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ミルキーウェイ

2-4

 屋敷から出ると、ちらちらと白いものが落ちていた。掌で受け止めると、雪だった。曇天が広がっていて、見つめていると、その白い空から落ちてきた雪の溶けるのが、自らと重なるようである。そうして、視線に狩屋の離れが見える。離れは何か強力な磁力のようなものを発しているように、草麻生の視線を奪って離そうとしない。振り向くともう百子の姿はなく、お手伝いの姿も見えない。狩屋は書斎だろうか。草麻生は恐る恐る離れへと近づいた。外から見ると、ただの古い蔵にも見える。そうして、蔵の扉に手を触れると、かすかに鈍い音を立てて、少しばかり後ろに動いた。草麻生は、もう一度辺りを見回して、誰もいないことを確認すると、扉を押して、中に入った。天窓から明かりが漏れているが、外が曇っているからか、中はうす暗く、草麻生は明かりを探した。小さなランプを見つけたが、蝋燭がなかった。ランプを手にして、辺りを見回す。電灯を探しながら、周囲を見回す。そうして、奥へ進んでいくと、獣の臭いがした。いや、初めから臭いはしていたのだろうが、周囲への警戒のせいで、全く気付かなかっただけだろう。そうして、臭いに伴って、動物たちの鳴き声が耳を擽る。スチールのラックが並べられていて、そこには様々な動物がいた。暗闇の中で、動物たちの目が輝いている。赤い眼もあれば、黄色い目もある。そうして、黒々と漆黒も。禽獣の類であろうか。それは屋敷に眠る多くの人形たちを思い出させた。作られて、集められて、ただ沈黙の中に放り込まれた人形。これらの動物たちを使って、狩屋がどのような研究をしているのかは、草麻生はにはある程度推察出来た。ただ死に逝くために生きている動物たち。草麻生はラックの上に置かれたライターを手に取ると、ランプの火を点けた。そうすると、離れの中に温かみが差した。合わせて、いくつもホルマリン漬けが見える。そうして、草麻生は一瞬、その中に人の影を見たように思えた。しかし、それは奇形の動物でしかなかった。何の生き物かわからなかった。
 合成生物。違う種を掛け合わせて作られる、人間の産み出した存在。複製人間も似たようなものかと、草麻生はホルマリン漬けを見つめながらほほ笑んだ。そうして、ふいにランプの明かりが捕らえた場所に、小さな扉があるのが見えた。南京錠が掛けられているが、鍵はかけられていなかった。背筋に悪寒が走った。何か恐ろしいことに手を伸ばしているように思えたが、気付いた時にはその南京錠は草麻生の手の中にあった。扉を押すと、金属の擦れる音が聞こえた。錆が匂った。草麻生はゆっくりとランプでその中を照らすと、いくつかの器具が見えた。それは、明らかに何かを切り裂くものや、縫合するもののようであった。そうして、水が揺らめくのが見えた。水槽があった。人面魚でもいるものかとランプを近づけると、しかしただの水槽だった。そうして、そこに顔が見えた。草麻生はランプを取り落としかけ、息を呑んだ。それは水の中にいるわけではなかった。ただ、水槽に映った顔だった。振り向くと、ガラスケースに閉じ込められた人間がいた。美しい顔立ちをしていた。眉毛がなく、うっすらと紅をのせているかのように赤々とした脣だった。目はきらきらと輝いていて、黒目は宇宙のようだった。しらじらと星が舞った。そうして、裸のままで、乳房は膨らんでいたが、男性の印が伺えた。草麻生はまじまじと、この少年とも少女ともつかない生き物を見つめた。ランプの明かりを近づけると、眩しそうに目を細めた。
「閉じ込められているのか?」
「いいや。ここで暮らしているんだ。」
「君は人間?」
「どうだろう?パパはそうだと言うけれどね。」
「パパ?」
「僕を作った神さまだよ。」
草麻生は立ち上がった。そうして、座ったまま小さくほほ笑みを浮かべる彼(もしくは彼女である。草麻生は彼女と形容したいほど、この生き物は美しい顔立ちをしていた。しかし、その男性の印がそれを許さないほどに逞しいのが、アンバランスだった)を見ろしながら、薺を感じた。これは複製人間ではない。複製人間に近いもののように思えたが、それとは違う、人間とは決定的に違う生き物に思えた。両性具有だろうか。一人の人間の中に、少女と少年がいて、牡と牝がいる。一人で遊びに耽ることで、身籠もるのだろうか。
「君はずっとここで暮らしているのか?」
「ずっと……。生まれてからここにいることをそうだというのならばね。」
「君は男か?女か?」
「わからない。男か女か。それはパパにも聞かれたんだ。パパは、僕が僕一人で、新しい命を産めたら素晴らしいと言っていた。それよりも、僕一人で、パパの相手を出来る事に、もっと嬉しいと言っていたよ。」
「君の相手?」
「パパは僕の身体で遊ぶんだよ。その遊びで、パパは幸福になれるんだよ。」
草麻生は何も言わずに、ただ彼の顔を見た。彼の顔は揺らめいていた。男の子のように美しい少女であり、女の子のように愛らしい少年。その美しい顔に浮かぶ恍惚は、狩屋から与えられたものだろうか。草麻生は震駭した。そうして、このジル・ド・レの館を燃やし、狩屋を殺してやろうという衝動が迸った。草麻生は振り返った。誰もいない。今ならばこのケースを破壊して、彼を捕まえて逃げられるだろうという考えが浮かんだ。草麻生はケースを開けようとその周囲に触れたが、しかし分厚いガラスで出来ていて、鍵がなければ開けることが難しそうだった。草麻生は舌打ちをして、立ち上がった。軽くケースを叩いたが、厚いガラスは割れそうもない。草麻生は立ち上がり、ケースの中の彼に声をかけた。
「君をここから連れ出す。」
「パパにばれたら殺されてしまうよ。」
彼は顔にほほ笑みを浮かべた。草麻生の言葉がくだらない冗談に思えているのか。
「パパはもう何人も僕の兄姉を殺しているよ。何度も何度も殺しているよ。」
草麻生は黙った。そうしてこの小さな部屋から出ると、離れの中で、ガラスを砕けるようなものはないかと探して回った。しかし、辺りには何も無い。そうしているうちに、天窓から見える景色に一層闇が忍んできていて、草麻生は扉を開けると、中の彼に声をかけた。
「また戻る。僕がここに来たことはパパには言わないでくれ。」
「内緒?」
彼は人差し指を口元で伸ばして、しぃと息を吐いた。草麻生も彼に倣った。
「内緒だ。そうしないと、それこそ殺されてしまうだろうから。」
そう言うと、草麻生は扉を閉めて、また南京錠をかけた。鍵はかけなかった。ランプの火を消すと、暗闇が戻った。しかし、動物たちの目は、屋敷の中に爛々と輝いている。草麻生は用心深く離れから出ると、そのまま脇目も振らずに屋敷から飛び出すように逃げた。心臓が鳴っていた。彼は、夢だろうか。俺が見た、白昼の夢だろうか。しかし、夢ではない。彼が夢ならば、薺も夢のように消えてしまう。そのように恐ろしい思いがあった。
 町は雪に塗れていて、白色に染まっていた。道行く人々の声が、遠い遠い外国の言葉のように聞こえる。彼らは帽子を目深にかぶり、そうして傘で身体を覆い、その顔はひとつも見えない。これならば人形と同じではないだろうか。彼らもまた、原田の作る人形と何一つ変わることがないのではないか。草麻生はバスに乗り込み、後部座席に座ると、窓外を見つめた。ガラスは曇っている。そのせいで、人々の顔はますます朧気になる。俺はいつから夢の中を歩いているのか。そう思ううちに、街灯がぽつぽつと点きはじめて、火の道の中を行くようだった。急に寒気が襲ってきて、草麻生は両腕で身体を抱いて、そのまま目を閉じた。がたごとと揺られていく内に、夢の中に落ちていって、マトリョーシカに落とし込まれた錯覚だった。

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