氷
1-3
気付くと計は川端の書斎に来ていて、そこには山ほどの本が乱雑に積まれている。整理整頓が出来ぬ質ではあるまいが、しかし、乱雑である。それは、ある種秩序がないように思えて秩序に塗れたアウトサイダーアートめいたものだろうか。書物という、芸術が刻み込まれた品物は、その装丁を持って芸術が完遂するというような随筆を書いたのは、谷崎潤一郎だったろうか。『装丁漫談』と呼ばれるその随筆を、計は熱心に読み込んだものであるが、たしかに谷崎の書物の幾つかは美しい装丁で作られた芸術そのもので、この書斎にも少し潜んでいるそれらは、この部屋に和の彩りを与えてくれている。『春琴抄』も、『細雪』も、『蘆刈』も、『吉野葛』も、『盲目物語』も、それだけではない、様々な自作の小説を、その作風に併せた豪華本として作成している。それらのほとんど全ても、川端は手に入れたと話していた。
しかし、恐るべき輝きをもって部屋に鎮座するのは、書物よりも案外モノクロで描かれたいくつもの写真……、川端の椅子に腰掛けてそれらを眺めていると、時を超えて写真の人物たちが計の目の前に立つようだった。中でも、ワツラフ・ニジンスキーの写真は、計に感じを与えた。『薔薇の精』である。女めいてみえるね、女よりも女のようだねと川端に耳もとで囁かれたのを、計は思い出していた。あの夜の川端は、脣にかすかに紅を塗っていたのかもしれない。何の余興かと尋ねると、紳士の嗜みのようなものだよとそう零していたが、あれは計の夢なのかもしれない。あのような趣味があるとは思えない。計は、この屋敷にいると、夢か現かわからなくなることがあった。それは、この絵があまりにも絵を多く孕んでいて、あまりにも多くが絵を模倣するかのような実在だからかもしれない。しかし、あのときに見た、夢現どちらかわからぬ夢想、目ぶたの裏側で鮮明に光る紅の赤いことは、あの高島屋で口紅を求める娘たちを想起させて、彼女たちに焦がれる恵の中に萌した女がそれに重なる。口紅の聯想が、彼の夢を破るようで、千鳥足で写真に近づいて行く。やっぱりモノクロだったかと、写真に触れてそう思うと、安物のポスターを額装しただけのものだと、計にはつまらぬものに覚える。女よりも女めいて見える。その言葉が川端の言葉か計には思い出せなかったか、しかし、川端の言葉だったのだろう。しかし、あの脣は紅で赤々としていて、あの夜に見た他の女の誰かだったかもしれない。バレリーナであろうか、この屋敷にいたバレリーナは、十四歳で辞めてしまった茜しかいない……。改めてニジンスキーを見つめると、たしかに女よりも女めいている。男であることは紛れもないのに、男であって女のようでもある。しかし、紛れもない男である。鋭い目をしていると、計には思えた。女めいていて、人形めいている。この稀代のバレエダンサーの踊りを、今を生きる人間の全てが観たことがない。どこを探しても動いている映像は残されていない。足を伸ばしたまま、恐ろしいほどの跳躍をしたと、計が昔読んだ評伝には書いてあったが、ほんとうかどうか。しかし、その佇まいの美しいのはほんもので、今目にしているこの写真も、まさに精霊だろう。『薔薇の精』という演目は、舞踏会から帰ってきた少女が、さきほどまでの夢の恍惚を忘れぬ心で薔薇に口づけをする。すると、薔薇の精霊が現れて、彼女に再び美しい舞踏会の時間を過ごさせる。踊りに夢中の少女の前から、薔薇の精は一際高い跳躍で、窓枠を飛び越えてそのまま消えてしまう。それと同時に少女は夢から目覚めたかのように、はっと白昼夢から飛び起きたかのように、目を見開いて、そうするともう部屋からは薔薇の精は消えていて、そこには赤い薔薇の花が一輪置かれている。少女が夢から覚めて、美しい女になることを暗示した、簡単に読み解けば性の芽生えを描いた演目であるが、しかし、その薔薇の精がニジンスキーならばどうだろうか。写真に映るこの美しい青年は、見つめるうちに呼び寄せられるように、引き寄せられるようになる。目が鋭いからだろうか。計はその目を見つめるたびに、ふいに脣まで吸い寄せられそうになって、戦くような気持ちだ。少女が薔薇を見つめて、その薔薇の美しい赤さで目がいっぱいになったら、このような青年が現れてくるのも、まぁ大人の女の夢としてみてもおかしくないだろうか。そうして、この部屋には、ニジンスキーが在籍したロシアバレエ団、バレエ・リュスに関する多くのものが置かれている。衣装まであったが、それがどの作品のものかまでは計には分かりかねた。ほんものかどうかもわかりかねた。
「図書館みたいね。」
恵が本棚から本を抜き出しながら言った。ぱらぱらと捲っては戻し、また新しい本を抜き出す。それの繰り返しだった。恵には字が読めるのだろうか。何が書かれているか、あの目は読み解くことができるのだろうか。氷のような目を通して氷のような心に言葉が注がれたとき、そこにも火は点くのだろうか。
「先生の趣味だね。本に何千万使ったんだろうな。」
「そんなに?私、本はあまり読まないけれど、本ってそんなに高いものでもないでしょう。」
「数百円から数千円。高くても一万円くらいだ。ここにあるのは希少価値の稀覯本ばかりだよ。十万から、中には百万円もするものもあるだろう。」
「どうして?同じような紙切れでも、稀少品なら高いの?」
「人は物語にお金を払うんだよ。この本の持つ物語にね。少ないことは、重要な物語の一つだ。それから、独占欲だね。」
「同じようなものなのに不思議ね。確かにきれいだけど、書いてあることは、同じ文字だわ。」
そういう恵が、計には不思議だった。恵も、物語を背負っていて、希少価値のある存在だろう。複製人間は、まだ一般人には手の届かないものだった。金持ちの道楽に近しいかもしれない。
「同じように見えても、違うんだろうね。偽物と本物は違うでしょう。」
その言葉に、恵の目がきらきらと輝いた。それは、かすかに怒りの火を帯びているようで、透き徹る氷の中で燃える火だった。かすかに溶けていき、冷たい水が熱を帯びていく。
「あなたも偽物は安物だと思うの?」
「ほとんどがそうだろう。本物に価値があるから、偽物が蔓延るわけだよ。」
計の言葉に、恵の目がますます赤くなった。しかし、計は気にすることもなく、
「偽物でも、本物よりも価値のあるものも、時にはあるかもしれないけれど、それこそ、ほんとうに才能のある贋作師か何かの作品だろうね。贋作そのものが、作者の主題……。」
「贋作が主題?そんなものがあるの?」
「あるさ。本物よりも本物らしく作れば、それはもう本物だろう。ばれなければ、本物だよ、少なくとも、たくさんの人間が偽物を本物と思って、痛い目を見ている。それはまぁほんとうにただの金儲けの偽物だろうけれど……。」
恵は、水晶のようにきらきらとしていながらも、今にも皹が入って割れそうな目を、ずっと計に向け続けていた。その目を見ていると、自分のおさなごころに貫かれているような感覚を、計は受けた。
「ねぇ、それじゃああれは何ですの?」
恵が指さした場所に、ニジンスキーが舞っていた。
「何かの舞台?踊り子さん?」
「ああ、バレエダンサーだよ。ワツラフ・ニジンスキーだね。」
「ニジンスキー?」
「ロシアバレエ団の踊り手だよ。不世出のダンサーと言われていたけれど……。」
「不世出?」
「天才ということだよ。」
計がそう言うと、恵はそっと指先を伸ばして、硝子に触れるようだった。そうして、硝子越しのニジンスキーに吐息をかけると、硝子に霜が降りたようだった。
「きれいな目をしているわ。」
「彼は若くして踊れなくなって、狂ったんだよ。」
「どうして狂ったの?」
「バレエ・リュスというバレエ団があった。彼はそのバレエ団の花形だったけれど、そこの団長と恋仲だった。男同士だけどね。二人は色々な諍いを起こして、まぁ、よくある決裂だね。そうして、二人を袂を別れた。ディアギレフー……、ああ、その団長だけど、彼は男色家でもあったようだ。二人が決裂してからも、それぞれ艱難辛苦をくぐり抜けてきたわけだけど、ニジンスキーのそれには厳しいものがあったんだ。その厳しい苦しみの中で、彼は神と交信をしたりしていたんだけれど……。」
「ああ、それは狂っているわね。」
いつの間にか計の言葉に聞き入って、書斎のソファに胡座をかいてみせる恵の太腿が匂った。恵の目は、ニジンスキーの悲劇を聞いて、嬉しそうに弓を引いている。
「天才と言われて、容姿もいいのに、神さまとの言葉を話しちゃあ、もうおしまいね。」
「けど、彼の姿は美しいだろう。そこにかかっている薔薇の精。美しい姿じゃないか。」
「女みたいね。女よりもきれいかもしれないわ。」
「そうだね。女よりもきれいだろう。不思議な色香がある。」
そう言ってみると、ほんとうに薔薇の香りが部屋を包むかのように思えた。薔薇にくるまれて、二人はどこか見も知らぬ場所にいるかのようだ。恵は、ニジンスキーに惹かれるようで、彼の写真をじっと見つめては、小首を傾げて見せた。何か、写真と話をしているようで、写真と人形の対話劇だった。
「君もバレエをやるんだったね。」
恵は振り返って、つま先立ちになると、挑発するような目で、計を見つめた。計は何も言わずに、先程まで恵がかけていたソファに腰を下ろして、彼女が見せるバレエの舞いを目で追った。
「伯父様はお金持ちなのね。」
天井を見上げながら、呟くように恵が言った。計は、眠気が飛んで、先程まで微睡んでいたのかと、知らずに寝入ってしまう自分に驚いた。ずっと、恵は踊っていたのだろうか。恵が催眠かなにかで自分を眠りにつかせているのだとして、起きたときに恵が消えていたのならば、自分こそが薔薇の精の少女であろう。
「先生が金持ちなんだよ。先生は、大抵のものは手に入る金がある。美術品なんて、普通に生きていればまず関わることがないさ。だからみんな美術館に行くんだよ。ほんとうの名品は、何千万何億とするんだから。」
「美術館って、さぞきれいなんでしょうね。」
「行った事がないのか?」
「ないわ。でも、茜に何度か話は聞いたのよ。たくさんの芸術品で溢れてるって。美しい場所で、それ自体が芸術だって。」
恵は自分の身体のそこここを白蛇のようにくねらせながら、そうしているうちに、指先に目があるかのように、ほんとうの蛇のように思える。赤い脣が花開くと、そこからさらに血の色めいた舌がちろちろと現れるのではないかと、計には夢想された。それは彼女を始めて見たときに見た、赤い月の下のサロメ像を思わせた。
「絵も、彫刻も、写真も、何でもあるんでしょう?」
「この屋敷を大きくしたようなものだよ。ここは美術館のミニチュア版だな。」
「ここでも私には充分すぎるくらい、美術品があるけれど……。」
「日本にも山ほどあるし、世界中にもっとあるよ。世界中の人がそれぞれ美術品を手にしても、余るほどにね。世界中には今は70億人の人間がいるけど……。それ以上だね、きっと。そんなに人がいることは知っているかい?」
「知っているわ。バカにしているの?」
「生まれてまだ二年だろう。気になるんだよ。言葉をすらすらと操るし、物事は何でも知っているしね。」
「言葉は生まれつき喋れるわ。」
「でも、ネイティヴの言葉遣いだろう。言葉を淀みなく話すためには、たくさん知らなければならないこともあるはずだろう。なのに、君はもうほとんど勉強の必要もないくらい、美しく話せる。」
「そう言われても、私にはわからないわ。意味として知っている言葉と、知らない言葉がある。それだけよ。」
恵は踊るのはもうやめて、そうしてそのせいで心まで失ったように、くるりと計に背を向けると、そのまま書斎から出て行ってしまった。計は立ち上がり、窓から外の景色を眺めた。雪の勢いは死んでいて、そうして、川音が聞こえてくる。外の川音に耳を取られるうちに、さらさらと流れるような潺の音がいつの間にか耳から離れていることに思い至った。時折高い金属が弾けるような、ピアノめいた音も混じりあっていて、あれは恵の音だろうかと、そう思えた。それならば、まさしく人形の心音というものが、あのような作り物めいた音で、ゼンマイ仕掛けかなにかの心臓なのだろうかと、奇怪な妄想が膨らんでいく。恵の胸を裂いたのならば、そこから熱い血潮に塗れた氷が姿を現すのだろうか。熱と氷が共生するというあり得ぬ妄想も、あの娘の中であれば間違いなくあり得るように思える。窓には、暗闇に自分の黒い目が浮かんでいるだけだった。その目の上にぼたん雪が落ちるとすぐさま溶けるのは、目が裂けて涙がこぼれるようだった。