(サンガ)を大事にしないで批判する。 そういう心も問題にされてるんです。

そしたらこの五逆に入らないという人は、なかなか難しいと思うんです。



そして、

誹謗正法というのは、『仏さまを疑う心』です。

これは気になります。とても気になります。しかし、そのことは、お釈迦さまが説明してくださっているんです。

いま、ここまで聞かれて、誰かのことを思い出しませんでしたか?

父を殺し母を殺し仏さまも殺そうとする。(サンガを)破壊しようとする。

これは『アジャセ』ですね。アジャセ王子は五逆を全部やってしまった人なんです。

まさに父を殺し母を殺そうとして、そして、お釈迦さまの集まりを破壊して自分がそのトップに立とうとしたダイバダッタに、力を貸した。

アジャセが五逆を全部やってしまったのに、お釈迦さまは、そのアジャセを許されるんです。「あなたが地獄に行くことはない。行かすことになったら私にも責任がある」と、許しておられるんです。

そこで、アジャセには懺悔の心が起こってくるんです。

「なんと申し訳ないことを…」と、知らされていく。

知らされることによって、あれほど悪いことをしてきた、そして、地獄に行くのが恐ろしいと思っていたのに、そこで回心・心のひるがえりが起こるんです。

だからこの『唯除五逆誹謗正法』というところで問題になるのは、『疑いの心』なんです。疑いの心だけが問題になるんです。

そしてこれは、阿弥陀さまが、取ってくださる。

この最後の一行があることによって、私たちは聞法・求道の道筋をみていくことができるわけなんです。



「いま、私に働きかけてくださってるんだな。いまなんだな」

で、日頃、私が言っていることですね。「いま、阿弥陀さまは何とおっしゃってますか?」と。

そして、「信心が大事である」と蓮如さまも言われてますね。

これらがなんでなのか(根拠はどこにあるのか)というところを遡ると、この成就文になるんです。

ここをよーく味わっていただきたいと思います。



南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏



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