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たんぽぽ人形①


 瞳が開いて、黒の中に白いたんぽぽの花が見えた。黒い水面に波紋が広がった。瞳は鏡になって、窓際に置かれた花瓶にささる、白いたんぽぽを映している。造化ではなく、ほんとうに花が白い。
 真白な病室で、人工の天国の清潔さだった。白い花や白いぬいぐるみが、ベッドの周りを囲んでいる。全てが白色で彩られていて、その中で佇む稲子のほほだけが桃色に色づいて、女の生命の清らかな美しさだった。
 息づかいがかすかに聞こえているが、意識はない。甘く美しい天上の声を、稲子は持っていた。しかし、その美しい声と会話を交わすことは、今のKには出来なかった。瞳を開けたままで、今にも語り出しそうなのに、夢を見ている。時折そのほほや耳、掌に触れると、血が巡るのか、白色に火が灯って、Kは愛情に涙をした。
 原因不明の昏睡だった。もう半年の間、稲子は眠っている。十七歳の美しい時期を、稲子は闇の中で過ごしている。しかし、眠っているといっても、それは人間としての意識がないだけで、起きてはいる。医者は、稲子は夢見病だとKに話した。女性がよく陥る病気で、男性では、芸術家がよく同様の症例に陥ることがあると、その医者は言っていた。
 外を見ると、もう雪の季節で、ちらちらと細かい雪が街路を染めていた。全てが白色に囲まれているようだった。稲子の横たわるベッドからは、ちょうど窓の外の北山の光景が見える。毎朝母のMがカーテンを勢いよく開けて、稲子を起こしてやる。稲子はベッドに座ったまま、瞳孔を開いて、昨晩から訪れていたKを見つめた。しかし、心には何の変化もないようだ。Mはため息をついた。Kは気にした素振りも見せずに、稲子を見つめて、色々なことを話した。稲子は頷くことも、Kを見るようなこともしない。時折瞳が合っても、その瞳は美しいのに、感情が見えなかった。人形である。それは、つい一年前に、Kの腕に抱かれた稲子の愛の目と、異質のものだった。仕事の帰りの度に、Kは稲子の元へと訪れて、彼女に話をしてやった。しかし、Kの言葉は宙を漂うばかりで、何の意味も産まないように思えた。
 Kが窓の外の雪を見つめていると、遠くに犬が鳴いているのが見えた。犬種まではわからないが、少し大きな犬のようだ。犬の鳴き声は中空に吸い込まれて、ここまではかすかに届くだけだ。しかし、ほんとうは届いていなくて、犬の鳴く素振りが、Kにそう思わせるだけなのかもしれない。クリスマスの彩りで、遠くの木々の木末が、赤や緑の光で輝いている。あの瞬きにも、音が存在するのだろうか。部屋のなかは温まって、熱いほどだが、稲子は汗をかくこともなく、やはりただじっと、一点を見つめている。Kは、稲子に渡された手紙を開いた。紙が温まって、すこしやわらかくなっている。そこに書かれた愛の詩を、とぎれとぎれ、声に出してみた。詩の中で、稲子は『連結』というフレーズを何度も使っていた。その連結とは、愛の連結で、Kと稲子の心だろうかと、Kは想像した。Kは窓辺に置かれた白いたんぽぽを見た。可愛らしく揺れていて、稲子の首も、かすかにそれに合わせて揺れているようだ。
 暫くして、部屋の扉が音を立てて開いた。稲子の父のFだった。FはKに会釈をすると、部屋の隅に置かれた、革張りのソファに腰を下ろした。灰色の空のようなソファだった。そのソファに腰を下ろして、Fもため息をついた。ここにいる人間は、稲子をのぞいて、皆ため息をつくようだ。
「外は大分冷えているようだね。」
「まだクリスマスも前ですが、凍えるような寒さです。この部屋は別ですね。温かい天国のようだ。」
「面白い皮肉だね。」
「川もまるで凍っているようだ。氷が張っているように見える。」
「散歩している犬も一匹もいません。さっきまではあそこの方角に、一匹わんわん吠えている犬がいましたが。」
「この寒さで元気なものだ。ここが天国なら、外は地獄だろう。それならその犬は魔犬かもしれないね。」
「日本に魔犬は似合いませんよ。キリストの国じゃないから。」
「クリスマスは祝うのに。ハロウィンも楽しむだろう。」
「お義父さんは仏教徒ですか?」
「無神論者だよ。強いて信じるものがあるのなら、アミニズムだね。土着の宗教だけだ。君も神さまなんて、信じていないだろう。」
「僕は信じていますよ。稲子さんも信じています。この人は、神さまのことを信じていますよ。神さまは美しいですから。」
「美しいのは人間の芸術だろう。神がいようといなかろうと、その美しさは全て人間からあふれ出るものだ。」
「お義父さんの芸術論ですか。」
「論なんてたいしたもんじゃない。ただの個人の見解だよ。それよりも、今日も稲子は目を覚ましそうにないかね。」
「いつもと同じです。いつもと同じ、ずっと花のようにここでじっと前を見つめています。」
「まだ夢の中にいるのか。病状が回復するかと、いまかいまかと待っているのに、こうも毎日同じだと、逆に祈ってしまうね、今日は起きていませんように。」
「いやな天の邪鬼だな。」
「そうでもないよ。こうして娘が人形のように、ずっと家にいるのも、考えようによっては嬉しいものかもしれない。」
「お義父さんのコレクションのひとつ※①みたいに?僕には考えたくもない話です。」
※①Fはあらゆる美術品・骨董品を集めている。その骨董品の中には、彼の敬愛する人形作家である、ハンス・リヴァリーの球体関節人形も4体ほど置かれている。その購入資金は、約2千万だった。
「人形はいいもんだ。話しもしないが、邪魔もしないから。私がこうして本を書いていても、人形は後ろから見守るだけ。そうして、インスピレーションも与えてくれるだろう。そう考えると、人形に悪いところなんてひとつもない。全てが人形であってくれたのなら、どれほど嬉しいかとも思う。」
「それでも娘を人形にしたいなんて、それこそ狂気の沙汰でしょう。僕にはとうてい理解の出来ない範疇だ。」
「無論私だって同じさ。だいいち、稲子は人形にも成りきれていない。成りきれているのなら、私だって喜ばしいさ。ある意味でね。でも、稲子はただ遠くを見つめている。夢の中に埋まっている。いったいどんな夢を見ているのか、私もその夢を見たいけれど、見ることは難しそうだ。」
「夢見病は、芸術家も罹りやすいと聞きました。そう考えると、僕はそっちに世界に彼女を迎えにいけそうもない。でも、お父さんならいけそうです。」
「私は二流だよ。人によっては三流と呼ぶかもしれない。死んだらもう町の本屋に私の文庫は並ばないだろう。」
「ご自分の名前の賞もあるのに?それは謙遜が過ぎますね。嫌みですよ。」
「君がいうほど、私は芸術家でもなんでもないわけさ。君のように、逆に物語を分解して料理するほうが、私には魔術に思えるね。あれこそ想像力の賜物だろう。」
「想像力というよりも、空想や妄想でしょうね。情報を集めて、分解して、パズルを仕上げるんです。」
「やはり私にはそちらが魔術だ。稲子も心も、すぐに分解出来たことだろう。」
「女性の心を分解なんて、そんなことはそれこそ神さまの領分でしょう。それかジゴロだ。」
「こうして見ていると、稲子が君のどこに惚れたのかわかるよ。君は言葉巧みに、稲子を愛しているんだろうね。」
「お義父さんだって同じでしょう。あなたはもっと美しい言葉で、稲子さんを愛しているでしょう。」
「私は伝わらない詩のようなものだ。君は的確に稲子を捉まえている。それが私には眩しいほどだよ。」
Fが目頭を揉むと、Kは黙った。Kには、Fの言葉が槍のように思えて、針の筵だった。稲子に意識がないのが、幸いだった。しかし、稲子には全てが聞こえているのかもしれない。稲子の心はここにないようで、本当は、ふたりを見下ろしているのかもしれない。Kはそう思いながら窓の外を見つめた。雪の勢いが増しはじめて、綿雪のように、地面を埋め尽くしていく。あの魔犬はもう見えなかった。地獄に帰ったのかもしれない。然し、Kには、ここが地獄のように思えた。稲子がいて、温まっているのに、手の内側が寒いのだった。扉が開く音がして、Kが顔を上げると、Mだった。Mは両手にお盆をもっていた。薄いクリーム色の盆の上には、ティーカップと、ポットが乗っている。陶磁器製で、冷たい光を放っていた。
「寒いでしょうから……。コーヒーをお持ちしましたわ。」
「ありがとうございます。でもこの部屋は暑いほどです。外が寒いから、よっぽどそう思えるのかもしれない。木々ももう裸ですね。」
「春になると、ここからは北山の桜や、鴨川の桜が遠くに湖のように見えるの。高台にあるでしょう?秋になると、紅葉がとてもきれいよ。この辺りだと源光庵ね。ほら、円い窓と、四角い窓と。そこから紅葉が見えるのよ。」
「悟りの窓と、迷いの窓だろう。」
「そうよ。去年、稲子と見に行ったのよ。たしか十一月で、とても寒い日だったわ。ここから歩いて五分ほどだけれど、途中で雨が降ってきて……。通り雨だったから、すぐに止んだのね。そうすると、日が照って、窓の外の紅葉がほんとうに真っ赤になって。稲子は、雨に洗われて、きれいだって。そう言っていたわね。そのときの稲子の頬がほんとうに白くて、私、自分の娘にこんなことを言うのは可笑しいかもしれませんけれど、稲子が紅葉よりもきれいでおどろいたの。女って、ほんとうにどんな景色より、きれいなときがあるのね。」
「それは僕も何度も感じています。ほんとうに、景色よりも何よりも、稲子さんがきれいだと思えるときが何度もあります。」
「女は芸術だからだろう。だから昔から、小説も、戯曲も、絵画も、音楽だって女さ。みんな、女の美しいのを現したいと思っているんだろう。」
「今のお義母さんの話を聞いて思い出しました。僕も、稲子さんと一緒に北山通りの紅葉を見に行ったんです。きっとお義母さんとあまり変わらない時期です。黄色い銀杏が風で舞っていて、絵の中にいるようでした。ルノワールとか、ああいうフランスの印象派の絵です。その絵の中のように美しい黄色の中でも、一番きれいな色は稲子さんの脣や、頬や、髪の色なんです。それこそ魔術のように、僕にはそう見えました。」
「十六の娘の魔力ですね。女はそこから十年間は、ほんとうに美しいですから。」
「でも、その貴重な時間を稲子さんはこうして夢の中にいるわけでしょう。いつ戻るともしれない夢の中です。夢見病は、女性や芸術家がよく罹る病だと聞いています。どういう理由でそうなるんでしょう。」
「女は子どもを産むだろう。女の美しさは魔術だろう。きっと棲んでいる場所が違うのだろうな。」
「稲子さんはこことは違う場所にいるって、そういうことですか?」
「私たちが足を踏み入れない場所に、稲子は裸足で入っていけるんだろう。君のような評論畑の人間は、それがどんな場所か頭で理解しているかもしれないが、私のような物作りは、それを感覚として理解している。でも、稲子は女だから、きっとすぐに、その愛や魔の世界に入ることが出来るんだろう。」
「愛はいいけれど、魔とは物騒ですね。」
「仏界入易、魔界入難だよ。」
「一休禅師ですか。」
「今の稲子と一緒だよ。」
「稲子さんが、魔界にでも入ったと言うんですか。」
Fは何も答えずに、目の前に置かれたカップを手に取った。そうして、なみなみと揺れているカップの中のコーヒーを見つめた。そのコーヒーに浮かぶ自分の顔が、いつの間にか数千年も生きた老人のように、彼には見えた。Kがトイレに行くと立ち上がった。Kは稲子と、窓の外を交互に見て、そうして部屋から出て行った。Kが出ていった後の部屋は、かすかに冷たい空気が通ったように、底から冷えていた。

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