浄土真宗! 獲信! 他力信心! 光雲先生のグループで聞法してます(6)
法話 『信心をいただいたかどうかの目安』
(これはご法話の書き起こしです)
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
はい、それではご法話会を始めます。
今日はですね、『心境が変わっていく。それが本当にご信心なのか』
それを確かめる手立て・大事なポイント(2つ)を、伝えたいと思います。
◆1.今日、命が切れるとしても、「自分の命を阿弥陀さまにお任せできるから大丈夫や」と言える気持ちがあるかどうか。
死にたくはないけど死ぬとなった時に、「 死んだ先のことは、阿弥陀さまにお任せできます 」と言えるか。
後生をかけて聞く。「後生はどうですか?」ということですね。
◆2.阿弥陀さまが、本当に自分の親、ほんまの親だと思いますか?
阿弥陀さまが、私を一人っ子のように思ってくださっていて、可愛い可愛い一人っ子のために南無阿弥陀仏を作ってくださった。私一人のための南無阿弥陀仏であったと聞けてますか?どうですか?ということ。
阿弥陀さまが、本当の私の親。阿弥陀さまから見ても、私は一人っ子。「そう思えてますか?」というところが大事なんです 。
『みんなを救う阿弥陀さま』という捉え方だったら、ご信心があるとは言えない。
どうしてそういうことが言えるのか、ということをお話しして、
「どうかな?」という人も、今それを聞いて(自問して)ほしいと思います。今、聞いて(自問して)くれたらそれで結構なんです。
みなさんが心柔らかく聞けるように、最初に、お歌を歌おうと思います。
はちすの花。蓮の花の歌です。
《はちすの歌》
お池に はちすの お花がさいた
はちす よい花 きれいな お花
どのこにあげよ だれにやろ
はちすの お花を もらうこは もらうこは
みほとけさまの かわいいこ
『みほとけさまのかわいいこ』 これは誰のことでしょう?
はちすの花が、信心です。
信心をいただくのは、仏さまの可愛い子。
可愛い子とは、私のこと、あなたのこと。
おひとりおひとり、皆さんのことなんです。『たった一人の可愛い子』なんです。
では、それ(仏さまの可愛い子=わたし)は、親鸞さまがどこに書いてくださっているのかを紹介します。
それは『浄土和讃』です。
浄土三部経以外で、阿弥陀さまのお心が分かるところです。それを和讃にしておられます。そのうちの一つです。
これは涅槃経から歌われています。
『平等心をうるときを 一子地となづけたり 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし』
《解説》
・平等心
すべての人を同じように平等に見ることができて、すべての衆生をたった一人の一人っ子のように慈しむ、そして、悲しむ心。
・一子地
可哀想なことがある時は「可哀想やな」そして「可愛いな」と、そういうふうに思える心。一人っ子のように思える、ということ。これが仏さまの性質です。『仏性』と言えるわけです。
念仏者は、お浄土で、このお心をいただく。
私たちも、そのような、「みんなを平等に見ることができて一人っ子のように大事にする、そういう慈しみと悲しみの心を持つことができるようになる」ということ。
親鸞さまも、この和讃の横に次のように書いておられる。(ご左訓)
『三界の衆生を我がひとり子と思うことを一子地というなり』
迷える私たちのことです。この迷っている世界の私たち一人一人のことを、ひとり子と思えること。それを一子地という。
だから、「阿弥陀さまは、私のことを、一人っ子のように、大事に大事に思ってくださってるんですよ」と言うことができるのです。
ご信心を得る。親さまとあったらどうなるかというと、
「あー、あなたが本当のお父さんお母さんでしたね」と、心から思える心が起きてくるのです、 ご信心をいただいた時に。
「私一人のためのご苦労をいただくわけですね。南無阿弥陀仏ができるのは、私一人のためだったんですね」と、そういう風に受け取れるようになるんです。だから逆に、受け取れなかったら本当ではない、ということ。
で、ここが難しいところ。
私(光雲先生)は、最初、そう思えなかった。
「長い長い時間をかけてご苦労してくださった。すっごく長い間考えて、それからさらに想像もできないほど長いこと修行してくださった」ということを聞いて、
「それはたくさん衆生がいるものね。虫もたくさんいるものね。これみんな救おうと思ったら、すごい長いこと修行しないといけないね」
と、いうことじゃないんです。
「私一人。ゆうこ(光雲先生)一人のためにそれだけかかった」ということを聞かせてもらうわけなんです。
そういう風に思えているかどうか。
そして、そう思えないこと。『疑ってる』ってことです。
「疑ってるということは一番深い罪ですよ。 仏さまを疑うことは一番深い罪ですよ」ということに、うなずく。
「なるほど。そういうことですか」と、うなずけるようになる。
先生は、最初、十悪を聞いた時に、「仏さまを疑うって、そんなに重いことだろうか?殺生とか人を殺したりとか盗んだりとか、そういう方がよっぽど周りの人に迷惑かける。なのに一番重い罪が仏さまを疑うことだなんて、それはどういうことなんだろう?」って思っていた。
「ではどんな風に(阿弥陀さまは)思ってくださっているか」ということが、涅槃経の梵行品に書いてあります。
一子地について、平等心ですね。
「本当にありとあらゆる命を持ったものが、私のたった一人の子供であると思ってくださっている。そして、煩悩に苦しんでいる、煩悩に苦しむ私ですね、煩悩に苦しむ私、そういうまさに今日の私、そういう私を見て、『ああ、なんて可哀想なことだなぁ』と、自らとても悲しまれるのです。『なんて辛い思いをしてるんやろうなぁ』という風に感じられる。そして全身の毛穴から血を流し、私たちのような、愚かな救われないものが地獄に落ちるのを見て、『私も地獄に生まれてみせる。私も地獄に生まれたい。可哀想に、一人で地獄に落ちて。私も同じところに生まれますよ』と、願われる」
そのぐらいのお心なんです。
私(光雲先生)は日頃、「仏さまは目から血の涙を流しておられるんですよ」と、少し控えめに言ってるけれど、ここでは、『全身の毛穴から血を流し』と書いてあるんです。
毛穴から血が出るってことは、もう、仏さまは金色ではなく『真っ赤』ですね・・・
私がそうさせている。「そんなにひどくないでしょ」って思うのが私たちの本性でしょうね。「そんなに血を流させるほど悪いことはしてないよ。いやそんなに辛くないから」とか思っているのは、私たちの(自分の)本当の姿が見えてないから。仏さまから見たら全部が見えるから『血を流して』悲しんでくださっている。
だから、こういった親さまである仏さまをずっと待たせてるっていうことは、「これほど申し訳ないということはない」というわけなんです。
「申し訳ないな。仏さまを待たせてるんだな。それがものすごい大きな罪なんだな。ずっとずっと待たせ続けてるんだな」ということを、聞かせてもらっていくのです。
こんなにも待たせている。親として子供に出あえない、子供が辛い目にあっている、というのはもう本当に辛いですよね。
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以前、一緒に聞法していたお寺に女性が来ておられた。70歳近くのその女性が、子供を小さい時に亡くされた。(2歳ぐらいの男の子)
家の中で子供が遊んでいた。ご自分は風呂場の方で洗濯をしていた。
でも、その子が、玄関から出てしまった。出たところにトラックが来て跳ねられてしまった。
あっという間にもう、悲しいことが、考えられないようなことが、起こってしまった。
普通の日常を過ごしていた。でもあっという間に子供の命がなくなってしまった。まさかこんなことがあるとは思わなかった。
その方が泣きながら、こう話された。「幸いというか、(その亡くなった子は)まるで眠ってるようだった」
車にぶつかって亡くなったのに、傷が目立ったところに見える感じではなくて、眠っているように亡くなった。
親はもう半狂乱になりますよね。「よく生きてきたと思う」と。(その方はおっしゃった)
その方は、それがきっかけで仏法を求められるようになった。だけど、もう忘れることはない。一日として忘れることはない。
時が経つと「今何歳だな、今何歳になってるな。生きていたら何歳だな」って、一個ずつ数えていきますよね、ずっとね。
同じぐらいの年格好の子を見たら、「このぐらいになってるかな」って思いますよね。思わず「私もあなたぐらいの息子がいたのよ」って言ってしまう。もうずっと心にある、そういう辛さですよね。
「あの時どうして、どうして私は、何かあの時、なんか変えていれば、あの子から少しでも離れないようにしていたら」と、そういう後悔と悲しみと苦しみが、一生ついてまわるんですよね。
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だから、阿弥陀さまから見たら、私たちは『その男の子』なんです。
「今回、どうして法を聞かしてやることができなかったんだろう。なんで南無阿弥陀仏が届かなかったのか。私がもっと、何をするべきだったんだろうか。でももう、必ず聞いてくれるまで、私は絶対に諦めないよ」と、血を流しながら追いかけてくださってる。それが阿弥陀さまのお姿なんです。
その、親さま。
「あーそうでしたか。阿弥陀さまが私の親やったんやな。そうやったんや」と、うなずけるようになるのが、ご信心なんです。
「たった一人の親であり、私はたった一人の可愛い子供であった」と受け取れるようになるのが、ご信心。
これはどういう風に分かっていくかというと、
それは、「毎日やってください」と、ご示談で毎回、皆さんに言ってますね。
「皆さんが自分の親を親と思うのは、親にやってもらったことがあるから親と思うんですね」って、いつもお話するんですね。
生まれた時を見てるわけじゃないけど、親が一生懸命育ててくれた。一生懸命働いてくれた。働いてくれたのは、私のため。
まあ、親って、ここでは一般的な親としましょう。いわゆる親にさせてください。いろんな親子関係がありますから、必ずしも慈しみを持って育ててくれた親ばかりではないこともあります。
でもまあ、一般的にですね、親と言ったら、うち(光雲先生)の親もそうでしたね、「お父さんは真っ黒になるまで働くなー」って、いつも思ってた。外の仕事だったから。「寒い時もよう働きに行くなー」って思ってた。
夏はもう滝のように汗が出るから、朝3時ぐらいに出て、日が高くなるまで働いて、暑い間は休んで、また夕方になったら働く、ということを繰り返していて、こんなに大きい、麦茶を入れるもの(水筒?)に、いっぱい氷と麦茶を入れて、毎日、真夏も働きに行ってました。で、お父さんに麦茶を用意するのはお母さん。ちゃんとやってた。それを私(光雲先生)は見ていた。
いろんな、いろんなことですね。勉強をさせてもらったのもそう。
人間らしく育ててもらった。お箸も持てなかったはずなんです。綺麗に箸を使うというのは難しいことです。
私(光雲先生)は、小さい時『握り箸』で鉛筆みたいに持って、ご飯を食べていた。
ある時から、(親から)「その持ち方ではいけないよ」と言われた。「こういうふうに持つんだよ」と。
すっごい難しくて、持ち方が気になってご飯がたくさん食べられない 。「もういいじゃないか」というような気持ちがあったと思う。綺麗に持とうと思ったらご飯一膳なかなか食べられなかった。
でも、そういうことをして(教えて)もらったから、私は箸を綺麗に持てる。
「ちゃんと育ててもらった人なんだな。大事にして育ててもらえたんだな」と、(人に)見てもらえるわけです。
「(食事中は)肘をついたりしない」とかね、いろんなところで、(相手に)見られますよね。人(自分)っていうものを。「そうやって育ててもらったんだな」って。
そうやって、「当たり前やと思ってることが、一つずつ親に教えてもらったんだな。そういうお育てがあって(今があるのに)、自分は今、一人で大きくなったみたいな顔をしてるんだな」っていうことを、知っていく。
だから「ああ、親には頭が上がらんな」と、「親には良くしてもらったな」と、思う。
だからそれが、阿弥陀さまもそうなんです。
「いま、いま、いま、阿弥陀さまは血を流して待っておられるんやな。申し訳ないことやなぁ。『南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏』と、私に向かって言ってくださってるんやな」
「申し訳ない」って心から思えなくてもいいんですよ、別に。
でも、「そう(いうふうに)先生が言ってたなぁ。ほんまやったら、もったいないことやな」とかね、そういう感じで考えてみる。
で、あるいは、毎日毎日、いろんなものの命を取ることの繰り返しです、本当に。まずいとかうまいとか言いながら。
あるいは喧嘩をする。仲良しの家族でも喧嘩をする。「自分が正しい」ばっかりですよね。
「自分が正しい。自分の思いを通したい。負けたくない」そういうことで罪を作っていきますよね。嘘をついたり、 傷つくようなことを言ったりとか。
でもそれがやりっぱなし。
自分はそう(やりっぱなし)でも、阿弥陀さまがちゃんと見ていてくださっていて、「そういうことで地獄には落とさんぞ。私が代わりに地獄に落ちるよ」と、一つずつ言ってくださっている。
一つずつ、阿弥陀さまが、許して、それを、私を、守ってくださる。
なら、「ああそうか。親だからこういうことしてくれるんか」
「本当と思えない」とかいうのは横に置いといてもらったらいいんです。でも実際に食べちゃったわけですから、実際に嘘ついたわけですから。
「あー、これを償うって、これを阿弥陀さまが背負ってくれるって言ってるんやな。それは親不孝やな。自分はこうやってずっと待たせてきたんやなぁ。申し訳ないことやな。もう待たせたままで死ぬわけにはいかんな」と、こう『考えて』、自分の気持ちは置いといて『考える』ことで、親と出あえるようになるんです。
親と出あえるようになる。具体的に考えて。
阿弥陀さまが寄り添ってくださってる。寄り添ってくださってるから全部見えるんです、阿弥陀さまがね。
「そうだとしたらもったいないな」と考えていく。そういうことをされたら、必ず阿弥陀さまにあえます。
自分が思えないっていうのは横に置いておいてくださいね。「 事実としてそうだな」と、そうやって聞いていってください。
一子地。「私はたった一人の一人っ子なんや。かわいいかわいい一人っ子なのに、お母さんを待たせてるんやな」
最初に歌いました。お花、ね。はちすの花をもらうのは、私なんです。
みほとけさまの可愛い子がもらえるんです。そのはちすの花を受け取ってください。必ず受け取れます。遠くにしないで。受け取れます。
非常に苦しい時もあると思います。「でも阿弥陀さまはもっと苦しいんだってな。阿弥陀さまはもっと待ってて苦しいんだよね」って、思い出してほしいです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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