奇蹟の価値は。 映画『奇蹟の輝き』
『奇蹟の輝き』を鑑賞する。普通にネタバレする。
監督はヴィンセント・ウォード。『エイリアン3』の、木製の修道院惑星舞台版を監督する予定だった人だ。
主演はロビン・ウィリアムズで、他に有名所だとキューバ・グッディング・Jr、それからマックス・フォン・シドーが出ている。
1998年の映画だから、今から26年前の映画だ。
1998年、と、いうと、ハリウッド版『GODZILLA』が公開された時で、私は京極東宝の地下劇場で鑑賞した。京極東宝、今はなき、京都の劇場……。私はここで『名探偵コナン/時計じかけの摩天楼』を観たのだ。一番小さいスクリーンで、小学校の教室の黒板くらいしかない。興行収入だって今の10分の1くらいである。
さて、GODZILLA。皆叩いているが、私にはめちゃくちゃ面白かったのだ。いや、今でも、ハリウッド製ならばこれが一番良い。90年代ハリウッド映画、という、あの、大味でツッコミどころ満載だが、パワーに充ちた作品群に間違いなく連なる。
正直、世間がやたらと一つの映画を叩く時、それは悪いウェーブに乗っかっていることも多いのだ。
2014年版『ゴジラ』も良かった。あれは、神としてのゴジラ、怪獣としてのゴジラが描けていた。1本目、といえば、『キングコング・髑髏島の巨神』もウルトラに良かったし、それが、『キングオブモンスターズ』からゴミ映画と化した。ちなみに、『キング・コング』は2005年のピーター・ジャクソン版が大好きだ。
なにせ、監督御自ら、複葉機を運転したいから、と言ってダイエットに励んだ男である。そもそも、ピージャクは『ブレインデッド』を撮った後、『キング・コング』を撮りたかったのが、その後に『指輪』の3本を撮ることになって、まぁ、これも、ニュー・ライン・シネマ最大の賭けと言われているけれども、制作費340億円(当時)で1年2ヶ月の撮影で3本まとめ撮りをニュージランド、と、いう映画産業のクソ弱い場所で敢行する、という暴挙で見事に勝利したわけだからすごい。それでご褒美で制作費180億円くらいで『キング・コング』を撮る、という、悲願の企画を叶えたわけだから、もうピージャク、感無量。そんでアンディ・サーキスはいつの間にかゴラムっ、ゴラムっって言ってると思ったらシーザーになっちゃって、最早監督としても大物になり、次回作はゴラムの映画だからね、楽しみだね。
そういえば、『LOTR』においても、ウルク=ハイとかオークのデザインがやはりあのヌメヌメなのが、『ブレインデッド』感があって良い。やっぱり、モリアの坑道でのあのオークたちとの乱戦からのバルログが、シリーズで一番燃えるところだと個人的には思うんだよね。
で、ニュージーランド、と、言えば、今作のヴィンセント・ウォード監督もニュージーランドの人なわけで、映画産業の成り立たないような島国で見出された人の、変な映画が『奇蹟の輝き』。
いや、まぁ、別に、変な映画、ではないのだが、然し、まぁ、変な映画である。
今作はだいぶ宗教色が濃い。物語は、運命の出会いをして結婚した夫婦、その夫婦は最愛の子供たちを事故で喪ってしまい、哀しみに暮れる。それから数年後に、今後は夫が事故に巻き込まれて死亡してしまう……。
夫が目を覚ますと、そこは天国で、画家である妻の描いた油彩画のような世界だった。
そこに唐突に裸でくるくる回転しながら現れるキューバ・グッディング・Jrに戸惑いながらも、だんだん天国に適応していき、悲しいけど妻が来るまで待つよ!と夫は言う。するとキューバたんは何か浮かない顔。「君の奥さんはもう天国には来ることはできない、彼女は自殺してしまった、地獄に行くんだ。」と、とんでもなく救いのないことを言うキューバたんに、夫は、「ならもう僕が彼女を探しに行って助けてみせる、地獄になんか行かせるもんか!」と、天国から地獄への冒険がスタートする……的な話だが、まぁ、地獄のシーンは最後の40分くらいであり、基本的には生前、天国のシーン、その繰り返しが多い構成だ。
この映画には、天国、地獄、転生、自殺、忘却、贖罪、そういったワードに溢れていて、メインは家族愛の物語である。
なので、人物は基本的には知り合いしか出てこない。主人公が地獄で出会う名前のあるキャラクターは、それぞれが彼の生前の大切な人たちの天国での仮の姿である。
天国と地獄、という超巨大な命題を使用しながらも、その実非常に狭い狭い世界である。
然し、それでいいのかもしれない。天国と地獄とは、人の数だけ形があるはずだし、今作のテーマは愛であると同時に、生きている時に出来なかったことを伝えることにあるのだから。
天国も、地獄も、そもそも宗教というものは心の拠り所であるから、強制でなければ、各々何を信じようがいいのだろう。
主人公は優秀な医師で、奥様は画家である。なので、お家は超デカくてお金持ちだ。然し、そんなことはすぐにマイナスになるほどの哀しみが家族を襲う。
息子も娘も、それぞれに問題を抱えていて、天国にいる彼らと再び対峙することで、主人公はそれをもう一度思い出す。これは、天国と地獄という名の主人公の心の旅とも見て取れる。
肉体ではなく、魂が大事、的なノリの映画である。肉体とは借り物でしかなく、魂、ソウルこそが重要なのだ。
ソウルがない。魂がない、と言われてめちゃくちゃショックを受けていたのは『ブレードランナー2049』の主人公Kであるが、今作も、徹頭徹尾、魂に価値を置いている。それは、主人公夫妻がソウルメイトとして出会い、彼らの子供たちを魂として見つけ、主人公の恩師も同様であることからも伺える。
所詮、人間というのは、心というのは、電気信号でしかない、と言われる。
然し、そんな科学的なことでは、正論では説明のつかない現実がここにあり、救いを求める魂がここにあるのである。
今作のラストに、美しいシーンが登場する。それは、幼い少年少女の水辺での出会いのシーンだが(冒頭、主人公夫妻はボートで運命の出会いを果たす)、主人公たちは、ラストに生まれ変われることを選んで、この少年少女のシーンに移り、そして最後に、「昔、とても美しい女の子に出会った」という言葉で終わる。
これは、転生した二人の出会いなのか、それとも、夫婦の幼い頃の出会いなのか、どちらとでも取れるシーンだが、こうして円環は閉じられる。
どうしてだろうか、90年代の映画の夕日は美しいものが多い気がする。いや、アメリカの夕日だろうか。日本は夕日に寂しさを見るが、アメリカの夕日は、どこか聖なるものをもたらす予覚がする。