セルロイド製ピーター・パン③
後 彼ら その②
帰り道、みどりちゃんは、図書館に寄ると、詩杏ちゃんと都南くんに、弟たちを家まで送ってくれるように頼みました。そうして、図書館に置いてある本の検索機で、あの図鑑、美しい少年たちの図録を探しました。なかなか見つからないから、司書に尋ねようかとも思えたのですが、淫らな自分を看過されそうだと、また検索機に戻ります。すると、どうやら、それらしき本が見つかりました。棚に向かうと、学校の図書室の片隅で、初めてあの本を見たときの記憶が思い出されて、ああ、また、こんな所に一人で隠れていたのねと、みどりちゃんはその本に手を伸ばしました。
誰もいないテーブルで、勉強をするふりをしながら、本を捲ります。記憶の奔流が起こりました。様々な美少年たちが、みどりちゃんを嬲るように本からその眼差しを向けてきます。身体が熱くなるのがわかります。そうしているうちに、ふっと、あのピーター・パンたちが思い出されました。彼らが話していた、アフロディテの話……。みどりちゃんは、気になって検索機で、そちらも探しました、そうして、彼らが話していた、アフロディテに関しての本を見つけると、それを開きました。もう夕暮れ時なのに、まだ空は明るいのです。
みどりちゃんは、借りた本を鞄の中に詰め込むと、そのままそさくさと、図書館から出ました。影がありませんでした。そうして、仄明るい道を行くうちに、ところどころ、電信柱や街路樹の脇に、夜の住人たちの影が視えるようです。ああ、やだやだ。みどりちゃんは不安になって、足を早めました。詩杏ちゃんや都南くんたちと、一緒に帰ればよかった、そう思いながら、みどりちゃんは先へ先へと進みます。進んでいく内に、白い街灯の下に、一人の少年が座っているのが目端に映りました。彼も、あの二人と同じ、ピーター・パンなのでしょうか。みどりちゃんは気になって、彼の元へと近づこうとしましたが、少年は一瞬だけ顔を上げると、ぱっと、その場から小走りで走っていってしまって、すぐにみどりちゃんの視界から消えました。みどりちゃんは、少しずつ、街灯の側へと、躙り寄るように近づいていきました。
「何をしているの?」
みどりちゃんは驚いて顔をあげました。そうすると、美しい青い目をした青年が一人、そこに立っていました。青年……、いえ、それは、もう少し年嵩のいった、三十代頃の男性でしょうか。イエズス・キリストに似ている、一見して、そのように感じられました。あまりにも突然のことでしたから、みどりちゃんは何も言えずに、ただ男性を見上げました。男性は微笑んで、
「夜ももう遅くなるから、私が送っていこうか。」
みどりちゃんは首を振って、逃げるように、走っていきました。誰だろう、誰だろう、誰だろう、誰だろう。誰だろう?然し、あの男性の優しく冷たい眼差しというのは、どこかで視たような気もするのです。どこででしょうか……。ふいに、都南くんの顔が浮かびました。都南くんの目元に、似ている気がしました。立ち止まり、振り返ると、先程の男性の影もなく、あれは、幻かなにか、或いは、都南くんが大人になってしまった姿を、幻視してしまったのではと、みどりちゃんに思えました。
家に戻り、みどりちゃんは、借りてきたいくつかの本、そのうちの一つは、あの美少年のカタログで、それをパラパラと捲りながら、先程に会った、謎めいた紳士……、彼に対しての思いに耽りました。今思えば、服装も少し風変わりで、スーツなどではなく、まさに、神父様が着るような修道服を思わせる、それも白衣のものでしたが、そう思えば、あれは先生方なのかもしれないと、当然の帰結に至りました。先生方の幾人かは神父様ですから、いつも見慣れているはずなのに、どうして、あのように動揺してしまったのでしょうか。然し、あのような先生は、学校では見たこともないような気もするのです。ああ、それならば、もしかすると、昼間に会った、あのピーター・パン、大人にならない彼らに会って、無意識の彼らのその顔立ちが、心に残っていて、それが照射されたのかもしれない…。けれども、わからないわ。そう思いながら、頁を一枚捲ると、みどりちゃんは、頬を赤らめました。裸の男性たちが、水浴びをしている絵が掲載されていて、その下に、トマス・エイキンズとありました。タイトルは、『スイミングホール』。
ここからは、私がトマス・エイキンズについて話をしよう。トマス・エイキンズは、近代亜米利加美術の父と称される画家だ。写実主義を徹底的に極めた画家で、肉体を精緻に描いた。
ここに描かれた裸体の男たちは、彼の教え子たちだ。彼は、この『スイミングホール』を『プール』或いは『スイマー』と名付けていたのだが、然し、このように教え子の男性たちの裸体を並べ立てて、それをモデルに描いた作品は、当然ながらスキャンダルの的になって、彼はアカデミーの職を追われている。彼はゲイだったのだ。肉体の美しさ、神の現身を描こうとして、それは幻想の介在しない徹底的な模写だったわけだが、然し、例えば、この笛を吹く裸体の青年や少年少女の楽園を描いた『アルカディア』の幻想性はどうだ。
我々は、衣服を纏うことで、幻想を隠すのかもしれぬ。驚嘆すべき美しき男性の裸体、それを惑わす女性の肢体、それこそが幻想であり、舞台が森ならばそれはもう、百点満点だ。少年のうら若き身体、それを執拗に描く。アルカディアは牧人の楽園であり、希臘における理想郷だ。そこに、裸体の少年が描かれている意味はなんだろうか。それもまたピーター・パンめいているが、ここにヒントがありそうだ。トマス・エイキンズの六歳の頃の写真を見たことがあるかね?モノクロームの写真だが、その中に映るトマス少年は、美少年であり美少女だ。本当に、女の子めいた男の子なのだ。
これは、きっと、トマス自身の理想の頃だろうね。幼い頃の自分、或いは、自身の息子というものは、白詰草の花冠をおつむりにかぶった理想の美少年なのだ。理想の自分なのだ。彼は、アルカディアに裸のピーター・パンを描くことで、その刻印と試みていたと、考えられないだろうか?或いは、あらゆる文学は、そのようなものだと、私には思えてならない。結句、文学や芸術は他人のためでなく、自らが欣快の至りを得る為に行われるものなのだから。
みどりちゃんに囁きかけるその声は、何処にも聞いたことのない声です。或いは、どこかで聞いた声?時折、みどりちゃんは、このようなイマジナリー・フレンドとも呼べるその声の主に、様々なことを教えてもらうのです。そういえば、彼は、みどりちゃんの空想の中では、イエズス・キリストの顔をしていましたっけ。
このイマジナリー・フレンドは博識で、みどりちゃんの識らないことも識っていますし、それだけではなくて、みどりちゃんの悩みの相談も喜んで聞いてくれるのです。これは不思議な感覚です。
けれども、彼ら。あの、二人のピーター・パン。先程の声の主が正しいのであれば、彼らは、特に、都南くんは、お父さんの理想、ということなのでしょうか。もうすぐ、声変わりをして、今いるコーラス部で聖歌を響かせることもなくなるのでしょうか。ボーイ・ソプラノは神から借りた声だと言いますから……。
みどりちゃんは、二人の真似をして、歌ってみます。どのような歌詞だったのか、うろ覚えでしたけれども……
目にはさやかに 見えぬどそれは
連ねる電線(せん)も 建つる柱も
浪路遥かに 隔つる消息(たより)
いかに送るか 奇しき機械
「七理紫水、詩か……。」
みどりちゃんは呟いて、詩という言葉に、詩杏ちゃんを聯想しました。あの、美しい女の子。もう大人になりつつある、あの身体。それから、都南くん。少し遅れて、青年になる。つまらないことだと思いました。彼らといると、自分までもが特別な存在に思えることがあります。同級生の女の子たちは、もう色気づいていて、高校生や大学生の男の人に夢中になっています。恐ろしいことだと思いました。彼女たちは、もう、ネヴァー・ネヴァーランドに入ることが出来ないのです。そう思うと、どうしても、皆殺し、或いは、無理心中の境地にたどり着きます。弟たちはまだ幼いですから、そのようなことに付き合わせるわけにはいきません。けれども、都南くんや詩杏ちゃん、そして、みどりちゃんの年頃ならば、話は別なのです。彼ら、彼女らは、もう、この世から消えるわけです。先程の声の主、あのキリスト様の言葉を信じるのであれば、結局はまた自分たちが親になって、それを永久に繰り返せば、ある種、終わらないわけですが……。
ああ、頭がぐるぐるとして割れそうです。みどりちゃんは、薬箱からアセトアミノフェンを取り出して、それを飲みました。これで、いつも痛みが引いて、次第には、だんだんと、夢心地になります。股間の辺りから、だんだんと熱っぽく、眠たくなるのです。そうして、みどりちゃんはベッドに横になると、目を瞑りました。暫くすると、断続的にキンキンと響くようにあった痛みが、緩やかな鼓動に成り代わって、急に心地よくなりました。目を開けると、ベッドの座るキリスト様がいて、みどりちゃんの額に手を置きました。その顔は、先程、街灯の下で見たあの顔と同じで、あの街灯も今思えば夢かもしれません。夢の続きで、この御方が、みどりちゃんを運んできてくれたのかもしれません。
イエス様?
いいや、私は、ジル・ド・レイ。
ジル・ド・レイ?
ジャンヌ・ダルクは識っている?
識っています。聖女ジャンヌ・ダルク。ドンレミ村のジャンヌ。
そう、そのジャンヌ・ダルク。彼女、いや、彼と言っていいかもしれないけれど、彼と共に戦った貴族。
識っていますわ。けれど、あなたは、ジャンヌ・ダルクが火刑になった後、城に籠もって……。
詳しいね。その通り。僕は、ジャンヌを喪ってからは神を厭うて、サタンに、所謂、悪魔、アクマだね。アクマに少年たちを捧げた。
どんな風に。
犯して、嬲って、八つ裂きにして、玻璃の器に盛って、アクマに捧げた。
何人の少年たちを?
優に八百は超える。
あなたの御本を読んだ時、あなたは青ひげ……。
青髭公のモデルにね。そう言われている。
けれど、イエス様みたいにきれいなお顔。
私自身は美しい。私は心は少年で、両性具有の少年に恋をしたわけだ。
その恋に破れたから?
青頭巾は識っている?
青髭公と違って?
うん。青頭巾は、坊さんだ。この老僧は、美しい稚児を大層可愛がっていてね。まぁ、稚児に、美しい少年に狂ってしまったわけだ。けれど、ある日悲劇があって、この稚児が死んでしまう。坊さんは絶望を抱えるが、稚児の死体を捨てようとはしないわけだ。
ずっと、後生大事に持っているわけにはいかないのに。
その通りだ。けれど、坊さんにとっては、一壺天とも言える存在だったわけで、その桃源郷を、彼は自分の中に取り込んでしまった。
どんな風に。
犯して、嬲って、愛して、骨までしゃぶった。いや、死体の骨までしゃぶり喰ってしまった。そうして、妖怪になった。
怖い話。
怖い話だ。執着の恐ろしさ。妖怪変化。アクマに全てを捧げた僕だから、彼の気持ちはとてもよくわかる。人は、愛するものを喪った時に、思いもよらず化け物になるものだ。
青い色。
何?
どちらも青い色。
青頭巾に青髭に。
青色は、恐ろしい色?
冷たい、月の色だ。青い空は、月の顔だ。
ねぇ、ジル・ド・レイさん。いいえ、イエス様。やっぱりあなたはイエス様。
どちらと取ってくれても構わない。結局は、何れにせよ、磔刑に処された。
ねぇ、私の愛するピーター・パン。
君の恋人たち?
二人こそが恋人たち?それとも、家族かしら。あの人たちも、もう喪われてしまうの。あなたの好きだった少年たちも、そのようなものでしょう?
彼らは大人になって、性愛に耽ると、突然に汚らわしいものになってしまう。そうなる前に、魂を開放した、というのも、一つの見方であるね。
やはり、そうなのね。
君の愛するピーター・パンも、その生命は育まれて、アダムとイヴに変わるわけだ。そうなると、もう人間の男性女性だね。
それは嫌なのよ。すごく、嫌。
君は男どもでオナニーをしている。それとこれとは別?
聖なるものを遺しておきたいの。
正しく、聖遺物をね。
どうすれば、彼らはそのままでいられるの?
簡単なことだ。君は、さきほどの、その答えにたどり着いていたじゃないか。僕が話すまででもない。
でも、誰かに聞いてほしいの。誰かに、答えを教えてほしいの。
子供だから、責任をとりたくない?
いいえ、確認をとりたいの。
目ざめると、雨音が聞こえていました。みどりちゃんは、イエス様よろしくジル・ド・レイ候が消えたのを確認すると、頭の痛みもさっぱりと消えていることに気づきました。
立ち上がり、窓辺へと近づくと、カーテンを開けました。真っ青な月が微笑んでいて、街灯はその子供のように青々としています。その下に、ジル・ド・レイ候の姿があるように見えました。
青い月光に、多分に勇気づけられたのか、みどりちゃんは、二人のピーター・パンに対しての、恐ろしい思いを、実現に移すかどうか、いや、移すのは規定事項なのです。もう、決められたことなのです。彼らをネヴァー・ネヴァーランドに引き留めるための唯一の方法。いいえ、本当は二つあります。それは、A、ネヴァー・ネヴァーランドでの心中、B、彼らが結婚し、セックスをして、新しい彼らを生み育てること。みどりちゃんはため息を吐きました。そうなると、その頃には私はもう年寄りね。きっと、誰か他の男に犯されて、その胤を受けるのね。みどりちゃんの脳内に、溢れ出るのは美少年と美青年たちのペニスたちでした。毎日、あの、恐ろしいエイリアンを思いながら生きるのは辛いけれども、それでもAを選べば、きれいなままに、死ねるのかもしれません。アセトアミノフェンのおかげでしょうか、痛みが霧散して、意識があまりにも鮮明です。クリアになって、不思議なほどに、この危険な遊びが、それこそ、彼らがネヴァー・ネヴァーランドで、戯れることと何が違うのかと思えます。みどりちゃんは、スマートフォンを手に取ると、画面をタップして、詩杏ちゃんに電話をかけました。明日、また、あの制服で。そう、何の衒いもなく電話に出た詩杏ちゃんに告げると、どのようにして、彼らを巻き込もうか、そう、思案をはじめました。
翌日、果たして彼らは、水兵服をまとった、昨日のままの姿で、みどりちゃんの前に顕れました。まさに、顕現したといってもいいでしょう。これは、つまらぬ片思いなのかもしれませんが、然し、この緑溢れる植物の園において、二人のピーター・パンは、まさにトマス・エイキンズの『アルカディア』を思い出させました。彼らがここを楽園にしていて、楽園が先にあるわけではないのだと、改めてみどりちゃんは実感しました。今日は、とても穏やかな天気で、けれども、もうすぐに沖縄に台風が近づいていると、今朝のニュースで流れていました。詩杏ちゃんは、帽子を外すと、また高らかに歌いだしました。それはまた、あの歌でした。
都南くんは、何も言わずに、みどりちゃんの横に座って、彼女に微笑みかけました。愛らしい笑顔に、みどりちゃんはそっと、先ほど摘んで編んでおいた、白詰草の王冠を彼に被せてあげました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?