薔薇の踊子
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絵里奈が、ぐんぐんと力をつけて、今はもう本当の白鳥と黒鳥のように思えるのが、恵には驚きよりも、喜びを与えていた。レッスンの合間合間に聞こえてくる曲に合わせて、絵里奈は動きも、表情も、色も変えていく。そうして、その光景を見ているうちに、先日公武と観に行った、マシュー・ボーンの『白鳥の湖』を思い出した。あそこでは、黒鳥の代わりに、パーティに現れるストレンジャーが登場する。その、夜のクラブでのパーティに現れる名も知れぬ不良ものめいて、ストレンジャー役の踊り手は舞うのだが、絵里奈の黒鳥は、あのような色気はない。しかし、正統派の黒鳥で、真に黒い悪魔だった。その悪魔の踊りのグラン・フェッテ。ポワントできれいに立って、三十二回転一人で踊る。絵里奈は、もう正確に回っていて、大きさはそれほどないけれども、小ぶりの花のように見えた。それを見た吉村が、黒椿のようだと言っていたが、その言葉に、恵は以前、公武に花のようだと言われた自分のピルエットを思い出していた。
公武も、時折隣で練習している絵里奈に目を奪われている時がある。面白いもので、そうなると、恵はもう負けじと、娘の意地で、公武に自分を精一杯見せるのであるが、そうすると、大抵は失敗してしまう。緊張と、力みとで、自分の味が殺されてしまう。
「踊りに正解はないからね。上手い下手、美醜はあるけれど。」
公武はそう言って、大きくステップを踏む。元々が、男子の少ない教室である。いてもまだ少年ばかりだから、今大きくなろうとしているダンサーの公武は、やはり人目を引く。その容姿の美しいのと、回転の大きいこと、跳躍の伸びに、吉村や国元も目を見張る。丁度、見学と冷やかしにきていた古館は、目当ての公武を見つけると、その踊りをじっと見つめていた。古館は、公武の一挙手一投足に興味があるようで、何も言わずに腕を組んで、その踊りを眺めている。
「どう?彼は。」
国元が隣に立って尋ねると、古館は目を細めて、
「抜群に上手い。それから綺麗だね。一つ一つの動作がはっきりと、それでいて、区切りがないね。スマートだね。どこぞのバレエ団に入れば、まぁすぐにでもプリンシバルだろうな。彼、レパートリーもあるの?」
「大抵は踊れるみたいね。」
「十六には思えないな。」
「ほんとうは八歳だもの。」
「それに彼、もう綺麗じゃないね。」
古館がほほ笑むと、国元は赤くなって、
「止めてよ。生徒がいるんだから。」
「そのせいかな、色気があるね。見惚れてしまう。」
古館は、先程までの笑いを止めて、羚羊かなにかを森で見た狩人めいて、息をひそめた。そうして、国元が視線を向けると、公武が大きくフェッテを跳んだ。
「恵はどう?」
古館が視線を向けると、恵は丁度、群舞の白鳥を舞っていた。加奈子に内緒にしてもらう代わりに、教室の公演に出演することを呑んで、彼女は白鳥だった。主役の白鳥は背の高い白鳥だが、恵の白鳥は背のあまり高くないのがかわいい。そうして、野生の勢いがある白鳥で、恵が群衆に紛れると、思いの外浮き出てくることが、古館には意外で、面白いのだった。
「彼女、存在感があるね。」
「そうね。何でかしらね。背も高い訳じゃないし、特別足が長いわけでもないわ。」
「勢いがあるのかな。それなのに、一つ一つの動作はしっかりとしているだろう。」
「丁寧なのよ。えりもそうだけど……。」
「絵里ちゃんのは言っちゃなんだけど、予測できるな。しっかりして、乱れず、美しい。けれど、完成しすぎているな。逆に、恵ちゃんのは、しっかりしているし、その上、そこからもっと伸びていくように思える。ほら、こう花がふわっと咲いて、匂いまで広がるだろう。その匂いのような、その残り香のようなものが、指先や足先に宿っていて、それが踊るたびに、彼女の周りを浮遊するかのような……。」
古館は、自分ではなんと言っていいのかわからないようだったが、そうまで言うと、また黙って恵の踊りを見つめた。そうして、古館の言葉に、国元も何となく同調して、恵の所作を見る。たしかに、絵里奈の方が安定していて、美しいのだが、恵の動きは、ただきれいだった。そうして、古館の言うように、その動きが妖精めいて見えるのが、国元の目に驚きだった。白鳥と言うよりも、白い妖精である。
「『レ・シルフィード』じゃないんだから。」
「確かにね。彼女は個性が強すぎるんだな。キャラクターダンサータイプだと思うけど、でも、キャラクターダンサーにしては、演じる役割まで食ってしまいそうだ。」
「困るわよ。そんなの。使い道がないじゃない。」
「ぴたりとはまるキャラクターなら、これ以上の適役はいないだろう。それに、キャラクターの上から自分が浮かぶなんて、羨ましいくらいだよ。」
二人の会話など聞こえないから、恵はただ音楽に合わせて、ステップを踏んでいた。そうして、目端に映る古館と国元を見ながら、その心のうちでは、自分の踊りが拙いことを、二人して言っているのだろうかと、被害妄想に囚われる。しかし、身体は軽いのである。今までに踊った中で感じたことのないほどに、上手いこと音楽に乗っている。それは、端で見ていた公武にもわかるようで、足を止めて、恵を見ていた。
「あれだけの女の子がいて、それで彼女の姿が目に入るのは、すごいことだよ。絵里奈は絵里奈でクラシックの天才かもしれないけれど、妹もなかなかどうしてすごいものだ。」
「でも、一糸でも乱れてもらっては困るのよ。そういう舞台なんだから。」
「だから古典は面白くないんだよな。」
古館はそう言うと、ため息をつくように肩を落とした。そうして、
「古典を解体して、新しいものへ。彼女のようなキャラクターダンサーこそ、コンテ主流の今には一番必要だろうに。」
「随分彼女の肩を持つのね。」
国元が古館を横目で睨み付けると、
「見ていて飽きさせないのがダンスだろう。」
「あなたがディアギレフ、もといベジャールシンパだからでしょう。それももう古いけれど。何よりも、これはこの教室の舞台で、古典の『白鳥の湖』を美しく踊るのが大切なのよ。だから、絵里奈は圧倒的に正しい。」
古館はもう何も言わずに苦笑すると、また恵を見つめた。複数の視線に射られて、恵は痛い程だった。
そうして、教室のレッスンが一区切り着くと、続くのは公武との学祭向けの踊りである。これは、吉村が見る。公武は待ちくたびれたように、恵を急かして、恵はもうてんてこ舞いだった。練習の果てのないのが、彼女に疲労を与えてはいたが、しかし、心地よさもある。練習が終わると加奈子が迎えに来て、絵里奈と恵は、ただ今日あったことを、嬉しそうに話すだけである。公武の話など、無論しない。そのような日々が続いて、段々と夜が短くなる頃には、もう加奈子の頭から、公武のことは薄れかけていた。娘の幼い恋は終わったのだと、安心していた
夏休みで、練習と、勉強が続いて、小中高一貫の明日塔には、ただの進学テストが設けられているだけで、これは便宜上のものである。とは言っても、それなりの成績を残す必要があったから、勉強の比率も次第に上がり始めて、恵はもう遊ぶ暇もなかった。
しかし、それが楽しいのである。遊ぶことよりも、こうして、日々が埋もれていくことに、恵は楽しみを見出して、それが遊びだった。
そのうちに、ある美しい朝に、恵は自分の身体に変化が起きて、女の印が起きると、胸も以前よりもふくよかになった。脣は、自然と濡れるようだった。鏡の前で、その姿を見つめると、恵は、ほほの肉も温まっていて、それは、もう夏休み前の自分とは隔たれているのが、目に見えてわかるようだった。絵里奈が、高等部に上がる前に、その変化に自分で気付いた時に、体型が著しく変わることを、嫌っていたのを思い出した。中学に上がる頃から、それはやってきていて、しかし、恵には今頃である。その感覚がわかって、恵はつまらない気持ちになった。その日は、何もする気が起きなくて、気怠く、考えることすらも、煩わしいから、レッスンを休んだ。何か、幼い野生が、傷を負って眠っていて、その野生は、公武の言葉を借りるのであれば、山猫であろう。純潔の血が流れる山猫は、踊ることに疲れているようで、もうただただ眠ってしまいたいのだった。しかし、そうして目を閉じると、頭の痛みに浮かされて、その痛みに、山猫が倒れて死んだ、そのときに流れる臭いがするようだった。それは、昔嗅いだ黒百合の香りのようで、恵は、うとうとと、風邪薬を飲んだ昼下がりのように、水の中に浸かるようだった。寝ていたようで、眠りから覚めると、身体を冷やそうと、水風呂に浸かった。そういていくうちに、身体は冷えてきて、代わりに山猫がすやすやと眠るようだった。水風呂から上がると、寒さに凍えるようで、タオルで身体を拭いて、寝間着を着ると、冷房を消した。そうすると、部屋はすぐに蒸し暑くなって、先程飲んだ風邪薬で眠らせた山猫に魔が育って、恵はまた眠りについた。何度か声が聞こえて、それは絵里奈のようでも、加奈子のようでも、時には公武のようでもあった気がした。しかし、公武が家に来るはずはないのだと、夢の中でも恵ははっきりと否定した。公武は、加奈子から拒絶されているだから。そうして、公武であると思いたい、ただそれだけのことだからと、震える身体を抱きしめると、恵は深く痛む身体の奥と頭を飲み込んで、そのまま眠りについた。
起きると、何事もないようで、幽かに鈍痛があって、恵は眉を顰めたが、鏡の前に立つと、昨日よりも幾分か花めき妖精めいた自分がいる。
絵里奈に相談すると、彼女はただ自分に起きたときのように、泰然とした様子で、薬を渡してくれた。それを飲むと、痛みは治まって、いくらでも踊れるようだったが、ストレッチだけで止めておいたらと、絵里奈がそう言うので、レッスン場の端で、体育座りになって、ただレッスンを眺めていた。絵里奈の動きを見ているうちに、だんだんと、薬が効いてきたのだろうか、妙な心地で、絵里奈の指先までもが白鳥の羽のように思える。幻覚でも視ているのかと、そうして目を開くと、もうレッスンは終わっていた。痛みはまだかすかにあったが、どこか遠くで発光する熱のように、離れた場所にあった。
九月になって、学祭まで二週間を切ると、それと同時に新学期だった。まだ、加奈子には予定通り公演をすることを話していない。加奈子は学祭に来るだろうし、そうなると、必ずばれてしまうだろう。しかし、恵は、もうあと二週間、何もなければ、その後に何があってもよい心構えで、しかし、同時に、この夏に国元とその恋人の古館に、ローザンヌの審査用の振付を考えてもらってもいて、ローザンヌにも行けたらと、空想の羽が広がっていく。しかし、公演を観た加奈子が激怒したら、それも無理なことかもしれない。
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