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たんぽぽ人形②

 「Kさんもだいぶ疲れていらっしゃるわね。毎日欠かさず来て下さるわ。」
「あの男も変わっている。眠り姫なぞいつまでも待つなんて。」
「あなたの娘じゃあありませんか。」
「そうさ。かわいい娘さ。小さな小さな眠り姫だ。しかし、もう起きそうにない。あの子の心はもうどこかに行ったあとかもしれない。」
「どこかって、どこに?稲子はここにいますわ。」
「どこに行ったかなんて、俺にもわからないさ。」
Fは眉間に縦皺で刻んで、コーヒーに口をつけた。かすかに冷めていて、苦い味だけが、Fの舌で遊んだ。そうしていると、昔が思い出された。稲子がまだ五つのころで、小さなお姫さまの頃だった。いくつかの言葉を覚えたてで、たどたどしく話す様が、Fの心を洗って満たした。伊豆の牧場に、家族三人で旅行をした時のこと、稲子は馬をひどく怖がって、震えていた。はじめて見たからかもしれなかった。Fは稲子を持ち上げて、その掌でゆっくりと馬の体に触れさせた。初めは恐る恐るで、震えていた稲子だったが、馬の毛並みに触れているうちに、「あったかいあったかい」と何度も口にして、次第に笑顔が広がっていった。その日の夜に、稲子は牧場に隣接されたホテルの食卓で、馬がかわいい、馬がかわいいと、何度も嬉しそうに話していた。一日で価値観を反転させて、みるみるうちに変わってしまった娘に、Fは不思議な心地がした。食事が終わると、コーヒーが運ばれてきて、稲子はテーブルの上に置かれた陶器の砂糖入れに興味を持って、取っ手を掴んで、蓋を外した。中にはきらきらとした星屑のような砂糖がたっぷりと入っていて、稲子は、
「宝石みたい。真白できれい。」
と楽しげに笑った。甘い声で、清潔な色の笑顔だった。純粋な喜びに満ちていて、真白な砂糖のように美しい清らかさだった。その愛らしい声を聞いていると、Fは目の前の稲子が、十五や十六の娘になった姿を夢見た。それはまぼろしであったが、Fに美しく甘いひとときだった。
 その十年後には、稲子は美しく生い立っていて、あの日のまぼろしの再現された。馬上で、楽しげに笑う稲子は、まぼろしの稲子よりも輝いていて、Fには、毎年親子三人で訪れるのこの旅の素晴らしさに勝る喜びはなかった。
「俺はある意味で嬉しいのかもしれない。」
「あら。何が嬉しいの?」
「稲子は魔界にいるようなものだよ。」
「魔界だなんて。稲子は自分の内側にいるだけでしょう。」
「自分の中に閉じこもることが、ある種魔界のようなものだよ。魔界に入り難いのは、狂わないと出来ないからだ。」
「娘が狂っていることを喜ぶなんて、それこそ狂気よ。」
「作家も、画家も、音楽家も、みんな狂気に陥りたいのさ。」
「それは創作の類でしょう。稲子は違うわ。稲子は、私たちの愛情じゃない。その愛情が狂うなんて、私には堪えられないわ。」
「俺だって稲子が狂うだの、こうして夢見病で、俺たちのことすら見えていないことは辛いよ。でも、今稲子がいる世界を考えてしまう。どうして、稲子がこうして、俺たちとは隔てた世界に行ってしまったのかを考えてしまう。」
「私たちの愛情の不和かしら。でも、あの子にはKさんもいるじゃない。」
「K君が鍵なのかもしれない。彼が歯車で、稲子を魔界に落とした、メフィストフェレスなのかもしれない。」
「愛情から魔界に落ちることなんてあるのかしら。」
「憎しみから魔界に落ちるのなら、愛情はその何倍も強力じゃないか。強盗や殺人のような利己的な暴力は、狂気でもなんでもないだろう。でも、愛情からの殺人は、ほんとうに深い深い心からの暴力だろう。」
「愛しているから黒くなるのね。」
「愛は指をすり抜けるだろう。だから強く握りしめるんだが、どうしても砂や、ほら、白い砂糖のようにさらさらと零れていくだろう。幸福のようなものさ。だから、それをよりぎゅっと、こう、閉じ込めるんだ。」
閉じ込めるという言葉で、稲子が蓋を開けて、Fが蓋を閉めたあの真白な砂糖が思い出された。美しい白い砂糖を閉じ込めているうちに、Fの脳裡に、美しい稲子を閉じ込める幻想が浮かんだ。そうしてその白い砂糖と稲子が溶けて交じりあうと、いつしか稲子は砂糖になった。
「じゃあ稲子は何か内側に隠しているものがあるのかしら。愛情や何かを隠しているの?それが稲子の今の姿と重なっているの?」
「そういう風に思える時がある。稲子はほんとうはここにいて、俺たちを見つめているのかもしれない。あの瞳はきちんと俺たちを捉えているのかもしれない。」
「途方もない話ですわ。それに、仮にそうだとしても、とても信じられないわ。だって今の稲子の瞳はほんとうに暗闇そのものですわ。向かい合って、あの子の瞳の中に自分が浮かぶと、ほんとうに夜の闇の中にいるみたい。ほら、あそこに真白なたんぽぽが咲いていますでしょう?つい暫く前までは、黄色い花だったのに、今は真白……。あの白い花が、稲子の瞳に浮かぶのよ。」
「白い花か。白い花には全ての色があると言うね。白色には全部の色があるんだ。」
扉が開いて、Kが戻った。Kはふたりの会釈をすると、ソファに腰を下ろした。
「雪がどんどん降り積もっていきます。ここも放っておくと埋まりそうに思える。」
「今日は君も泊まっていくといい。部屋はいくつかあるから、遠慮することはない。」
「あの雪は稲子さんの心の風景でしょうか。どんどん白く染まっていって、僕らのことも、全て白に覆われてしまうんだろうか。」
「ちょうど今そんな話をしていたのよ。そこの窓辺に白いたんぽぽがあるでしょう。稲子の周りのものは、全部が白くなっていくみたい。外の景色も、目の前の花もね。」
そう言われると、Kには気味が悪かった。雪で景色が消えていくのが、世界が消えていくのと同様のように思えた。ここには、稲子とFとM、そして自分しかいないのではないだろうかと、そんな風にすら思えた。
「恐ろしい想像ですね。でも言い得て妙だな。ほんとうに、稲子さんが夢見病で自分の中に嵌り込んで、そうして僕らの気付かない内に稲子さんの中に取り込まれているのかもしれない。」
Kはそう言うと、もう一度外を見つめた。部屋の中に沈黙が流れて、雪の降り積もる音が聞こえた。雪のひとかけひとかけがしんしんと積もって、重苦しい呼吸のように聞こえたが、Kにはそれがどうやら自分だけの幻聴だということを、ふたりの顔を見て気がついた。Mは立ち上がると、空になったFのカップを持って、
「おかわりをいれてきますね。何かお菓子でも持ってきましょうか。」
「いや、いいよ。それよりも、君も今日は泊まるんだろう?」
「ええ、そうさせてもらうつもりですが。」
「じゃあ母さん、夕食の準備をしてくれないか。私も少し腹が減ったよ。」
Mは頷いて、Kに会釈をすると、扉の音も立てずに閉めて部屋から出て行った。廊下が軋んで、Mが遠ざかる音がKの耳に谺した。
「色々な絵がありました。」
「全部複製だよ。たいしたものはない。」
「不気味な絵ばかりです。あれはゴヤですね。」
「私はゴヤが好きだね。天才のゴヤへの憧れのようなものかもしれない。スペインのプラド美術館にわざわざ足を運んだことがあるが、その時にあの有名な黒い絵を見たんだ。惚れ込んだよ。そうして今あそこに飾ってあるわけだ。」
「惹き付けられました。お手洗いをお借りしたとき、つい足が止まって、暫くあの絵を見ていました。全部で何枚です?」
「十四枚。十四枚の黒い絵だ。廊下や階段に掛けてあるのはそのうちの八枚。」
「有名な絵もありましたね。あの、人を食べる絵です。」
「我が子を喰らうサルトゥヌスだね。あの絵は黒い絵の中でも一番有名だろう。」
「尋常な感覚では、あんな絵は描けないでしょうね。」
「そうだね。あの絵を描いたとき、ゴヤは聾者になっていた。」
「耳が聞こえなかったんですか?」
「そうだよ。だからあんな絵が描けたんだろう。戦争と、聾が、ゴヤの芸術を花開かせたんだろう。」
「それならとんでもない皮肉ですね。」
「芸術とはそんなもんだろうね。毒から美しい花が咲くんだ。」
Mの目が微睡んだように細くなり、きらきらと星屑のように黒目が光った。その陶酔して溺れた目を、Kはまじまじと見つめた。Fの瞳の中にも、白いものが無数に舞っていて、Kはそれを最初たんぽぽかと思ったが、実際には雪のようだった。白い雪が、瞳の中にちらちらと舞っている。Kは視線を稲子へ移した。稲子は変わらずに、白い花を黒い瞳に浮かべている。見ていると、Fとは異なって、稲子自身がたんぽぽのように思えてくるのだった。
「芸術家もそんなものだろうね。例外なく皆他のものが入り込めない場所へと向かいたがる。それでも本当の芸術家以外は、その入り口に立つのが精一杯で、鍵を探そうとしても見当たらないんだ。最初は余裕だが、次第に焦りはじめる。そうしてあたふたとコートの中の鍵を見つけ出そうと躍起になるが、そんなものは最初から持っていないことにようやく気がつく。それはもはや悲劇だね。それでも芸術家を目指す人間の八割、いや九割がそんな袋小路に行き当たるんだ。」
「先生は選ばれた一割でしょう。僕は九割だな。事を起こそうという前に、自分で自分に見切りをつけたから、その九割にも含まれていないかもしれないが。」
「自分で自分を切れるというのも、それはすごい才能だよ。普通なら怖くてそんなことは出来ないだろう。才能の多寡なんて自分では計れないものだから。」
「たくさん本を読んでいると、そうでもないような気もします。ほんとうに色々な本を読み漁ると、自分が偉くなったような気がするから不思議です。それから、色々な言葉を識るでしょう。そうすると、文章力は格段に上がるから、自分でも一つ書いてみようと思うんです。これが落とし穴です。自分では上手くなったと思っていても、ほんとうはただ言葉を識っただけで、思想も軽いものか、借り物でしかないんですね。自分に才能があるだなんて思うのは、ほんとうに、本を読み始めて少し経った頃だけの特権です。実際に紙とペン、MacBookの前に座ってキーボードを打っていると、情けないほどに自分の中に何も物語がないことに気がつきます。たくさんの物語を識っている分、たくさんの物語が自分の中に空想として聯想されますが、それもただ一つの大きな母体から派生した単なる木末のようなものに過ぎなくて、書いているうちに、その木末が養分を吸ってはいるけれど、吸いすぎて逆に腐って重いただの過剰な装飾に過ぎないことを知るんです。」
「それは力が付いたということだよ。何か創作をしている人間なら、その過程は絶対に必要だろう。」
「いいえ、僕にはそうは思えないんです。ほんとうに才能のある人っていうのは、自分に才能があることがわかるでしょうし、その才能を上手く使いこなせることが出来る人でしょう。そういう類の人は、自分では気がつかないけれど、自然にその才能で傑作をものにしてしまうんです。彼らは努力を努力と思わない。僕なんかはものすごい努力をしている、色々調べ物をしている、そうやって頑張っていると自分に言い聞かせて、なんとか書いています。けど、それだけ努力したところで、天才が書く芸術の足下にも及ばない。たぶん才能というよりも、考えていることが違うんだな。天才と僕のような凡人は、考えていることが違うんだと思います。その差が書いたものから滲み出ているような気がします。」
「しかしそれなら私も君と同様だよ。君は私が一割に入っていると言っていたが、それは誤解もいいところだな。私も君と同様九割の枠内の人間だよ。むしろ君はそれだけ敏感に自分と周りとの差異を見極められるんだから、君の方がよっぽど才覚があると思うね。だから歴史的な傑作と自分の作品を比べて、矮小になるんだろう。君は小林秀雄でも目指しているのかい?」
「まさか。もう少しわかりやすい、誰にでもわかる文学紹介を目指しています。煙に巻くのは好きじゃない。」
「評論の本質は煙に巻くことのような気もするけれどね。創作のほとんどがそうだが……。真実を語る評論なんてそうないだろう。丸裸にしたつもりで、ほんとうは自分がどういう風にその作品を読んでいるか丸裸にされてしまう。優れた作品はそういう鏡のような側面があるね。」
「鏡とは言い得て妙ですね。そうですね、まさに鏡です。芸術は鏡のようなものだと僕も思います。読み手や観客を映す鏡ですね。無理解だと、恥を晒す。」
「そうだ。だから明快な答えは芸術には存在しない。それを書いてしまうと、鏡じゃなくなるからね。芸術は観ているものや読んでいるものの身体の中に入り込んで、そうして棲み付いてしまう。詩や音楽、小説もそうだね。全部そういう風に自分の中に入り込んで、延々と暴れ回るんだ。その暴れ回る過程の中で、鏡のように観客の姿をはっきりと映し出す。」
「天才は鏡造りの名人ですか。」
「一見鏡のようには見えないけれどね。そういう意味で言えば、私は女も芸術だと思っている。女も鏡のようなものだと思っている。」
「女は芸術だとよく言いますけどね。」
「惚れた女の身体や性格は、まさしくその男の本質を映しているからね。正しく鏡のようだ。それに人には作ることの出来ない美しさがあるだろう。手でこねくり回しても、カンバスの上で絵の具を混ぜ合わせても、いくら頭を捻って色々な比喩を考えたとしても……どうやっても再現できない。そう考えると、やはり女は神の全てを注いだ造化の妙だよ。美しい現身だ。あれこそがほんとうに美しい鏡だね。」
「全ての芸術家は女を愛して、女を描きますから。」
「もちろん男も美しい。けれど大半は違うだろう。女は全てが獣の美しさだ。女自身が芸術なんだ。芸術なんだから、自らで作る必要がないんだ。乳房も、身体の曲線も、愛らしい小さな顔も歯も、ガラス細工のような耳も、全部が天然の芸術なんだ。男はそれに焦がれて、自分でそれを租借して、紛い物を作る努力を続ける。男は所詮は二番手だな。」
「先生の小説もそのようなものですか。確かに女を書く話が多い気がしますが。それでも先生がお若い頃に書いたものには扇情的な部分がいくつもありましたが、今は違いますね。お若い頃の作品は、女に対する情欲が惜しげもなかったけど、今は見る喜びに溢れている。稲子さんの影響かと僕は見ていますが、どうでしょうか。」
「そうだね。君の言う通りだよ。女の曲線が芸術だと言ったが、その美しい曲線を筆で表す事が私の悲願だ。まだ若い頃はそう思って筆を進めていたが、いつまでもその境地には進めない。それでも努力をし続けてきた。その先に、稲子が産まれた。愛らしい娘でね。健やかに育まれて、今は十六の美しい娘だが、幼い頃はその声に胸を震わされた。甘い声で、何度も私を呼ぶんだよ。その天使のように小さな娘が次第に成長していく様の輝きは、全ての芸術を凌駕している。尊さや、愛というものが持つ形のない美しさに私はおどろいた。いや、形はあるのかもしれないね。さっきも言ったように、娘という鏡が愛や美をきらきらと輝かせて、私に見せてくれるんだ。娘の魂の美しさが、その奥から立ち昇ってくるんだよ。おそらく、私以外には磨かれた鏡には見えないと思うが。」
話しながらFは、目の前のベッドにいる稲子が、幼い頃に見せた爛漫な笑顔を思い出していた。百面相のようにころころ変わる愛らしい表情で、笑うと小さな可愛い歯がこぼれて、その度にFは魂に火が灯るような温かさを感じた。今の背丈の半分もない少女が、精一杯小さな身体を使って、自分の感じたことや、嬉しかったこと、怖かったことを、Fに伝えてくれた。稲子はMによく似ていて、笑うと眦がさがる。自分が恋して手にしたMを、そっくりそのまま小さくしたようなコピー品で、Fはおどろいた。しかし、Mはその笑い顔を見て、Fに似ていると、ほほえんだのだった。自分ではわからなかったが、周りの人間が見ると、そう思えるのかもしれないと、Fには不思議だった。しかし、自分や愛する人間の似姿を持ち、清い魂がその中にある少女は、Fにぞっとするほどの美しさを感じさせた。稲子が十五のときに、乗馬クラブにふたりで行ったときの事がFの頭に浮かんだ。この頃になると、稲子はもうすっかり馬に馴れてしまっていて、鞭捌きも鮮やかで、Fよりも上手く乗りこなしていた。馬上で、稲子は聖少女の美しさだった。馬が嘶く度に、馬の肉体が躍動して、その反応で、稲子の顔立ちが緊張し、頬が堅くなる。緊張と弛緩が稲子の中で交じって、魂が輝くようだった。Fには、稲子の乗る馬がユニコーンのように思えた。聖処女の象徴であるユニコーン……。まぼろしの一角が見えて、Fは自分の幻想に酔うようだった。
 しかし、そのまぼろしの一角はもう奪われて、今はただの馬なのかもしれない。婚約者であるKとの間の営みで、あの頃に見せた処女の輝きは消え失せてしまったのかもしれない。しかし、変わらず視線を一点に向け続けている稲子の美しい瞳は、あの頃と変わりようがないほどに澄んでいる。幼い頃以上に、その瞳は真理を見たかのように、星空と重なるように美しい。Fは懐に手をやり、煙草を取り出すと、Kに会釈をして部屋から出て行った。扉が閉まる音だけが響いた。廊下を歩いて行くFの足音が遠ざかる内に、部屋の中に響く暖房の音が、Kの耳を擽った。窓の外を見ると、いよいよ雪で全てが覆われて、白色以外が消えていた。恐ろしいほどに白が続いて、閉じ込められているような気がした。稲子は何も言わずに、ただ窓辺のたんぽぽを見つめている。稲子の頬が、暖房のせいで、さきほどよりも赤くなっている。色があったと、Kは思い直した。

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