薔薇の踊子
1-10
「私がローザンヌに応募するって言ったらどうする?」
練習が終わり、恵は公武におずおずと尋ねた。公武は呆けたような表情で振り向いて、
「もちろんそのつもりだと思ってた。」
「通用するかしら。」
「充分。恵のクラシックの基礎は、完璧とはいえないけど、よくまとまってるし。回転にも花があるよ。安定感と、シェネが一層に上がれば、舞台映えもする。」
公武はペットボトルに口をつけながら、そう言うと、一気に喉仏を隆起させた。
「ただ、やっぱり即興がね。コンテの勉強をした方がいいだろうね。現代バレエ、モダンバレエは間違いなくコンテに支配されるよ。そして、ローザンヌはコンテこそ試される場所であることは間違いない。」
「なんだか自信がなくなるわ。」
公武は笑って、
「ただ、やっぱり素養が大事なんだよ。斬新な踊りってはいうのは、もちろん大事だけど、クラシックの美しさはやはり軸にないといけない。その上でのコンテだよ。それに、今僕たちが踊ろうとしていることが、コンテそのものだろう。」
「あら、そうなの?だって、まだ観ていないわ。振付の本。」
恵はそう言うと、公武は恥ずかしそうに立ち上がり、部屋に行ってしまった。そうしてすぐに、薄いノートを手に戻ってきた。
「それが振付?」
恵は引ったくるように公武の手からノートを奪い取ると、表紙を見つめた。ボールペンで、『モダン・バレエ・リュス(仮称)によるロミオとジュリエット』と書かれている。
公武の作った、簡易のリブレットである。そうして、その下には線だけで描かれた男女が手を取り合う様が描かれている。恵はほほ笑みでいっぱいになって、公武を見つめた。
「あんまり見ないでくれよ。」
「何で?すごく素敵だわ。」
恵はそう言うと、床に座り込んで、パラパラとノートを捲った。その指先を見据えるように、公武は伏し目がちで、そうしてほほを赤らめた。恵はそのほほ色に、やわらかな真っ赤な薔薇を想起して、それは『薔薇の精』のニジンスキーへの聯想へと連なっていく。やはり、中性的な顔立ちである。踊るときは、それが顕著に出る。公武の身体は日増しに大きくなっていくようで、背も高く、成長が留まらないようだ。その姿に、恵は時折目を奪われる。お屋敷での練習が始まってからもう一月以上が経って、あの女子だけの花園にこの男性がいたことが夢にも思える遠い過去である。そうして、このような男があのままいれば、それは毒花になりえることだろう。恵も、年頃の女生徒の例に漏れずに、恋の話をするときには胸が心から弾むものだが、しかし、今はバレエがその代わりに跳ねるようで、それでいても公武と二人でいるときは、やはり心がさざめくのである。
そのような思いを振り払うと、恵はまたぱらぱらとノートを捲る。そうして、公武の描きたい『ロミオとジュリエット』の輪郭が、薄霧の中から浮かびあがるようである。公武は、プロコフィエフのこの戯曲を第三幕から描こうとしている。ロミオとジュリエットが死で別たれる、そのクライマックスのみを描こうとしている。もともと、公武と恵の二人で踊るつもりだった。他の人物たちは全て省いて、二人の感情だけを踊りで表現する。
「出会いは?出会いはないの?」
「あるさ。構成をぐるりと変えようと思っている。僕たち、いや、ロミオとジュリエットだね。二人の死を描いて、最後に出会うんだよ。」
「時系列の入替ね。」
「そう。詳しいね。」
「たくさんあるわ。映画、いっぱい観てるもん。『パルプ・フィクション』って知ってる?」
公武はかぶりを振った。
「映画はあまり観ないんだよ。たまに観るだけ。この前観たのが、その『ブレードランナー2049』。」
「すごく面白いわ。タランティーノ。有名よ。」
「恵は映画が好きなの?」
「好きよ。でも、たまに観るくらいだわ。テレビでやってたら……。映画館には滅多に行かないもの。ジブリとか好きだわ。『風立ちぬ』とか、『思い出のマーニー』とか。」
「恵は映画が好きなんだね。」
公武は、恵の目を見据えるとそう言った。その言葉に、単純な好き嫌いの話すら、公武とするのが珍しいほどに、踊ることに夢中になっていることに、恵は思い至った。二人の会話というものは、踊りがほとんどであり、踊り以外にはなかったのかもしれないと思えた。
「最近は観る時間がないけれど。踊ってばかりでしょう。踊るか、学校で勉強しているか、そのどちらかよ。」
「でも、そのおかげで映画よりも楽しいだろう。」
公武はそう言って笑うと、恵の顔を見つめ続けた。恵はまた伏し目がちになって、窓外に目を逸らした。紫陽花がかすかに揺れているが、色があせはじめている。梅雨が通り過ぎて、夏がそばまで来ていた。
恵はノートをパラパラと捲る。たくさんの技が描かれているが、アラベスクのシェネが、絵ではとんでもなく高い。そうして、ピケ・アンディオールのダブルでホールを回転と書かれている。恐らく、5回転?と書かれているが、あそこをアンディオールのダブルだけで回るのだろうか。また、ピルエットは支えはあるものの、四回転が複数回ある。とにかく、高いシェネ、アンディオールのダブルやピルエットなど、身体のしなやかさによる美しさ、回転の美しさを顕すものが、恵のジュリエットには求められているようだ。そうして、その上で、即興で動物の真似をしながらとある。美しい回転をしながらも、手先は自由にと、それはクラシックの流儀と反目しているように思えたが、公武には公武の考えがあるのだろう。そうして、ノートを一枚ぺらりと捲ると、次のページにはホールの写真が貼られていて、『出エジプト記』が描かれている。そうして、拙い絵だが、そこをアンディオールで回転するジュリエットが描かれている。そうして、それは上から見ると、花びらが咲くように見えるように描かれている。
「あのホールには建物の特徴の、美しい日の光が入るだろう。そうして、建物も白いだろう。あそこに、白薔薇を描きたいんだ。」
公武は指先をくるくると、ピルエットを回るように宙で回して見せた。
「ジュリエットは白薔薇?」
「だからロミオは恋に落ちるんだ。」
公武は立ち上がって、恵の手からノートを取ると、以前見せたように、また指先に小さいダンサーを登場させて、簡単なステップを踏ませた。その妖精のダンサーに、恵は目を輝かせて、動きを追う。
「上から覗き込むように観てご覧。そうすると、白い薔薇を描くように見えるよ。あのホールは右側が迫り出していて、その部分が二階に繋がったバルコニーになってるだろう?つまり、二階席から観るのと、一階席から観るので、模様が変わる仕掛けだね。二階のバルコニーからだと、バレリーナが描く薔薇が見えて、一階の客席の正面から見ると、目の前のバレリーナ自身が白い薔薇に見える。」
公武はそう言うと、立ち上がって、あの光の線が並ぶ廊下に出た。夜は薄紅色が深くなるこの絨毯に差し込む光を思い出して、恵はあっと声を上げた。
「あのアラベスクね。」
「晴れればね。ちょうど、秋の昼下がりは、あそこは光でいっぱいになる。」
「雨が降ればどうするの?」
「どうしよう。まだいい案が浮かばない。一緒に考えてくれないか。」
公武はいたずらっぽく笑うと、ノートを恵に返して、そのまま部屋に戻るように恵に促した。恵は廊下の壁に背を凭れさせると、そのままノートを開いて、公武の描いた二人の踊りを見つめた。ロミオはフェッテが多い。変わったのだろうか。初めは逆かと思っていたが、公武の言うよりも、幾分も娘らしい動きが多く、クラシックの動きに準じている。コンテが重要と言う割には、公武は恵にクラシックの素養を見ているのだろうか。
「ねぇ。これは三幕の、ジュリエットの死までを描いているのよね?時系列を動かすって言ってたでしょう?出会いはどうなるの?」
公武は頷いて、ノートを開くように恵に言った。恵がノートを開くと、白紙が浮かんだ。
「退場して、そのまま一度ホールに戻る。明日塔は学校だ。普通の舞台よりも、幾分も遊べそうだと思ってさ。初めは観客にモンタギューやキュピレットの人々、マキューシオを演じてもらおうかと思ったくらいだ。でもやめた。ホールのさ、この壁画から舞台袖まで出て、そこから階段まで三秒、ホールのバルコニーまで十秒だ。二人はここで出会うんだよ。」
「素敵。」
「君が上から、僕が下から。その踊りは、ゆったりとして、これからの感情が高まるように。一階から、僕はバルコニーにいる君を見上げる。そこは、コンテとクラシックを融合させたいんだけど、君と話して、決めていきたいんだ。君の感情を聞きたくて。だからまだ白紙。」
公武はゆっくりとそう言うと、恵の前に立って、ノートを貸すように促した。恵はノートをぱたんと閉じると、公武に返してやる。
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