ミルキーウェイ
2-1
喧噪に目を開けると、飾り付けられた室内が見えた。草麻生はまた目を閉じた。そうすると、水音が耳に帰ってくる。このまま眠っていようかと目ぶたを閉じていると、甘い匂いが鼻を掠めた。そうして反射的に目を開けると、彼の座るちょうど対角線上に、赤いドレスをまとった薺がいた。薺はワイングラスを片手に、草麻生を見つめていたが、草麻生はただその目差しを見返すだけで、何も言わなかった。
うつくしい娘だった。今年で十九になる。草麻生と歳はひとつしか変わらないが、どこか大人びて見えるのは赤いドレスのせいだろうか。女の円みを帯びた肩がうつくしい線を描いていた。薺は弓のように反り返った睫をこちらにむけて矢を放ったが、しかし、草麻生は何も言わずにただほほ笑んだ。薺はつまらなそうにそっぽを向いた。そのまま背中を向けていってしまった。猫のようだと思えた。山猫のようだと。この屋敷は、草麻生が幼い頃から山猫の屋敷と呼ばれていたが、その屋敷の主人は薺だろうか。
社交の場は落ち着かないとばかりに、草麻生は立ち上がりそのまま二階に上がった。一階は、スーツやドレスをまとった人々が談笑する姿が踊り場から見えたが、しかし、彼らは草麻生に人形のようだった。
草麻生が二階の廊下を歩いて行くと、そこには一人の令嬢がいた。令嬢は廊下の壁に架けられた絵を、熱心に見つめている。草麻生は立ちとまると、その横顔を見つめた。令嬢は草麻生に気付く様子もなかった。草麻生がゆっくり歩き出すと、令嬢は驚いたように目を見開いて、彼を見つめた。草麻生は歩みをとめることもなく、令嬢の横に立つと、そこに架けられた絵を見つめた。
「不思議な絵ですわ。」
「金子國義ですね。父が好きなんです。」
金子國義の描く、タキシードをまとった男の絵だった。金子國義を、父の原田は好きで、いくつかの絵は、草麻生の幼い頃から屋敷中に飾られていた。
「このお屋敷にはほんとうにたくさんの絵がありますのね。」
「絵がお好きなんですか?」
令嬢は頷いた。薔薇のような脣をしていると思えた。艶めかしい、毒色の赤だった。そうして、令嬢は細い髪に、真白な素肌で、父の拵えた人形のようにも思えた。その人形が、生命を吹き込まれたように、草麻生を見つめている。
「退屈なら絵をご案内しますよ。」
草麻生がそう言うと、令嬢のほほに紅が灯った。そうして、眦がさがると、令嬢は男の子のように美しいのだった。
令嬢を連れて屋敷を歩いていると、改めてここには無数の絵が飾られていることに、彼は思い当たった。幼い頃は、これほどの絵があっても、それは空気のようなもので、景色と一緒だった。絵のことについては、原田から一通り教えられた。しかし、自分に画才はないのだった。草麻生は幼い頃にしか絵は描いていない。今は、原田の見よう見まねではじめた人形を作っている。
原田は東京に出かけては絵を物色していた。銀座界隈の画廊だという。とくに、幻想絵画を贔屓にしていたから、若い時分から大枚を叩いて、蒐集を充実させていた。
「人形を作るのも、コレクションみたいなものなの?」
十四歳の頃、人形に向き合う原田に背中越しに声を掛けると、原田はしばらく黙った。そうして振り返ると、その黒い目で草麻生を見つめた。きらきらと、草麻生の目を射貫く原田の目はひとつの宇宙だった。その宇宙には数多の惑星が光っている。原田という一個人の宇宙の入口がそこにあった。
「コレクションとは違う。ただ、人形に命を吹き込むことをできないものかと考えている。」
そう言うと、また人形に向き合うのだった。人形は、よっぽど原田よりも透き徹った目をしている。白い宇宙のように、はめられた硝子玉がきらめいている。
「お前のおばあちゃんだって、人形を作っていたよ。」
そう言われて、記憶が刺激されたのか、どこかの納屋のような場所で、ダンボール箱に乱雑に積まれた雛人形の顔や手足が思い出された。お内裏様とお雛さまが、ダンボール箱の中でキスをしていた。蝉が鳴いている。あれは蜩だろうか。夏の終わりのどこかの記憶に思えたが、ずいぶんと古い記憶で、所々はあざやかだが、ひどく輪郭が薄い。
「おばあちゃんは人形を作る。雛人形を作っていた。お母さんは絵を描いていた。それから踊りもね。お前は芸術家の素養がなかったな。」
その言葉に、母を思い出した。母の描いていた絵は、この屋敷には一枚も架けられていない。ただ、淡い水彩だったように思える。原田の絵の好みとは離れていたが、その優しい色が、母だったのかもしれない。
「あの絵も美しいですわ。薔薇の絵……。」
「北川金治の薔薇の絵ですね。薔薇を描いていた画家です。赤い薔薇。白い薔薇。色とりどりの薔薇をね。」
「塗り潰したような色なのに、あざやかね。」
「油絵の魅力ですね。父は北川金治も好きなんですよ。いや、薔薇が好きなのかもしれない。」
「枯れない薔薇ね。」
「そう。生花はいつしか枯れますから。誰が言っていたんでしょうか。まぁ受け売りですけれど、花を絵に描くということは、死への対抗らしい。」
令嬢は眉をひそめたが、しかし、草麻生はそのまま続けて、
「芸術という運動そのものが、まぁ死への対抗なんですよ。人は死にますし、物も壊れるでしょう。花も当然枯れるわけですが、だからですよ。美しい頃のままの姿をとどめることが、芸術の起点なのかもしれません。」
「歌や詩も?」
「全て根底には死があるんでしょうね。」
「彫刻も?」
「なんでもです。焼き物だって、そうでしょうね。演劇や映画もそうかもしれない。」
そう言うと、草麻生は、人形もそのようなものだろうかと思えた。むしろ、人形こそが命からもっとも離れた匂いをしている……、草麻生は原田を思って、薺を思った。そうしていると、令嬢はゆっくりとゆびさきをのばして、金次の薔薇の花を空中で撫でた。花びらが香るように思えた。
「きれいなものですね。女性と薔薇……。」
そう言うと、令嬢はかすかにほほを染めて、口元を緩めた。
「ごめんなさい。もう少しで、触れてしまうところでしたわ。」
草麻生はただほほ笑んで、かぶりを振った。下の階から嬌声が聞こえてくる。原田の著作の出版祝いも兼ねた、クリスマスパーティー。令嬢は本には興味などないのだろう。草麻生が彼女に目を留めた時から、もう彼女は飽いているようだった。令嬢は何にも興味がないように見えた。そうして、そのように、マネキンのようにして時折大きな目をしばたいている彼女に、草麻生は心が惹かれたのだった。人形のように思えた。しかし、今こうして絵を観ている彼女は、間違いなく人間で、ほほは桃よりも桃色で、脣はやはり薔薇だ。その艶めかしい匂いに、草麻生は思わず鼻を手で押さえた。
「毎年こんなパーティーをしてますの?」
令嬢に尋ねられて、草麻生はかすかにほほ笑んだ。
「原田は……、父は、こういう集まりが嫌いでね。狩屋さんに義理立てているようなものだよ。」
「父に?」
そう言われて草麻生ははっとした。この令嬢は、狩屋の娘か。美しい色が、狩屋の冷たい目の色を帯びたようで、色香があった。
「あなたが狩屋さんの娘さんですか。お話は聞いていました。」
「あなたが草麻生さんですね。原田草麻生さん。一度お会いしたかったの。」
「へぇ。」
「父から色々とあなたのお話を聞きましたわ。あなたと薺さんのお話。あなた方が小さな頃から、父とは知り合いだって聞きました。」
「もう十五年近くは昔の話ですね。あの頃の記憶は断片的にしかありません。」
「薺さんも、先程挨拶しました。きれいな方。」
パーティーで声が飛び交う中に、この娘も薔薇だが、薺もまた赤い薔薇だ。目を開いた草麻生は、橙色のライトの下でぼんやりと発光する薔薇の花をみた。右手に持ったグラスには、ワインの赤色が揺れている。薺の肌の全てが真白だからだろうか、脣は血の薔薇だった。冷たい目が、山猫のような目が、草麻生を射貫いている。食器の擦り合う音が聞こえる。そうして、笑い声も、どこからか流れる音楽も聞こえる。それら全てを、じっとりと見つめる薺の冷たい目が奪っていく。
「あなたがお兄さん?」
「ええ。僕はあいつよりも一つ上です。あなたは?」
「十六ですわ。」
「見えないな。」
「あら。子供っぽい?」
「いや、大人びている。」
そう言うと、令嬢はほほ笑んだ。
令嬢を原田のアトリエに案内してやる。そうすると、人形たちが一斉に彼女を出迎える。彼女はただ小さく吐息を零して、そうしてほほ笑む。乱雑に積まれた書物は開かれたままだ。ランプシェードから零れる柑橘類の光に、手を差し出しながら、部屋を探索している。それは、かすかに大きく生い立った、薺を思わせた。振り返ると、その顔はまるで違う。しかし、振り向くまで、その長い黒髪の輝き艶めきは、薺を思わせた。薺はこの屋敷にもういるというのに、そう思うにつれて、草麻生はかぶりを振った。
「面白いお部屋。楽しいお部屋。」
「悪趣味な部屋だろう。ここでよく遊んだんだ。」
「薺さんと?」
ただの質問だろう。それが詰問のように聞こえるのは、おかしな話だった。似つかない声色が重なるように聞こえる。小さな少年少女が戯れる様が目の前のソファに浮かんだ。
「そう。ほんとうに小さい頃。小さい頃は幽霊が見えたよ。」
「幽霊?」
令嬢は興味深そうに頷いて、そうしてテーブルに置かれたままの画集を拾い上げて、それをパラパラと見つめた。バレエダンサーの足がかすかに見える。ロバート・ハインデル。現代のドガ。原田の好きな画家。
「そう。ちょうどそんな絵のような。きれいな幽霊。それに、この部屋にいる人形たち。彼らが喋ったり動いたり。そんな夢をよく見ていた。」
「あら。じゃあ、夢ですのね。」
そう言われて、草麻生ははっと気付いたようにほほ笑んだ。
「そうですね。夢です。幽霊なんて、ほんとうはいないのでしょうね。」
「この御本は全部原田先生の……。」
「本や絵を集めるのが好きなんです。蒐集家なんです。この屋敷だって、彼が若い頃に、自分だけの美術館にでもしようとして買ったんですよ。」
その言葉に、令嬢はきょろきょろと部屋を見回した。白い蘭の鉢植えがランプの明かりに黄金だった。
「でも、何かいそうだって気持ち、わかりますわ。だって、幽玄ですものね。」
「幽玄?」
草麻生がほほを緩めると、令嬢はたちまち赤くなった。むきになって、脣を尖らせた。
「だって、色々と不思議なものがありますものね。こんなお屋敷なら、幽霊がいたっておかしくなさそうだもの。」
草麻生の目に、令嬢を繰る糸のようなものが見えた。無論、そんなものは存在しないが、令嬢の白い肌が橙色の灯りに塗り染められて、人形めいて見えるからだろう。そうして、その糸を繰るのは、原田か、それとも狩屋だろうか。二人の老人が、醜悪な遊びに耽る。これは夢小説だろうか。先程目ぶたを閉じたときから夢が続いているのだろうか。草麻生は令嬢を見つめた。しかし、彼女の目には、何の媚びも含まれていない。まるで純潔の朝だ。しかし、その純潔の朝も、もう暫くしたら散ることになる幽く儚い少女の夢だろう。ノックの音が聞こえて、ドアが開いた。狩屋が顔を出した。狩屋はきょろきょろと、もう何度も来たことのあるアトリエを見回した。草麻生が狩屋と会ったのは、二年ぶりだった。髪は真っ白で、原田の黒さと対象的だった。そうして、目は透き徹って、ガラスよりもきらきらと輝いていた。
「ここにいたのか。」
令嬢は立ち上がって、狩屋に向けてほほ笑みを浮かべた。途端に幼い娘に戻って、人形じみた美しさは消えた。あれは魂の揺らぎだろうかと、草麻生には思えた。
「相変わらずだね。原田は、学生の頃の美術が好きだね。芸術の類が……。」
狩屋は部屋を見回しながらそう言った。手に持ったグラスをテーブルに置いて、調度品に触れて回る。相変わらず長い指先だった。無骨な原田の指先とはこれも対象。しかし、その無骨な指先から、繊細な人形の顔を作り出すのは、草麻生に不思議だった。自分は原田よりも繊細な指先だが、作られるものは無骨に思えた。
「芸術を観すぎていると、芸術を産みたくなるのかもしれないね。」
狩屋の言葉に、草麻生はただ頷いて見せた。
「君も何か作るのか?」
「僕ですか?僕は不器用なんでね。絵は時折書きますけど、まぁ趣味の域を出ません。原田からも相手にされていません。今は人形を。」
狩屋は口元を緩めると、一人掛けのソファに腰を下ろした。そうして、じっと草麻生を見つめた。こうしていると、ここは狩屋の屋敷のようだ。作務衣姿の原田よりも、ダークスーツを纏って吸血鬼じみた狩屋の方がよほどこの奇怪な館の主に相応しい。そうして、その目はきらきらと、研究対象を見るかのような目つきだ。顕微鏡を覗き込んで、対象の変化を見つめる科学者の目だ。それは職業病のようなものかもしれなかったが、草麻生に不快で、不気味だった。水晶の中の虹彩が漆黒の宇宙のように深いいくつもの穴ぐらの連なりに見える。草麻生はかぶりを振った。よほど酔っているのかもしれないと思えた。
「君が半分芸術のようなものかもしれないね。」
「どういうことです?」
狩屋はますます口元を緩めて、息を幽かに吐き出して見せた。暗い虹彩が揺れている。
「君は薺ちゃんととても似ているからね。」
「兄妹ですからね。」
「薺ちゃんだけでも面白いし、美しい。でも、二人揃えばもっと美しいものだよ。」
草麻生は何も言わずに、ただそのきらきらと光る眼を受け止めた。吐き気がしたが、顔に出さずに、ただじっと見返し続けた。
「それは奇怪なお話ですね。研究者の性でしょうか。」
狩屋は何も言わずに立ち上がると、部屋に架けられた絵の幾つかを見つめた。そうして、その一つのエドガー・ドガの『踊り子』の前で立ち止まると、それを食い入るように見つめていた。令嬢はゆっくりと父親の横に立ち並んで、その絵を見つめた。草麻生はソファに腰掛けて、二人の立ち姿を見比べた。背格好が違うが、妙に線が似ている。親子の印だろうか。それとも、親子だと聞かされたから見出した一致だろうか。
「ドガは延々と踊子を描き続けたね。バレエの美しさに魅入られたのか。この絵は本物じゃないだろうね?」
「本物が我が家にあるはずがありません。あるのならばパリかニューヨークでしょう。」
草麻生はかぶりを振った。狩屋は振り向きもせずにそのまま絵を見つめて、
「複製だね。複製でも美しい絵は美しいね。本物と遜色のない複製。」
「僕ももちろん本物は見たことはありません。でもね、多分美しいでしょう、ここに飾られた複製画の何倍も、魂に刺さるでしょうね。」
「魂にね。」
狩屋は振り向いて、草麻生を見つめた。
「原田はバレエが好きだった。君の母君が、バレリーナだったことも関係あるのかもしれない。」
「まぁ、草麻生様の御母様は、バレリーナでしたのね。素敵だわ。」
令嬢の目は夢見る星の灯りだった。草麻生は何も言わずにただ頷いた。
「原田は昔からバレエに対して造詣が深くてね。僕は疎いものだから。専門が違うんだね。あらゆる意味で、原田はアンテナを張っていたね。彼が人形に凝るのも、踊り子を愛するのも、美しい造型に拘るからかもしれないな。」
狩屋はゆっくりと草麻生に近づくと、静かに耳もとに口元を近づけて囁いた。濡れたような息が鼻腔に漂う。
「君も同じかもしれない。」
狩屋はそれだけ呟くと、さっと草麻生から離れて、部屋から出て行った。狩屋の使っている香水だろうか。鼻をつくような匂い。花の香りだろうが、何の花かまではわからない。
耳もとで何度も何度も狩屋の言葉が再生された。草麻生は何も言わずに、ただ頬杖をついたまま、ドガの踊り子を見つめた。そうして、その視線はゆっくりと、眼前のテーブルに置かれた、狩屋の残したワイングラスに移った。グラスの中の液体が揺れている。赤い波紋が小さな世界の凪を壊している。
「私も下に降りますわ。」
草麻生が顔を上げると、令嬢がほほ笑んでいた。令嬢は、屈託のない顔だった。この部屋の魔力も令嬢に及ばなくなったのか、生気のある人間の顔である。それとも、草麻生の夢が覚め始めたのだろうか。草麻生が頷くと、
「ご案内して頂いて、ありがとうございます。」
令嬢は一礼をすると、そのまま部屋から出て行った。すると、ひょいと顔だけ扉の間から覗かせて、
「百子です。私の名前は、狩屋百子ですわ。」