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それってほんまにそう思ってんのん?


小説に情景描写は必要かと問われれば、必要だとは思う。
けれども、決して重要な要素だと、私は思わない。
書くのならば、ここぞという場所で書かれるべきだ。
そして、それは物語に直結、或いは、主人公たちの人となり、若しくはテーマに沿って、意味のある情景でなけらばならない。
物語の舞台をトポスへと変えてしまうほどに…。

川端康成の掌の小説の中に、『有難う』という作品があって、伊豆を舞台にしている。
今作の主な情景描写は、
今年は柿の豊年で、山の秋が美しい。
だけである。山の秋、というのが川端康成らしい。秋の山が美しい、ではつまらない。私の薔薇、ではなくて、薔薇の私、にしてしまう感覚。

この僅か17文字が、この物語の場所の美しさ、特徴を集約しているとも言える。
この作品を平岡公威は高く評価していて、まぁ、彼の過剰かつ纏綿な文章とは正反対の簡潔さ、簡素さである。鏤骨な推敲を感じさせる、削ぎ落としの美である。この17文字は美しいし、情景を想起させる余白があって、いいなとは思うが、それ以外の情景描写はない。

それでも三島がこの描写を美しいとし、作品を高く評価したのは、
結句そこで描かれる掌の物語に魅せられたからに他ならないだろう。
三島の妄想力が半端ないのかもしれない。と、いうのも、この一文を読んで素晴らしい情景描写だと思う人はあまりいないだろうと思われる。
この文章は作中で二度繰り返されるが、伊豆の美しさを想起させるのは難しいのではないか。
けれど、三島が素晴らしいと言えば、皆右向け右で、素晴らしいと思い込む。くだらない権威主義であって、しょうもないことだと思う。

私は小説の帯の推薦文がすごく嫌いで、強烈な惹句が書かれていることが多い。天才、傑作、文学の奇蹟、エトセトラ……。商売だからしょうがないかもしれないが、これらが本当だと、世の中に傑作と天才が溢れすぎている。それならば逆説的にそれらの人々は普通になってしまうのではないだろうか…。

人は煽られると高揚し、動揺し、心が平静でいられなくなる。お熱を上げて、買ってしまうが、惹句の通りの作品なんて、そうはない。
今年の芥川賞受賞作の『推し、燃ゆ』なんて、「恐るべき21歳」なんて書いているけれど、ハードルを上げすぎではないだろうか。年齢で小説を読むわけではない、思想を知りたくて小説を読むのだ(少なくとも私は)。
まぁ、所詮は宣伝文句だから、本気にする人もいれば、本気にしない人もいるだろう惹句通りの傑作が、この世界にどれほど生まれ落ちたのだろうか、実際は、もう皆忘れてしまっていて、二十歳過ぎればただの人である。

昔、獅子文六という人気作家がいたけれども、今はもう誰も読んでいない。ちくま文庫で復刊し、「コーヒーと恋愛」とか「箱根山」とか、物語小説を書いていて、少し売れたようだが、それでも少数派で、また消えるだろう。
同時代でも生き残る作家(それも、例えば2100年代に読まれるかと言えば怪しい)と生き残らない作家がいる。
所詮、空騒ぎでしかない。人生はから騒ぎだと、車谷長吉も書いていた。


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