エンターテインメント駆逐
エンターテイメント小説、所謂エンタメ小説は儲かる分野だ。
それは、エンタメが慰安の為に存在し、娯楽として人々に消費される、特に、大衆向けのものは通俗的であり、最大公約数に受けるように書かれているからで、そういうものは売れる。
なので、当たるものは何十万部と売れて(無論、ごくごくマイノリティ・リポートが目立つだけで、死屍累々の世界である。ライヴァルは山といるのだ)、この世の春を謳歌できる。
エンタメは商売である。商売であるから、マーケティングが存在する。
需要を考える必要性が有り、起承転結が必要である。人は、起承転結を必要とする。そうでなければ、不安になるのだ。オチがない、尻切れトンボ、或いは未来の見えないものは辛い、それは人生と同義だからである。
エンタメは小説だけではなく、映画でも存在する。いや、寧ろ映画はそもそもが娯楽なのだが、表現媒体には藝術と商売との相関関係が常に存在し、ごく偶に藝術が商売になることもある。映画と小説、或いは漫画、というのは相互幸せな関係性を築ける媒体で、一歩VS千堂のララパルーザにおけるミックス・アップよろしく共に売れまくることも多々ある。
なので、これらの業界は最初からつるんでいるし、売り出すためには平気で誇大広告や賞レースの操作もすることもあるだろう。
よく、これはコネ受賞だ!とか、出来レースだ!とかで騒いで、そんなことがあるわけがない、みたいな話があるが、それは吉岡清十郎の言葉を借りるのならば、「処女のように暢気だな」である。
出来レースなどあるに決まっている。その上で才能がある人はきちんと出てくるのだ。
売れるのは正義である。たくさんの人にお金をもたらして、お金の回転を上げていく。エンターテイメントが存在するから、その他大勢の売れない分野が生きていくことが可能なわけで、まさにエンタメ様様なわけだが、然し、エンターテイメントには欠点がある。
それは、薄命ということである。ブーム、というのは世間一般に浸透した時点で蛍の光が流れ始めているのと同義なわけだが、エンターティメントは産まれた時から消費を義務付けられている。
その場で発散されて、楽しまれ、次代には消えている。無論、消えていないものもあるが、基本的には99%の創作物が消えている。それは、ブームになろうがなるまいが、である。
今年流行ったエンターティメントはもう3年後には大抵はファン以外は購入していないし、そのファンの大多数も移り気である。
正直、流行った、流行っていない、というのは、最早運の要素も多分に絡んでおり、狙って当てることは出来ない。ある程度、当てることは出来るのだろうが、大バズリ、というのは、基本的にはほぼ運であるし、その作品になにか大衆の心と同調する欠片が埋まっていて、それが化学反応を起こしたとしたとしか考えられない。
所詮この世は資本主義。金を稼いで平定を与える存在には、藝術作品は逆立ちしても勝てないのである。藝術は一定の金持ちのマネーゲーム、若しくは貧乏人の魂の縁にしかならない。
然し、売れているエンターテイメント、かつ、月日を経ても生き残っている作品というのは、微かに芸術的な匂いがほのかに立ち上っている。或いは、文化的な素養を抱いている。大衆が、作品を藝術化する、或いは、大衆が作品を文化として体内に取り込むのである。
エンターテイメントは、商売の為に生み出された。然し、それは微かに藝術の種を孕んでいて、花咲いて周囲にその遺伝子が撒き散らされていく。
別に、藝術が上だと言っているわけではない……。(いや、私個人は藝術が上だと思ってますけど)
然し、その境界線など、どこにあるのか、それはそのエンターテイメントが駆逐されたときにしかわからないものなのである……。そして、人間が生きている限り、エンターテイメントは永久に再生を続けるのだ。