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今年のわたし

今年の正月は北九州の門司港とジアウトレット北九州に行った。

ジアウトレット北九州はとにかくすごい人出で、やはり、正月、皆初売りに来るのだなぁ、と、ゲーセンで、姪っ子のために取ろうとしたパウ・パトロール、これは2,000円が溶けるのみで、私は損切りをした。

私は、ゲーセンで毎回1000円〜3000円かけて取れないと、怒りのあまり我を失いそうになる。ゲーセン側の言い分である、クレーンゲームはゲームをプレイするためにお金を払ってもらっているので、取れなくても違法ではない、的な、あれ。ならプライズなんて入れずにクレーンだけ置いとけや!と、視野狭窄を起こしかけて、ああ、これが馳星周の主人公的感覚か……と、それを冷静に俯瞰する自分もいる。

悲しみを抱きながら、この人手、子供たち、最早、書店パトロールなど叶うはずがない、とにかく生きて帰ることだけを願う。

ジアウトレットに行く前、併設されている、スペースラボなる施設に赴いていた。
空いていて快適だ。科学館で、色々な展示があり、スペースラボの跡地、ということで、出来て5年程くらいだと聞いた。

私は腹痛を覚えて、そそくさとお手洗いに駆け込み、便座に座る。トイレが、そう、トイレが異様なまでに綺麗だった。しかも、便座に座って顔をあげると、1F、2F、3F、全てのトイレのデザインコンセプトが書かれていて凄まじい気合だった。
私が観てきたトイレの中で、公衆のものではトップクラスの綺麗さ。
後で義兄に聞くと、スペースラボのトイレはTOTOが気合を入れてやっているそうで、なるほど、然し、なんという快適さ。
私は常々、その施設や店舗の価値はトイレで決まる、と思っている。トイレが汚い店は総じて全てが横着である。これは決めつけではない、私の中の真実である!(決めつけ)
まず、トイレが綺麗だと、その店に行けば、もしもの時にお腹が痛くなっても大丈夫、と、いう、そういう気持ち、足を運びやすくなる(別にう◯こをわざわざしに行くわけではないぞよ念の為)、御客様も増える、これは道理である。
トイレは、聖空間であり、完全なるプライヴェートスペース、スペースラボ、なのであって、自己と向き合うことの出来る現代社会に遺された最後の聖域なのである。
さて、私はこのスペースラボを十全に楽しんだ後、後半のジアウトレットで何が何だかわからないうちに半日が終わってしまう、という、まぁ、これも正月のまつり気分を楽しむためには大切な儀式。

で、翌日は門司港に行ったのだが、門司港、レトロである。門司港レトロ、というくらいだから。今までに2回か3回くらい来ていて、今回ものんびり散策、と、行きたいところだが、お子たちがいる中でそんなことは出来ない。
もう、遊び場、子供の遊び場、に行くしかない、のであるが、その前に、焼きカレーを食す。美味い美味い。

生卵が入っていてアツアツで美味しい♡

で、行ったのは関門海峡ミュージアム、である。
ここは子供がたっぷり遊べる場所があるのだ。海峡こども広場はわずか100円で40分間、アスレチックを堪能できる。ゲーセンのクレーンゲームとはえらい違いである。

で、お子たちは家族にお任せして、私は1時間も自由時間を頂く。嬉しい……!
実は、関門海峡ミュージアムに入る前に、その横にある旧大連航路上屋が目に入り、そこで、入場無料の、北九州のシネマにまつわる展示をやっていると、書いてあり、うずうずしていたのだ。

で、関門海峡ミュージアムを出て、海風を受けながら、ようやくお正月の気分。早速、巨大な旧大連航路上屋に入る、入ると、様々な展示があるが、これは常設の様、で、人々が奥の方へと吸い込まれていく。それについていく途中、北九州シネマの展示をしてあるスペースにたどり着くが、お正月休館で、入れず……このようなことは、数日前にもあって、それは、下関にある、田中絹代ぶんか館、これに行こうと思って向かったところ、まぁ、これも、当たり前かもしれないが、年末ということで展示をやっている松永文庫、休館だった……。

奥に人々が吸い込まれて行ったのは、どうやら、田中達也のミニチュアライフ展目当ての方々がほとんどだったのだろう。

私は途方に暮れながら、小さな閲覧スペースでしばし、『ガス灯』なる写真の想定に見惚れて、それを眺めて過ごす。

で、最早旧大連航路上屋には用はないとばかりに、颯爽とそこから出ると、再び関門海峡ミュージアムへ。どうやら、子供の遊び場の他、レトロな町並みを再現したエリアもあるようで、そちらへと向かうと、朝ドラが現れた。
誇張でもなく、朝ドラのセットのようで、去年久々に行った、映画村よりも気合の入っているような町並みで、圧巻である。
で、資料も充実していて、めちゃくちゃいい施設だなぁ。

うーん、これはすごいなぁ、と、2Fの資料室なども眺めながら、で、基本的には、バナナ、門司港といえば、バナナの叩き売り、で、バナナの都々逸が書かれていて、これはもう、素晴らしい、で、バナナにまつわるポスターの数々、それから、映画、で、もうバナナンバナナンバナナ、って感じで、バナナの世界、更には、のぞきからくりも置いてある。

バナナにまつわる大量の本。獅子文六にここでも会えた。
映画版もあるんだね。「バナナは美味しい果物です。だが食べ過ぎると下痢をする。人間の望みも楽しみもバナナと同じようなもの…」って深い言葉ですね。肝に命じます。
バナナの都々逸。
大正時代のミルクホール。ミルクホール、と、いえば、一度、鎌倉のミルクホールには行ったことがあるが、あそこすごいいい感じの異空間だったなぁ。
のぞきからくり。

のぞきからくりで有名な演目は徳冨蘆花の『不如帰ほととぎす』だそうで、明治文学の代表的なものの一つである。明治文学って、やっぱり文体とかの問題で、大正昭和よりも圧倒的に読まれていない。私も全然詳しくないし。やっぱり、夏目漱石がそれだけ偉大、ということなのであろう。

で、まぁ、のぞきからくり、私も、ぜひ観てみたい、けれども、こう、口上師、なぞ最早絶滅危惧種、で、あり、活弁士、だって、そうだろう、映画が登場して、のぞきからくりは消えていく運命、のぞきからくりは、映画は1895年に生まれて、そこから、1920年代後半にサイレントからトーキーへと映った、で、カラー映画は1930年代半ばから増え始めて、そうして、今度は特撮、合成、CG、などなど、どんどん技術は進歩していき、完全なる2Dアニメーションだって、たまにあるが、最早それ自体が宣伝文句になるように減っていって、全ては過去になる。過去は歴史に埋もれていくと同時に時を重なるにつれて発光していく宝石になる。それは星と同様、で、あり、遠く、遥か昔の輝きに私達は感動するが、それはもう、滅びた星の光なのである。だが、その滅びた星の輝きは、藝術の星の輝きは、今このときだけではない、さらには数年後、数十年後、数百年後、もしかして、数億年後、幾億光年とOmoinotakeが歌っていたけれども、人々の星として永久に輝き続ける、それこそが、文学や藝術の不思議さであり、偉大さ、ひいては、人間の偉大さなのであろう。
で、私も、今年も、そういう藝術作品、に、ついて、偏見を交えて紹介しながら、3分くらいは、少しは皆様を楽しませるような、そのような文章、書いていきたい、皆様の心に、少しでも、偉大な藝術作品や思いの丈の籠もった作品などについて偲ぶ一助となる文章を書けるように精進いたしますので、

あけまして、おめでとうございます
今年もよろしくお願いいたいします




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