お山の大将
トルーマン・カポーティのエッセイ、『詩神の声聞こゆ』に収録されている
マーロン・ブランドにまつわるエッセイである。
私はマーロン・ブランドがウルトラに好きなので、この本も読んだのだ。
この『詩神の声聞こゆ』には『砲声絶えるとき』、『詩神の声聞こゆ』、『お山の大将』、『文体ーおよび日本人』が収録されていて、『お山の大将』に関しては、映画『サヨナラ』の撮影の為に京都に滞在していたマーロン・ブランドに取材をした様を書いている。
彼は京都の都ホテルに滞在していたのである。
トルーマン・カポーティは同性愛者であることを公言している。彼の代表作は死刑囚の取材において書かれた『冷血』で、今作はノンフィクションノベルを形作った。
2005年に『冷血』の取材過程を描いた作品『カポーティ』が、フィリップ・シーモア・ホフマン主演で映画化された。
フィリップ・シーモア・ホフマンは2014年に亡くなってしまった。僅か46年の命である。
『お山の大将』も、ある種ノンフィクションノベルである。
ここでは、マーロン・ブランドの精神が描かれる。
今作でも、マーロン・ブランドは粗野に振る舞うのも、全てイメージの為だけであり、本当の自分は違うのだと、そう語る。
ジェームズ・ディーンはマーロン・ブランドに憧れていて、彼の真似をして、よく電話もしてくるようになったという。ディーンがマーロンを真似てジャケットを脱いで投げたりすると、
「あんまりそういうことはしないほうがいいぜ。ディーン。」と窘めたりするのである。マーロンっぽくなりたいのに怒られるという皮肉。
まぁ、芸能人だとか、イメージの商売の人は、偽りが多いだろう。
それが偶像商売の因果な所だが、向かない人間は、心無い言葉に磨り減るのだろう。多くの人間は、思っている以上に表面上だけを捉える。誹謗中傷で、どれだけの心を傷つけているのか想像も出来ない。
この八、九年、おれの人生はみじめなものだったよ。
多分この二年ほどは少しましだったかもしれん。波の底でもがくこともなくなって。きみは精神分析を受けたことがあるか?
おれもはじめはこわかった。おれを創造的にする、芸術家にする衝動が、そこなわれるんじゃないかと思ってね。
感受性の強い人間は、ほかのものが七つしか印象を受けないときでも、五十くらい受けるものだ。感受性の強い人間は、それだけ傷つきやすい、それだけ獣的になりやすい、ただ、感受性が強いというためだけに。感受性が強ければ強いほど、獣的になるだろう、やくざになるだろう。けっして進化しないんだ。何かを感じることを、けっして自分に許さないんだ、いつもあまりに感じすぎるんでね。精神分析は役に立つ。
おれには役に立ってくれた。それでも、この八、九年、おれはひどかったよ、かなりみじめだったよ…。
このインタビュー中に、カポーティは、ブランドがモノロギスト(独白者)であるという印象を受けたようだ。人と話すのではなく、彼は、だんだんと自分自身に語りかけるように集中していく…。
俺は本気で、本気になって考えているんだ。すっかりやめてしまおうかと。この成功した俳優であるってことを。
だってしょうがないだろう。それ以上のなにものにもなれないとすれば?
たしかに成功した、ついに世の人々に認められた。どこに行っても歓迎される。だがそれだけだ、それだけでしかないんだ。
そこで行き止まりだ。あとはただキャンデーの山の上に座っているだけだ。
彼はこの後、ヴァン・ゴッホを持ち出す。世に認められない人間が最後にどうなるのか。しかし、本質的には成功者も変わらないとも言う。
ここで語られる、彼の座るキャンデーの山こそが、表題のお山の大将が座る、山である。ご褒美と称賛に満ちた、それだけの場所。
このエッセイは結びとして、『八月十五夜の茶屋』のポスターを街中で見かけたカポーティの印象で終わる。
ブランドが座禅を組み、座っている。それは仏のようでもあり、しかし、キャンディーの山に座る若者でしかない、と。
カポーティは同性愛者だが、マーロン・ブランドは両性愛者である。
彼は、マリリン・モンローとも寝たし、数多の女と寝たというが、1人兄事する男性がいた。ウォーリー・コックスという俳優で、マーロンとは若い頃からたいへん仲が良かった。二人の遺骨は、ブランドの意志で、共にデスバレーに散骨されている。
彼はカポーティとの会話の中で、生きる意味は誰かを愛することだと、そう言った。俺にはできない、自分を捧げてもいいほどに愛することは、とそう語っている。けれども、彼には本当には愛する人がいたのだろう。
ウォーリーが女性だったのなら、彼と結婚して、そうして幸せに暮らしただろう。
彼は、噂を尋ねられて、ジャーナリストに語っていた。
今作で、午前二時の京都の印象を、カポーティはこう描写している。
だが、午前二時ともなれば、そのような優美な異様さは消え、キャバレーもシャッターがおろされている。猫だけが私のお供であった、それに酔っ払いとネオン街の女たち、戸口におきまりの老いた浮浪者たち、それからフルートで中世風の曲を吹きながら私についてきたボロ服の流しの音楽家が一人と。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?