丑の刻 半分、実話。
「京の都の北の方、山嶺の麓に座す貴船神社にまつわるお話しを致しましょう。世の中には様々な鬼がおりますが、その中でも一等恐ろしいのは恨み辛みの鬼、嫉妬の鬼でございます。丑の刻参りと云うものがございます。丑の刻とは草木も眠る世に云う丑三つ時。この刻に、嫉妬に狂った白装束を纏った女が頭に鉄輪を巻き、手には藁で編まれた人形と、五寸釘を持ち、貴船の山の奧に一人籠もると、その藁人形に杭の変わりか五寸釘を打ち込むのです。元はある男に裏切られた橋姫なる女人が、その恨みを男にぶつけ呪い殺す為に、貴船の山に籠もりそのような事を行ったのが、その始まりだと云われております。
さて、この丑の刻参りの伝承は、今の世もあらゆる女性や男性に受け継がれ、彼らが恨みに我を忘れたその時に、白装束を身に纏い、橋姫同様、藁人形を妬ましい相手に重ねて、五寸釘を打ちつけるのです。
あれは、私が十五の時でございました。母の使いで鞍馬山の麓に住む叔父を訪ねて、お使いを言付けられた時のことでございました。母には夕暮れまでに帰るように云われ、私は頷き、ここ御池から鞍馬山まで電車とバスを使い、一人お使いに赴いたのです。朝早くに出たものですから、昼前には叔父の家に着き、そこで昼食をご馳走になりました。私は、久しぶりのお使いで少し疲れたものだから、叔父の家で横になり、ぐっすりと寝入ってしまったのです。起きると辺りは日が落ちていて、すっかりと暗くなっていました。叔父の家の中を見渡すと、数本の蝋燭の灯りが部屋を煌煌と照らしており、強い風の音が窓越しに聞こえておりました。聞こえるのは、風音だけです。それだけです。時折、風は強くなって、鎌を振るかのように、ひゅうひゅうとなりました。私は急に心細くなり、叔父を捜しました。それでも、叔父の姿どこにもなく、叔父の家族の姿もありませんでした。誰もいない家に、私は一人取り残されました。時計を見ると、まだそれほど遅い時刻ではありませんでしたが、夜の闇の深さに、心が震えて萎えてしまい、先程横になっていた居間に戻ると、そこから一歩も踏み出す事が出来なかったのです。暫くすると、玄関口の戸がガラガラと開く音が聞こえ、私は身を強ばらせました。扉が閉まったかと思うと、次いでぎいぎいと床がなる音が聞こえ、その音は徐々に私の元へと近づいて来ました。私は思わず、叔父さん?と尋ねました。しかし、何の反応もありません。私は恐る恐る今いる居間の襖に目をやりました。そうすると、何か、襖の磨り硝子の奧に、人の……いえ、長い髪をした女の影のようなものが見えました。それは、何も云わずに、静かに私を見つめ続けているようでした。私は、その影から目を反らし、頭を抱えて蹲りました。暫く風の音と、襖が揺れる音だけが私の耳を震わせていました。どれほどの時間が経ったのか解りませんが、私が様子を伺おうと顔を上げると、磨り硝子の奧には、何の影も見あたりませんでした。床が軋む音も、何も聞こえませんでした。そうすると、玄関口のドアがガラガラと開く音がまた聞こえました。何かガヤガヤと人の気配と話し声が聞こえました。それは、磨り硝子を隔てていても、叔父の声だとすぐにわかり、私は叔父の元まで急いで駆けていきました。震える私を見て、叔父はただ事ではないと思ったのでしょう、私に震えている訳を尋ねました。叔父は私の話を聞くと、神妙な面持ちで何度か頷きまして、それから、今日はもう遅いから、泊まっていきなさい、とただそれだけ云いました。
私は熱い湯船に浸かり、一人客間に通され、そこで眠りにつきました。微睡みに落ちる間際、天井に映る幾重もの染みが、あの磨り硝子の奧にいた女の顔を形作っておりました。
翌朝、叔父は私を送り届ける際に、お前が見たかもしれないものを見せようと、私を鞍馬山の林の中へと導きました。何本もの欅の木が鬱蒼と茂り、其処は昼間でも日が届かずに、暗く、陰鬱な場所でした。叔父は、一本の木を指し示し、私に云いました。
ーあれが、此処からの木のほぼ全てにある。ー
ーあれとは、何なのでしょうか。ー
私は、指し示された木に近づき、目を凝らしました。木には、何か古ぼけた、紙のようなものが刺されていました。それは、写真でした。顔を釘で打ちつけられた白黒の女の写真でした。黒く変色した写真には何本か、髪の毛のようなものが絡まりついていました。誰の髪の毛なのでしょうか。私が顔を上げると、目の前の木々の全てに、同じような写真が何枚も刺さっているのが、遠目でもわかりました。叔父は、この山には、丑の刻参りの儀式を行おうと登ってくる人間が何人もいるのだと、おぞましいその事実を滔々と話して聞かせました。では、私が昨日叔父の家で見たのは?霊ですらなかったのでしょうか?叔父が帰るぞ、と呟き、山を降り始めました。山道に留めた車に戻る最中、何かに呼ばれた気がして、私は振り向きました。木立の影に、白装束の女が立っていて、私を見つめておりました。そう、丁度そこの襖の磨り硝子の裏にいる、その影のように。」