川端康成の 美しさと哀しみと
という長編小説がある。
これは1964年の作品で、二回映画化もしている。
一度は日本で、もう1本は海外で。
前回記事で紹介させて頂いた作品とは異なり、これはまだ文庫で買える。
物語は簡単にいうと、復讐ものである。舞台は京都である。
以下には、ネタバレがあります。
主人公である大木は、30前半の頃に妻子ある身で16歳のJKの音子を愛してしまい、彼女を妊娠させ、然し、8ヶ月で早産し、子供は亡くなってしまう。その後彼女は自殺を図るが一命をとりとめて、けれど精神病院に入れられてしまう。
一方の大木はその経験を活かして『十六七の少女』という小説を書いて、出世する。妻が大変な嫉妬と子育てに悩まされている中での快楽を書いて
(後年、この本のお陰でいまの生活があるのだと、そういう風に考えているが)。
音子は退院後、恢復して、日本画家として独身を貫いている。彼女は、『嬰児昇天』という、亡くなってしまった子供の絵を描いている。
音子は、彼女に憧れる20歳くらいの弟子のけい子と同棲している。けい子は、美少年のような、妖精めいた女性である。
そして、あれから20年ほどの月日が流れた現在、大木は急に音子に会いたくなって、電話しちゃう……的な、糞人間が主役の話である。
川端は、毎回こうである。
ノーベル文学賞、日本の美、などと謳われているが、女性に関する描写が極めて酷い。そして、また完全に自分の話である。
半世紀以上前の価値観だし、創作であるから……とはいえ、大体いつも同じである。
三島由紀夫は、「いやー、川端さんの作品はなんていうかな、花が咲く前に終わるというか、花が咲いたその瞬間に終わる……!ていうかさ。そんな感じっすよね。最近ようやく海外の連中にもそれがわかってきたみたいで、俺も嬉しいっすよ。」
的なことを言っていて、この指摘は正しいが、けれども、どちらかというと、思いついたら書くタイプなのだと思われる。
深い構成を考えているとは思えない作品、途中で飽きたと思われる作品が多い。
佐藤春夫は、文章に関して、「熟し切る前に書いた作品は駄目だな。もっと発想が育ってから書けば、さらによくなるのに。」と言っている。
これはとても大事なことを言っている。鉄は熱いうちに打て、けれども、せっかちにはなるな、ということである。
今作は復讐ものである。そして、復讐者は実は音子ではない。
大好きなお師匠を苦しめた大木の野郎を赦さねぇ、という、弟子けい子がリベンジャーなのである。いや、アベンジャー(報復者)なのである。
けい子はレズビアンだが、大木の息子へ色目を使って、まんまとおびき寄せて……という、一人美人局をやってのける。
この小説は、魔界をテーマに書いている後半期に書かれている。
基本的には、川端康成の小説は私小説である。
長編の主人公は、全て川端本人だと考えて、それほど間違っていないだろう。
『みづうみ』の銀平も、『雪国』の島村も、『山の音』の信吾も、『眠れる美女』の江口も、『東京の人』の島木も、『禽獣』の彼も、全て川端のうつしみである。
まぁ、小説とはそんなものである。
主人公を客体化して描くことの出来る作家は、通俗小説家であり、エンターテイメント小説を書くのに向いている。
反対に、川端康成はどこまでも自分を曝け出してしまう。
けれど、その予測不可能な破綻が、彼の作品をどうしようもなく美しく、禍々しいものに変えているのかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?