春に目ざめる男性の秘密
微温い風に起こされて窓外を見ると、天が紫に染まっている。
腕時計を見ると18時を回って、そろそろ日も暮れるだろう。
合唱部の練習で遅くなるから、帰り道に寄って迎えに行ってあげてー。
そう妻に頼まれて、学校の最寄りのバス停で降りる予定だった。
会社帰りの紳士や淑女、学校帰りの学生や観光客でごった返していた車内もいつの間にか乗客は減り、ポツポツと座席が埋まるばかりだった。
開いた窓から涼しい風が流れ込んできて、私はじっとりとしたワイシャツの襟元にその初夏の息吹を入れてやった。
どこからか香水が匂うている。白檀の香り。いや、それは錯覚かもしれなかった。時折、幻聴のようなものが聞こえる。それは車中での囁きだろうか。異邦人の子らの会話が、なんともしれないエキゾチックな音楽だった。
私は鞄から本を取り出して、パラパラと捲った。私が好んで随筆を読むのは、それが中途からでも取り出すことのできるもの、所謂、つまみ食いができるもの、であるからかもしれなかった。
今読んでいる随筆に挟んでいたチラシが顔を出した。
それは、稲垣足穂の随筆で、チラシは1947年に公演された、フランク・ヴェーデキントの『春の目ざめ』のものである。
私は、世界文学ではド・クインシーの『オピアムイーター』とヴェーデキントの『春の目ざめ』を最も愛する。
そう、足穂は宣言している。
この『春の目ざめ』の舞台チラシこそは、足穂がいくつかの随筆で言及していた、新宿帝都座の5階の劇場で公演された、劇団東童による、まさに足穂が観ていたその舞台のチラシに相違ないだろう。
新宿帝都座は地上7階、地下2階の建物で、その5階はダンスホールで、然し1940年にダンス禁止令のために閉鎖されて、1946年にレビュー劇場として生まれ変わり、そして1947年、初めての演劇公演として『春の目ざめ』が上演された。
タルホが30歳頃まで池内ダンス教習所というダンスホールに間借りしていたのを考えると、この、帝都座の擁するダンスホールが転生したレビュー劇場で公演されたことに、また因縁めいたものを感じる。
『春の目ざめ』は、稲垣足穂にとり最も重要な作品である。
万度言及され続けてきたのは、登場人物の一人であるモーリッツのことだろう。主人公であるメルヒオールとは異なり、厳格な父を持ち、落第を恐れて勉強しながらも、日々擡げる性欲と未来に対して、恐れ慄いている、独逸の少年。
足穂は、関西学院高等部時代に書いた『六月の夢』において、主人公をまるでモーリッツさながらに描写し、夜中に勉強をしながらも、「星の世界に行きたいなぁ」、とそう独り言ちさせている。それはタルホ自身である。
ギムナジウム、ハンノキの木の生い茂る独逸の森の幻想ー。ゲーテの、シューベルトの書いたハンノキの王である魔王の詩。
タルホは、東童の薹が立った役者たちや、最期に登場する仮面の紳士の場面をカットしたこの舞台を散々のものだったと述懐しながらも、観劇中に懐かしいセリフの一つ一つが聞こえるたびに、咽び泣いたのだともいう。
そうして、稲垣足穂の随筆を読みながらー、私はタルホの語る美少年に対してのその目線にー、改めての感銘を受けて、その挨拶に敬礼をする。
美少年とは他者の中に見るナルシシズムー。自分が本来はそうであった、あの時、あのかつての、はしけき子らであることー。藝術とは幼心の完成であることー。
『春の目ざめ』は、タイトル通り、春という性や苦悩が目覚める、その少年少女たちの悲劇であり、野上臼川による翻訳では副題はそのままに少年悲劇であった。『春の目ざめ-少年悲劇-』と。
然し、けれども、足穂は、主人公メルヒオールの苦悩よりも、より恵まれない、父に愛されない、最後はピストル自殺を遂げるモーリッツを自分の模型として終生愛した。
首なしモーリッツ。モーリッツは死んで首なしになる。
そして、少女ヴェントラを無理矢理に辱めて死に至らしめたその苦痛を抱えるメルヒオールに対して、死者として墓場で現れて握手をしようと、死へと誘う。
その最期の舞台、墓場において現れるのが正体不明である仮面の紳士である。
足穂は、仮面の紳士とモーリッツ、この二人の関係性に対して、父子の持つ相克を照射し解説を試みた。無論、仮面の紳士はモーリッツの父親ではない。またメルヒオールは作中で、仮面の紳士に対して、「お父さんですか?」と尋ねているが、直ぐ様それは紳士に否定される。
然し、仮面の紳士とは、お父さんなのである。
それは、象徴としてのお父さんだ。お父さんとは、仮面の紳士であり、病院のお医者様であり、学校で優しくも厳しい先生であり、それらは皆、一様に少年に安心を与える。そして、普段はどこにいるのかわからない、何をしているのかわからない神である。
この神としての父親、家父長制的な主君としての父親像を宮崎駿は、どこで何をしているのかわからない多面性の仮面を持つ人物として、『ハウルの動く城』のハウルにおいて巧みに描いて見せる。
モーリッツで思い出したのは、私が野上臼川訳の『春の目ざめ』を読み返していた折のこと、とある一文が目に入り、私はあっと、まるですべてが繋がったかのように、タルホを思い出した。
これは、稲垣足穂の『天体嗜好症』に登場するタバコのStarry Nightを噛んだ時の文章、
に、明らかに影響を与えている。この一文に触れたとき、私は思わず嬉しくなった。『春の目ざめ』はタルホの物語にまで根ざしていた。私は、世界文学では『天体嗜好症』とヘッセの『少年の日の思い出』を最も愛するー。
天体嗜好とは、タルホの言葉通り、裏返すと少年嗜好になるのだから、この天体嗜好を書いた物語に『春の目ざめ』のこの表現が導入されるのは必然と言えよう。
『天体嗜好症』とは、少年嗜好の藝術化だからである。
無論、タルホは模倣と編集を繰り返したのだから、彼のその表現は全てどこかの借り物かもしれない。けれども、コピー、模倣、それは藝術の子供たちであって、在りし日の藝術たちの生まれ変わりである。
また、新訳におけるこのクリームの該当部分は、ホイップクリームと訳されている。ホイップクリームとは精液の隠語であり、それを識ると野上訳とはまるで実感が異なってくるが、仮にこの隠語のままだとしても、タルホにおいてStarry Nightとは、本来的にはその少年に芽生える苦悩そのものの抽象化に他ならなかったのかもしれない。
タルホは『WC』においてスカトロジー作品を書いたが、そこではそれら汚物を、シュークリームと表現していた。
モーリッツは、作中で首無しの女王のお話をメルヒオールに聞かせる。
モーリッツの語る物語は、首無しの女王が首を二つ持つ王と出会い、その首を一つ分けてもらい、幸せに暮す、というものだ。モーリッツは彼の言うところの、このくだらない御伽噺に囚われて、首無しの女王を恐れて、最期にはピストルで自らも首無しになってしまう。
タルホは、自らの随筆において、この首無しについての理論を巧く巡らして見せる。
タルホが言うには、男性というものは首を二つ持っているものであり、その首を美しい女性の首へと見立てたい、という希求を常に抱いている。やっとのことで出会えたその女性に首を渡そうとしたとき、いつの間にか自身が首なしであることに気づき愕然とする。そして、今度は首が二つあるであろう、自らの息子に目をつけて、その首を取り戻そうとするー。
これは一見道理がおかしい。理論が噛み合わない。計算式が成り立たない。
けれども、本能的には正しいことに気づいている。男性が、お父さんが欲しいのものは息子なのだ。それは、お父さんの少年嗜好equal天体嗜好は息子に注がれているからだ。その事実をタルホは抽象化して見せたのだ。
男性には首が二つある。これは少年と少女性、所謂ヘルマフロディトスである。両性具有、少年時代には、男の子は誰もが少女を内包していた。それがいつしか首無しになる。
仮面の紳士の仮面とは、首無しを隠すものではないか?
首無しか。私はもう首無しなのだろうか。私は本を閉じて窓外を見つめた。
首無しの自分。まだ首のある息子。
美少年とは自らの理想である。本来はそうありたかった、その理想である。美少年とは自分のことなのだ。首無しには、美しい少年ならば十分だが、それが息子ならばこの上ない。
バス停を降りると、すぐ目の先に横断歩道があり、それを渡ると学校がある。いよいよ夜の帳が降りようとしているのを見て、夜にならざるたそがれの、と、村山槐多が浮かんだ。
歩道を渡って顔を上げると、校舎の2階がハタハタと緩やかに瞬いている。エドワード・ヤンが映画の中で作り上げた魔法のような照明が当てられた窓辺を思い起こさせる酪乳色がそこにはあって、彼の白い項がくるりと翻ると、まだ首のある息子が私を見つめて、手を振った。賛美歌が耳元で谺する。
はて、これを私はどこかで感じたことがある。これと似たようなことが繰り返されているような気がする。
男性の秘密を解くと、水仙の花が顕れる。
それは自惚れなりけり。水仙は、水面に映る自分を見つめている。
水仙とは別名雪中花、春を告げる花、春の目ざめの花である。