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マヤ・デレンと魔法のキス

私の欲しい本は、いつも高額、と、いうのがお決まりである。

前衛映像作家のマヤ・デレンの本である。
それだけではなく、詩人でもあり、シャーマンでもあり、ダンサーである。
要素が渋滞しているが、それは全て、つながっている。
霊的なもの、舞踊、或いは舞踏、そしてポエジー、それらは、全て同一のものである。

昨年の12月に発売された本だ。
そしてこの本は3,300円。う、うう……、高い……。

マヤ・デレンの『午後の網目』はYouTubeでも観られるし、つーか、他の映画も観られる。短編だし。

『午後の網目』は15分弱の映画で、夢、の映画でもある。
連なるそのイメージは、デイ・ドリーム的であり、且つ、誰しもが、どこかで観たことのあるような、いや、無いのだが、あるような、そのような、感傷と隔てた郷愁が忍んでいる。
花、鍵、鳴り続ける電話、レコード、ナイフ、分身、鏡、黒装束、階段、窓辺、瞳、海。
映像詩、と、いうものがあるが、詩から産まれる映画もあるように、映画から産まれる詩もあるだろう。この映画を観て、それぞれの詩人が、その情景を詩にしたらどのようになるのだろうか。

詩的な映画、実験的な映画は色々あるけれども、然し、やはり、イメージの積み重ねのようでいて、緻密に組み立てられているのが見て取れる。
文章における詩、でも、映像における詩、でも、そこには計算が働いている。計算のない詩を書こうと思えば、そこにはランダム性に任せた思いつきの連続しか方法はないが、然し、それもまた、計算である。
上質な詩、特に、映像詩は、巧緻に織り上げられており、『午後の網目』は不条理ではなく、物語性が極めて高く、その領域内にあるのだろう。
そして、そこには、この美しいモノクロの風景の中には、白昼夢の中を彷徨うには、美女でなければならない、それも兼ね備えている。

マヤ・デレンは44歳で亡くなったそうだが、最後の旦那さんは日本人の作曲家の伊藤貞司で、『午後の網目』の作曲を担当している。
やはり、アーティストはアーティストと引き合うのか。

ブードゥー教の研究のために、ハイチへと向かい、そこで、ブードゥーのカルト教団を取材して、『聖なる騎士たち』という書籍を書いたのだという。まぁ、私は、全く読んでいないので、これに関しては一切わからない……。なので、まぁ、こういう、まとめられた本、と、いうのは、すごく興味があるのだが、生憎持ち合わせが……。
そもそも、ブードゥー、っていうと、私なんか、『プリンセスと魔法のキス』とか、『サンゲリア』くらいしか、知識がないからね。

でもやっぱり、詩、とか、芸術、とかは、オカルティズムにつながっている。そもそもの呪術、それこそが詩であるのだから、そこには、情念も怨念も含まれているのだろう。


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