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処女宮


廓の灯りが輝いている。私が未だ目にしたことのない、嘘か真かわからない、噂に聞いた御伽の国よ。きらきらと、白粉のごとくに濡れた絹がゆらめいている。そうして、乙女たちの嬌声が耳に聞こえる。いや、それは幻聴だろう。奇怪な館で視る夢聴く夢を、私はこうして子守歌さながらに心で歌っている。乙女たちの声か、それとも自分の声であるのか、こうして目を瞑るともう、定かではない。
 夢のように美しい乙女たちが住まう場所だと、伝え聞いた。一人や二人ではない、幾人もの乙女たちが、そこで美しさを競い合うかのように、健やかに育まれて、いつしか客を取るのだと。
「ただの娼館ではない。」
その男はそう言うと、神経質そうに右目の下瞼を何度も痙攣させた。私は目で男に続きを促す。そうすると、この男は得意げになって、ぺらぺらと何でも喋ってしまうのだ。
「あそこにいるのは全て乙女だ。処女だ。まだ交わったこともない、呑気な娘だ。」
ーそれを娼館と呼ぶのか?まだ処女ならば、当然客とも寝ていないのだろう。それとも、客を初めての男とするのかい?
「いいや。あそこはただ、女たちと語らって、そうして心を交わらせる場所だ。お前さんの想像するような、体の交わりなんてありやしない。ただ男と女の睦言が、光る宝石のように散らばる場所なんだよ。」
男はまた瞼を震わせた。私は男の言葉を反芻しながら、窓外を見つめた。窓外に見える景色は、灰色雲に覆われて、今にも紫色の稲光が落ちてきそうだが、しかし、廓は天上から差す紫磨黄金の灯りに包まれて、そうして歌声までもが目に視えるようだ。
 しばらくの間、客人のことも忘れて私は魅入る。その黄金宮を。光輝く処女の住まう廓よ。
 処女宮と呼ばれている。私も、人伝に聞いただけであるから、その呼び名が正しいかどうかはわからない。昼の最中には、その建造物は姿も見えない。夜になると、花が咲いたようにビルの間に間に、金色の灯りの中で目を覚ます。ファラオの宮殿のようにも思える。タージ・マハル廟のように、白い珊瑚と星屑を使って造られた流線型。そうして、其処にも此処から幽かに見えるほどだが、小さな窓が開いている。黒い窓から、娘が今にも顔を出して、私を手招く。なんのことはない、私のつまらない幻想である。しかし、美しい明け方に見える幻想は、いつの間にか夢の中にまで囁きかける。その篝火は、あの耳もとで囁かれる美しい乙女たちの声か。
私は立ち上がり、あの宮殿へ足を踏み入れることを夢見る。素白き乙女の宮殿よ。私は何時の日かそこに踏入り、汝を舐るであろうと、淫らな思想に苛まれる。ああ、乙女の宮殿よ。私の自意識が、風に吹かれて崩れるたんぽぽの綿毛よりも儚いものであるなら、凪を終えた海が連れてきた波に砕かれる砂上の城であるのならば、今すぐにでも汝の中に入りたいと、夜な夜な渇望するのみである。
 私は待った。あの客人がまた訪れるのを。あの、右の瞼が切り裂かれて、眼球から血と油の涙を流すあの男が、私を夢の世界に誘うのを。ただ待つのみである。その間、私は延々と、あの玉虫色の城から届く光の帯にため息を零すばかりである。そうして、うつらうつらと自然と舟を漕ぎ出してしまうのを待つのである。玉虫色の輝きはこの陋屋まで届いて、私の瞼をうっすらと染め抜いていく。それが温かいのである。そうするうちに、私はどんどんと夢の中に落ち込んでいく。たくさんの人々が私を覗き込んでいる感覚がする。私は目を開いた。私を囲んでいるのは、つまらない日々に縫い上げてできた僅かばかりの木偶だ。毒人形だ。この毒人形たちは、私を見つめながらほほ笑む。私の境遇を小馬鹿にするかのように口元を歪めている。毒人形の一体を射貫くように見つめていると、次第に人形が口を動かした。半開きの紫の鈴口が、ゆっくりと軋む音を立てながら開いていく。毒人形の瞳孔は爛々としている。何故私を作ったのか?その存在理由を問いたいようであるが、私にもわからない。所詮、私の手慰みと思いつきで作られただけの人形である。それが、私にも存在理由があるに違いないのだと言わんばかりに、その鋭い眼差しを私に突き立ててくる。私は首を振る。哀しいかな、お前は何者でもなく、また何物でもない。私の日々の生活の糧として作られた人形よりも遥かに劣る、無価値の人形。その無価値さを自覚することもなく、期待に満ちた目を向けないでくれ。お前はただ私の手遊び、手慰みで作られただけだ。我々人間と何ら変わりがないのだ。何処の世界にいるかも知れぬ我らの父の手慰みと変わりがない。お前はただの毒人形だ。その生は誰に必要とされることもなく、誰に知られることもなく終わる。それは永久にだ。生まれ落ちた時からその様に紡がれているのだ。アンデルセンの物語を識っているか?雛菊の物語。誰にも顧みられない、孤独の花だ。その雛菊と何ら変わりがない、誰に思い出されることもない。そう目で問い返しても、お前は言葉を話すことが出来ないのだ。お前に意思があろうとも、例えば鳥や花と会話が出来たとしても、お前は自分で動くことも出来ない。剣を胸に突きつけられても、それは跳ね返す言葉も持たず、盾もない。ただその胸に深く深く剣が打ち立てられて、そのまま絶命するのだ。例えば、お前に命があるのならば。
 私は目を覚ました。幾体もの毒人形が私を見つめている。そうして、その毒人形の中に、もう一つ別の目が見える。その目はどす黒い溝の匂いがした。私が作る人形と似ている。この男は複製人間かもしれなかった。男の顔がどんどん輪郭を伴っていくにつれて、私は思い出していた。あの玉虫色の輝きを。七色の恍惚を。部屋には変わらず金銀砂子の波がさざめいていて、私はそれを指先で掬った。光が指の間から清水のように零れていく。
ー私を連れて行ってくれないか?
客人は目を細めた。訝しそうに私を見つめている。
「金がいる。莫大な金だ。あそこで遊ぶためには恐らくはお前の命でも足りない。家族全員、一族郎党が永久奴隷だ。」
ーどれほどの人形を作ればいいんだ?
「幾ら作ろうが同じだ。お前の毒人形なぞ、幾らにもならない。」
男は私の才能を鼻で笑って、指先で彼の場所を指し示す。そうすると、男の指先にふわりと火の色が灯って、それはあの宮殿から忍んできた蛍であろうか。
ー永遠の奴隷になっても構わない。
男は顔色を変えた。あからさまに嬉しそうにほほ笑むが、しかし、すぐさま口を閉じると、まだ火の色に燃えている人差し指を燭の火の如しに口元に立てた。
「滅多なことは言うもんじゃない。言葉は強い力を持っている。その強い力に飲まれてしまっては、お前は二度と帰ることができなくなるかもしれない。」
脅しのように強い言葉が私の耳に刺さる。しかし、抗う事の出来ぬほどの悦びの匂いが鼻先を掠めるものだから、私はその火のように燃えている指先を掴んで見せた。男はぎょっと身を竦めたが、すぐに私の目の中を覗き込んで、
「そのまま触れていたら、指先が溶けて消えてしまうよ。灰になってしまうよ。」
しかし私は譲らないのだ。あの宮殿に足を踏み入れることができるのならば、誠に永久の奴隷に堕ちようとも構いはしない。その心根を男に押し込むように、私は男を見つめた。男は何か勿体ぶるような顔つきで、しかし、そこにはどこか私をその彼方へと連れて行こうとする意思が見て取れる。私と男は見つめ合った。それは恋人のようでもある。男だけが私を彼方へと連れて行ってくれる。私の熱を帯びた視線に音を上げたのか、そっと目を伏せたかと思うと、上目遣いで見上げてくる。この、四十は当に過ぎた男がなにやら愛らしい娘のように思えてくる。
「お前様は、対価の意味をわかっていないようだね。あれらは、美しいけれど、それは美しさを僭称しているだけの、芸術もどきだ。男はね、種を放てばね、もうその女には興味がなくなるのだよ。お前も、自涜に耽るその後に、斯様な哀しみに包まれるだろう?」
私は、その感覚を覚えている。爆ぜるような快楽の後に私の中に立ち顕れるもう一人の私は、私を嘲笑し、二度と女の肌への恋慕を抱かないように囁くが、それは僅か数刻も持たない砂上の楼閣である。
「天女を犯そうとするのは、あまりにも愚かだ。」
男は、私の決意を一蹴すると、立ち上がり、この荒屋から立ち去ろうとする。私は、男の手を掴み、彼を引き寄せると、彼に取引を持ちかけた。天涯孤独の私には、他に捧げるものもないのだから、一晩の夢を、自身の生命を持って、それを買う他にはないのだと、懇願した。男は暫く考えるようで、そうして、暫くすると、ある決心をした。
私は、男に連れられて、あの、美しい宮へと、足を踏み入れることになるのだが、然し、私の滂沱の涙を流すほどの悦びすらも、それはただの一瞬の夢でしか無いことを、私は、すぐさま識ることになった。美しい娘が、両手で頬を抑えて、私を見ている。その仏のようにきれいな顔と真白な歯並びは、私と遊ぶためのものではなく、私は、本当に永久の奴隷となって、乙女たちが夜伽の折、客の男たちとの睦言を交わすその場に、ただ一本の燭台として、そこに置かれることになる。東洋の逸話にある、灯台鬼の伝説……。私は、その姿になって初めて、私が見ていたあのきらきらと美しい千夜一夜の金色の灯りを思い出すのである。


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