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器用貧乏

昔からそんな感じだった


運動とか勉強とか、字とか絵とか。昔からそれなりに一定のレベルまではできていたと思います。かといってズバ抜けてるものはなく、友達が多いわけでも少ないわけでもない。クラスの中では本当に標準あたりをずっときていて、高校くらいからはゆっくりと勉強についていけなくなっていましたが笑、それでも最下位とかではなく目立たないあたりで生きてました。

目立つことを避けてきたような、でも好きなことは突き抜けたいと思っていたような、周りにどう思われていたかは知らないけど、自分でもいろんな顔を持っていたんだろうなと思います。とにかく誰かに自分のことを決めつけられたくなかった。それだけははっきりしていました。




偏ることを怖がってきたけど、偏らないと突き抜けられない


以前のブログで書いたように、私は今まで思考が偏ることを避けてきました。偏る=全体を見れていなない=一方的に決めつける、みたいなイメージ。だから1つの考えが出てきても常に疑って、こうも考えられるんじゃないかと思考を巡らせたりして、物事も人も決めつけない人間になろうとしてきました。

ですが、これによって多面的に物事を見られるようになった反面、なんか無難なことしかできない。いつもアクセルを踏んだ瞬間にブレーキがかかる感覚があるんですね。

だからいろんなことのバランスを取ろうとするほど、突き抜けることはないのかもしれないなぁと気付きました。そもそも有名になってしまうほどの才能があったら、きっとバランスを取れずに突き抜けてるはずだと思っていて(そもそも隠しきれない)、まぁでもそんなものはなかなか見つからないんだろな。




なりたい理想の姿と思考のズレ


私は好奇心が強い方なので、いろんなものに手を出したいタイプで。なので仕事も趣味も、ある程度分かってしまうと飽きてしまうんですね。いろんな世界を見たいのでそういう自分に満足な反面、何かひとつくらい突き抜けたいなぁという気持ちがあったりして、どっちつかずなことになってます笑。

それもこれも、突き抜けている人=何かが得意な分どこか偏っている人、という私のイメージがよくないのかなぁ…と。たとえ可能性として突き抜けるものを持っていたとしても、偏ることを恐れている限り無意識にブレーキをかけてしまうんだと思います。とはいえ何において突き抜けられるのか、まずはやってみないと分からないんですが。

ちなみに私にとって自覚できる得意なことといえば唯一、人の話を聴くことです。これに関しては、最近まで人より長けていることだとあまり自覚していませんでした。けれどあまりにも人の話をじっくり聴ける人が少ないことに気付きました笑。そこで、人は誰かの話を聴くことに対して、ものすごいエネルギーを使っていることを知ったんですね。人の話をじっくり聴くというのは疲れるみたいで笑(私は人に興味があるのであまり疲れません)。

そう考えると、私の突き抜けられるところは人の話を聴くことなんだろな。万が一他にも自分の才能を無意識に押し込めているかもしれないので笑、まずは偏ることを恐れずに色々やってみたいなぁと改めて思いました(新年始まったしね)。


新年からまた思考整理をダラダラと。では2025年もよろしくお願いいたします。





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