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薔薇の踊子

1-8

 その晩から、恵にバレエの日が戻ってきた。いや、あの公武と出会った昼下がりに、もうバレエが彼女の中に舞い戻ってきていた。ローザンヌ前と同じように、学校と、レッスン場と、公武の屋敷(正確には、川端の屋敷であろう)を行き来する毎日に変わった。家に帰れば、進級の勉強をする間もなく、疲れて眠る日々である。そうして起きると、またバレエのことを考える。
 だからだろうか、絵里奈の練習を、以前よりももっと見るようになっていた。彼女の技の一つ一つ、動作の一つ一つ、そうして所作の一つ一つを、注意深く観察して、自分にないものと、自分にあるものとをより分けて、織り交ぜて、そうして、公武との練習に備える。要は、それほどまでに、公武の要求が大きいということだった。本当に、公武はなぜ私を選んだのだろうと、恵には思える。絵里奈ならば簡単にこなせるようなことも、恵には荷が重いときもある。
 ニジンスキーはそれほど背が高いわけではないし、だから公武も同様だ。しかし、それでも170半ばの公武は、力もあって、ジャンプも高い、必然恵もそれについていくために運動量が多くなるが、それを賄えるほどの体力がなかなかつかない。
 絵里奈が簡単なように見せるフェッテも、それを支えるほどの体力と基礎の運動があることを、恵は痛感していた。だからか、絵里奈の毎日の日課である、ランニングに同行することを、恵は志願した。絵里奈は毎日五時半に起きて、一時間ほど走るが、朝起きられない恵には苦行である。しかし、恵は自分の苦手を克服しようと、朝は絵里奈よりも早く起きて、彼女を急かすようになった。
 走る内に、肉体が磨かれていく心地で、何故だろうか、公武に追いつくために、走っているのかと思えるときがある。そうして、加奈子はそのような娘の大きな変化が、小さな恋の花の咲くのに似ていることに、気付いていないだろう。しかし、もう一度バレエに巡り会えたかのように見える娘に、彼女の来年のローザンヌへの参加を、頭の片隅に置くようになった。
 絵里奈は絵里奈で、恵と同時期の公演に備えて、自分の技に磨きをかけ始める。普段はおっとりと、日本の娘そのものであるのに、レオタードをまとって、ポワントを履くと、もう異国の娘のように、外国の白鳥のように、調べに乗って、美しく飛び出す。そうして、黒鳥に成るときは、娘は常のやわらかい目線ではあるが、しかし、底意地の悪さのようなものを覗かせてくる。それが、絵里奈の本質なのかはわからないけれども、加奈子が思う以上に、オディールそのもののように見える。
 二人の娘が、急に、互いに競うように踊り始めて、娘をプリマか果てはエトワールに育てたいという自分の願望が、より現実味を帯びてきて、どうしても期待してしまう。数ヶ月前には朧気だった夢想も、今では鮮明に思う浮かべることができる。絵里奈の才能に、萎縮していたように見えた恵が、それに食らいつこうとして、反対に、それが絵里奈の刺激にもなっている。
 母親の心も知らずに、恵はただ絵里奈と練習を共にすることで、彼女の実力が才能以上の努力と、そうしてやはり鮮やかに咲いた才能故のものであることを、改めて感じていた
。そうして、いつしか自分の身体にも、目に見えての変化があった。レッスン場で、国元の指導を受けるとき、今までに苦手としていた回転技も、回転数を上げても、それなりにこなしてしまう。自然とそうなるから、これが鍛えた成果かと、自分でも驚くほどだ。そうして、パンシェを上げるときも、公武の姿勢についていくために(公武は、あの初めての日のアラベスクをいたく気に入っていて、振付にもアラベスクを取り入れたいとうるさいのだ)何度も何度もアラベスクの練習をするうちに、自然と足がきれいに開いて、何よりも高いパンシェになった。背の高くない恵ではあるが、恵のパンシェも見た公武は、足が天にも届きそうだと、そう言った。自分でもその変化は感じられて、足がどこまでも伸びていきそうに、開いていきそうに思える。開脚が得意な持ち前の柔軟力に、普段のランニングや筋トレで筋力が鍛えられているおかげか、公武に褒められて、恵は有頂天だった。そうして、上手くなればなるほどに、更に向上を求めてしまう。
 日々の流れはだんだんと過ぎて、朝のランニングで紫陽花が香る頃には、御心坂も青に紫に白色でいっぱいだった。姫紫陽花がかわいく咲いていて、恵は通学中、紫色の花びらが自分の制服に重なって、心も躍るのだった。そうして、ときおり紫陽花の花びらにふれて、スマートフォンで写真を取る。特に用はないけれども、LINEで公武に写真を送る。教室に戻って、柚希と話しているときも、スマートフォンに意識がいって、話が頭に入ってこない。そうして、授業が始まって、二時間目が終わるその頃に、スマートフォンがスカートのポケットで振動した。シスターに見つからないように、そっとスマートフォンを開いてみると、
〈きれいな花だね。ありがとう。〉
そうメッセージが届いて、恵は何も言わずに、ただスマートフォンを大切そうに、掌で握りしめた。
 公武は、今頃宇賀神で勉強をしているのだろうか。高校二年生の勉強は、どんなものだろうか。絵里奈は、自分よりも一つ上なだけで、英語とフランス語の勉強を、家でも熱心にしている。恵には出来ない芸当だ。そのような芸当を、将来の自分のために、進んで学ぶ絵里奈に、ライバル心を燃やすのは、分不相応だろうか。外を見ると、雲が澱んで、今にも雨が降り出しそうである。
 そうして、また心は公武に移りゆく。彼が校庭の芝生で踊っている。薔薇の精のように、いや、梅雨時だから、紫陽花の精だろうか。紫陽花の精などとは、自分で考えてもおかしいが、しかし、公武ならば、青や紫の花々を取り付けた衣装を簡単に着こなしそうだ。そうして、雨の中で、雨粒水玉をまとって弾いて、何よりも高く跳躍しそうだ。そんなことを考えているうちに、だんだんと眠気が襲ってくる。今日も、明日もレッスンだから、公武には会えないだろう。レッスンで、また自信ついてくると、公武にその技を、見せつけてやりたくなる。そうして、彼に認めてもらいたくなる。しかし、あと二日も会えないのだから、いっその事、公武を遊びにでも誘おうかと、二人で遊びに行く夢を見る。しかし、そのような夢も、いざ本当に動き出したら、今のように、あのアステカのお屋敷に、気軽に踏み入れる関係に、皹でも入るのではないかと、そのように思えて、行動に移すことなどもちろんできない。あくまでも、自由な空想の中で楽しむ遊戯である。
 あの、アステカの屋敷には、絵里奈も踏み入れたことはない。それが、恵には自慢だった。つまらない優越感でしかないけれども、踊りではどうしたってまだ絵里奈には叶わない。それでも、私はあの屋敷に行くことが出来るのだという、特別な境遇が、恵に光りめいて思えた。
「ねぇ。あのお屋敷、めぐちゃんは覚えてる?」
急に耳もとに聞こえる声は、シスターの声に重なって、幻聴に思えるが、昨晩の夜のことだろうか、雨音を聞きながら、絵里奈と話していたときの一端が、今耳もとに流れたのか。
「お屋敷?どのお屋敷?」
「パーティーで、めぐちゃんと踊ったわ。まだ小さい頃よ。六つか七つ、そんな頃に。暖炉が燃えていて、蘆屋の街が一望できるテラスがあったわ。」
雨音が続いている。記憶の中の雨音と、現実に落ちる雨音とが重なり合って、昔、幼い頃に演奏したクリスマスの聖誕祭での金管楽器の演奏に変じていく。恵は頬杖をついたまま、
「なんとなく。広いお屋敷で、光が溢れていたわ。でもね、夜だったようにも思えるの。夏のようにも思えるし、冬のようにも。」
「七夕の夜のような、クリスマスの夜のような。」
「七夕の夜。」
「宵山の夜かもしれないわ。あなたのお誕生日。」
雨音は強くなるにつれて、恵は何かを思い出すようだった。それが何かを思い出せない。
「でも、小さい頃に踊ったのは、覚えてるわ。」
「『くるみ割り人形』だったかしら。もしそうなら、クリスマスかしら。」
取り留めもない問答が続いて、恵は外を見た。庭はまだ雨を受けている。そうして、自分は寝ているのだろうか、しかし意識はあるのだ。浴槽に頭から潜っているような感覚。「めぐちゃんのお話だと、公武さんの、アステカのお屋敷は、私の記憶の中にあるバレエを踊ったお屋敷と似ている気がするわ。なんとなくだけれど。」
恵は目を開いた。もう授業は終わっていて、生徒たちは何かしゃべりながら三々五々教室を出て行く。そうして、ぼうっとした記憶を持て余したまま、恵はまだ庭を見つめ続けた。
 そうして、その二日後に、公武とのレッスンが終わったとき、恵は大分彼との息が合ってきたように思えて、
「どう?振付は出来た?」
簡単に尋ねると、公武は頷いて、
「ほとんどね。でも、まだ終わってない。七夕までには完成させるよ。」
恵は頷くと、ふいに、先日見た白昼夢のごとき会話を思い出して、
「ねぇ。私、昔ここに来たことのあるような気がするのよ。」
「ここに?」
タオルで汗を拭きながら、公武は興味深そうに恵を見つめた。恵はもう一度深く頷いて、
「記憶にあるのよ。でも、鮮明じゃなくて、おぼろげで、もやがかかってるの。だから、夢かなって思うんだけど、えりちゃんも知ってるんだ。」
「僕は生まれてすぐこの屋敷に来て、それからずっと住んでる。御父様が僕を買って、それからずっとね。息子変わりだ。八年間、ずっとここで暮らしてる。」
「おじ様はこの家に住んでらしたの?」
「そう。ずっとね。でも、僕は五年前のことしか知らないからね。その前の事は、知らないから、何とも言えない。元々、僕を買うまでは、ここにはあんなレッスン場はなかったんだ。ガラスも全部貼ったんだ。元々、ライトが建てるお屋敷は天井が狭いからね、少しぶち抜いて、空間を設けたんだ。ここは全部、昔は畳だった。」
「おじ様は何の仕事をされてるの?」
恵が尋ねると、公武はほほ笑んで、
「画家でもあるし、画商でもある。ある程度名前が識られているらしい。芸術品が好きでね。やたら集めたがるんだよ。」
「芸術品。」
「まぁ、コレクションだね。死んでしまえば意味のないものだよ。絵や、本や、書や、銅像。今は、特にブロンズ像に凝ってるみたいだね。」
「このお屋敷にも、色々あるの?」
「あるよ。でも、僕はあまり興味がないんだ。御父様の集めるものは、御父様の部屋と、応接室に幾つか飾ってある。」
恵は見てみたいと思えたが、しかし、言い出せないでいると、
「見てみるかい?」
公武がそう言うと、恵は二度頷いて、すぐに彼の後をついて、廊下を渡る。そうして、部屋の数段程度のいくつかの階段を上り下りすると、恵がまだ見たこともない部屋の扉に公武は手をかけた。扉が開くと、記憶が開いたようだった。六角形の机と、そうして、幾何学的ないくつもの通風口が、壁の天井部に小さな扉の形でぐるりと部屋一面に並んでいる。そのどれもが開いていて、夜空が覗いている。そうして、入口のすぐ横には御影石で出来た暖炉があって、対角にバルコニーがあって、開いた窓からは、蘆屋の夜景が見えた。
「わぁ。」
恵は、思わず出た言葉をそのまま口にして、あの、絵里奈の話していた幼い頃の記憶のパーティーは、やはりここだったのではないかと思えた。
「すごい。広いわ。あそこから、あんなにきれいに街が見えるのね。」
「それが自慢なんだってさ。ほら、大阪湾も見えるだろう。」
バルコニーを開けると、風が涼やかに吹いて、恵のほほを撫でた。そうして、壁側にはいくつもの長椅子があるのが見える。川端のコレクションが置いてある、という公武の言葉を思い出して、恵は部屋をぐるりと見回した。見たこともない装飾が多いせいだろうか、あまりの情報量に、頭がついていかない。そうして、部屋を一瞥すると、しかし、絵は掛けられていない。
「あれが御父様のコレクションの一つ。」
公武が指さした場所には、一つのブロンズ像が置かれている。目隠しをした女性で、右手には剣、左手には天秤を持っている。
「正義と公平の神ジャスティス。イタリアに工房を構えている、奥村伸之の作品だよ。」
恵は近づいて、そのブロンズに近づいて、まじまじと見つめた。青銅の深い色合いで、格調がある。そうして、その横には女性が手を捧げている。
「これは?」
「ニンファの噴水。ニンフは知ってるだろう。『牧神の午後』に出てくるだろう。」
「ああ。あのニンフね。」
恵は両の手をぱっと叩くと、嬉しそうにほほ笑んだ。公武もつられたのかほほ笑んで、
「それは、名前を聞いて買ったんだそうだ。僕とほぼ同じ時期に、この屋敷に来たんだよ。」
「じゃあこの子もここに来て、八年目ね。」
恵はそう言いながら、この部屋に、いくつものガラス瓶があって、花が活けられているのに気付いた。そうして、
「お花がいっぱいね。」
「好きなんだよ。花が。この前、送ってくれたね。」
「え?」
「紫陽花だよ。きれいな青色の。」
恵は、急に顔が火照って、もう公武を見ることが出来なかった。公武は、
「ねぇ。恵は誕生日はいつ?」
急に尋ねられて、恵は慌てたように早口で、
「七月十六日。」
「宵山の日だね。覚えやすいな。」
公武はほほ笑んで、
「ちょっと待ってて。」
そう言うと、そのまま応接室を出て行って、どこかに行ってしまった。恵は、所在がなくなって、部屋をうろうろと、見回した。よく見ると、猫や、馬や、番の小鳥のブロンズも置かれている。動物園みたいと、恵は破顔した。
 バルコニーから夜景を見ていると、公武が戻ってきて、手には真新しいポワントを抱いている。そうして、ポワントの中には白薔薇が一輪飾られていて、それを恵に手渡した。
「お返しに。それから、誕生日に。少し早いけど。」
「わぁ。一輪なんて素敵。」
恵は白薔薇を手にして、それをまじまじと見つめた。真白い火のように思えて、あの、二人のアラベスクを灼いた白い火を思い出して、心までも白く燃え上がるようだった。公武は首を傾げて恵を見ている。
「私の足のサイズは?」
「君がシャワーを浴びているときに、確認した。」
「それはセクハラだわ。」
恵は、笑いながらそう言った。そうして、山猫のような娘は、月のような目をきらきらとさせて、公武を見つめた。公武は何も言わずにただほほ笑むだけだった。そうして、恵は調子に乗って、そのままバルコニーに出ると、くるくると、ピルエットを二回、回ってみせた。

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