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フランスの哲学者ドゥルーズのニーチェ解釈を参考にしながら、大阪と東京の比較論、東京一極…

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フランスの哲学者ドゥルーズのニーチェ解釈を参考にしながら、大阪と東京の比較論、東京一極集中の弊害、首都大阪の意義を考察してみました。団塊ジュニアの戯言にどうぞお付き合いくださいませ。

最近の記事

スピリットオブザキャピタル《⑨牡牛の頭》

  明治維新以降約150年の間に、東京に蓄積されたあらゆる既得権益と、そこに住む人々の心の中で無意識のうちに醸成されてきた慢心を振り払うためには一体どうすればよいのだろうか。それを解く鍵は我が国の歴史に隠されている。  作家の堺屋太一氏が指摘したように、我が国の歴史をひもとけば、飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代(本来であれば安土大坂時代と呼ぶべきだが)・江戸時代といった具合に、すべて首都機能の所在地で時代名が呼ばれていることに気がつく。この事実は

    • スピリットオブザキャピタル《⑧裸の王様》

      『新たな世界を明るみに出すのは罪ある傲慢ではなく、つねに目覚めている<戯れの本能>である。』                                                                                     ドゥルーズ『ニーチェと哲学』  かつて、作家の堺屋太一氏が雑誌『中央公論』の中で「政治家のベルサイユ化」を指摘したことがある。これは、二世、三世の世襲議員を18世紀フランスのルイ16世治世の時代にベルサイユ宮殿に閉じ

      • スピリットオブザキャピタル《⑦大阪とディオニュソス的なもの》

        『われわれを軽やかにし、われわれに舞踏を教え、われわれに喜びの本能を与えるのがディオニュソスの仕事である。』                                  ドゥルーズ『ニーチェ』  笑いと軽やかさは大阪の強みである。大阪の生活文化に対する大阪人の愛着は深い。特に、ニュアンスの豊かな大阪ことばを駆使しつつ、笑いや軽やかさを取り込んだコミュニケーション文化と豊穣な食文化は、大阪の強みを表象する事象となっている。それらは生を肯定的に謳い上げることによって硬直し

        • スピリットオブザキャピタル《⑥テセウスとディオニュソス》

           「テセウスは重苦しさ、重荷を好んで背負いたがる傾向があり、笑うこと、戯れること、軽やかさを知らない。  テセウスは、肯定するとは担うこと、引き受けること、試練に耐え、重荷を背負うことであると考えている。現実とは重くのしかかるものであり、義務を担うことと考える。それゆえ、テセウスは、大地の荒涼たる表面に住み、担うことを知っている砂漠の家畜――ラクダを象徴とする。  テセウスは知らない。肯定するとは重荷を背負うことではなく、生けるものの重荷を取り除いて解き放してやることを・・

        スピリットオブザキャピタル《⑨牡牛の頭》

        • スピリットオブザキャピタル《⑧裸の王様》

        • スピリットオブザキャピタル《⑦大阪とディオニュソス的なもの》

        • スピリットオブザキャピタル《⑥テセウスとディオニュソス》

          スピリットオブザキャピタル《⑤東京中心主義》

          『怨恨とは、弱者である限りの弱者の勝利、つまり奴隷たちである限りの奴隷たちの反逆と彼らの勝利のことである。』            ドゥルーズ『ニーチェ』   東京奠都以来の東京中心主義が浮き彫りになっている。(東京)メディアによる奇妙なまでの偏向報道も、大阪を排除するかのような心理も、東京の大阪に対する反感が源泉だったようだ。  我が国における負のレッテルの最大の被害者は何と言っても大阪である。大阪が最大の被害者になった理由は何であろうか?東京が活躍してもらっては困る都市

          スピリットオブザキャピタル《⑤東京中心主義》

          スピリットオブザキャピタル《④大阪disの深層心理》

          『実際、苦悩する者は誰でも、その苦しみの原因を本能的に探し求める。さらに詳しく言えば、何か生身を持って活動しているような原因を求めるのでありいっそう正確を期して付け加えると、ある一人の責任者を、つまり彼もまた苦悩することがありうるような悪い人間を求めるのである。…苦しむ者は、どんな口実でもいいからとにかく自分の激情を、実際にそのひとに向かって、あるいはその「人形」に向かって吐き出すことができるような生きた存在を探し求める。なぜならば、激情を吐き出してしまうことは、苦しんでいる

          スピリットオブザキャピタル《④大阪disの深層心理》

          スピリットオブザキャピタル《③東京の精神》

          『奴隷たちの道徳は、「外のもの」、「他なるもの」、「自分とは異なるもの」に対して、まず初めに<否>と言うことから発生する。そしてこの<否>こそが、奴隷たちの道徳が実行する創造的行為なのである。価値を定める眼差しがこのように逆立ちしていること――すなわち、自分自身に向かい合うよりもむしろ、つねに外側に引きずられ、外へと向かってしまうこの必然的な方向性――これこそまさしく怨恨の本性をなしている。』                                  ドゥルーズ『ニー

          スピリットオブザキャピタル《③東京の精神》

          スピリットオブザキャピタル《②大阪の精神》

          『主人の道徳は自己自身の勝ち誇った肯定から生まれる。能動的な諸力においては、肯定が最初であり、否定は一つの結果にすぎない。すなわち享受をいっそう増大させるものとしての、一つの帰結以外のものではけっしてない。』                                  ドゥルーズ『ニーチェ』 「自分たちは力を持っている、享受を生み出す力、創造し、工夫する力を」。このように、自分を肯定することができれば、おのずとその大切な自分のために向上心を持とうという意欲が湧いてくる

          スピリットオブザキャピタル《②大阪の精神》

          スピリットオブザキャピタル《①大阪と東京の原型》

          『ある現象がどれほど複雑なものであろうと、一方にはたしかに能動的な、一次的な諸力、征服と制圧の諸力が認められ、他方には反動的な、二次的な諸力、順応と制御=調整の諸力が認められる。この区別は単に量的なものではなく、質的でもあり、また類型論的な区別でもある。』                                                                                               ドゥルーズ『ニーチェ』 「力」あ

          スピリットオブザキャピタル《①大阪と東京の原型》