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ベルベットの恋⑦


 クリスマスのイルミネーションで、町が赤に緑に金色にと染められているのを、ホテルのガラス越しに二郎は見つめていた。ここで数ヶ月前に、恵と美佐子の写真展に行く待ち合わせをしたのだった。しかし、恵と一晩を共にして、彼女を汚したことで、二郎はその代償を払う必要があるのだった。
 恵は、あの晩に辿々しい手付きで、二郎の言われるままに動いたのだが、頬は紅を潮して、美しい輝きだった。少女の花びらを散らすのに、安いホテルでは申し訳がないから、高級旅館に宿を取ったのだった。二郎は目を閉じるたびに、恵の乳房と、美しい歯波、やわらかな足を思い出して、その思い出に耽るのだが、そのたびに、幸子の顔がちらついて、自身の恐ろしい行いに罪悪感が駆け上ってくる。美佐子の脅迫めいた手紙はあれから一通も届いていない。届いてはいないが、なにか危険な刃物をちらつかされているのに、恵と会うことをやめない自分が、二郎に不思議だった。あの手紙は美佐子の冗談で、本当に悲劇の引き金を引こうという思いが、美佐子にはないように二郎に思えたのである。しかし、それは二郎の都合の良い解釈で、やはり、二郎も恵とあの日会うまでは、絶縁を伝えるつもりだったのである。だが、一度知ってしまった恵の愛しさに、二郎はますます自分がはまり込んでいくのがわかった。二郎は心底麻痺をしていた。

 ホテルのロビーでは少女たちがハンドベルを鳴らしている。どこの高校生かわからないが、皆が美しい白い手袋をはめていて、その身も白に染められている。聖少女たちだった。まだ男を知らないあどけない顔の少女たち。しかし、あの中にも幾人か男を知る女もいるのだろう。恵と同様に恋心を知ってその火に飛び込んだものがいるのだろう。女の擬態はおそろしいものだと、そう二郎は一人感じていた。
「お待たせしました。」
恵は茶色のコートに、黒いニットを被っていた。十六の娘のかわいらしさで、どこか垢抜けたようにも見えた。梅雨に初めて見た時と、違う女に思えた。脣が赤いのは紅のせいだろうか。
「クリスマスにデートなんて、初めてですわ。」
「ほら、ハンドベルの演奏をしているよ。」
「きれいな音色……。」
恵の声まで音色のようで、二郎はかすかに酩酊したようになった。今自分のいる状況もまた、夢のようで、人によれば悪夢かもしれない。
「ああいう、部活のようなものに憧れていましたの。」
「今から始めたらいいじゃないか。」
「今更入っても、輪の中に入れませんわ。女子高生は意地悪なんですよ。」
「君も意地悪?」
「どうかしら。でも、みんなと変わらないと思います。」
「入るなら何の部活に入りたいんだ?」
「演劇部に憧れていました。でも、私は演技をする方ではなくて、それを幕下から見つめるほうが性に合ってることに気付きましたの。」
「君は可愛らしいから、演技でも充分に勝負できそうだけどね。」
二郎の言葉に、恵の頬がゆるんだ。美しいゆるみだった。線がゆるんでも、肌の美しいのが、やはり十六の娘だった。もうあと二ヶ月で、恵は十七になるという。
「今日は寄りたい場所があるって言ってたね。」
「そうなんです。買い物が終わったら、二郎さんと二人で見に行きたい場所ですわ。」
二郎は頷いて、珈琲を啜った。ハンドベルの演奏が終わり、周囲に拍手が鳴り響いた。耳朶を震わす拍手の音に、二郎はどこか、ここが外国のように思えた。赤い絨毯と、白い少女たちの色彩が、あの岡崎の小劇場を思わせた。あの場所に、久しく二郎は足を運んでいない。演劇の鑑賞も、大阪と東京、神戸が主で、京都は京都劇場にしか訪れていない。今思えば、あの舞台も夢で、ほんとうは美佐子自体もまぼろしの女だったのではないかと、そう思えてくる。それほど、美佐子は現実ばなれしたまぼろしの美しさだった。

 買い物を終えて、カフェで休憩すると、冬の空はもう薄暗くなりはじめていた。曇天で、雪でも落ちてきそうな空色だったが、しかし、天気予報では降らないと言っていた。
「そろそろ行きましょうか。もう始まってしまいますわ。」
「始まる?映画か何かかい?」
「いいえ。舞台ですわ。二郎さんに、見せたい舞台がありますの。」
そう聞いて、二郎は嫌な予感がした。舞台という言葉で、二郎はすぐに美佐子を思い出して、その美しい笑顔が脳裡に浮かんだ。はじめから周到に仕組まれている罠のように思えた。
 恵はタクシーを拾うと、岡崎公園までと行き先を告げて、そのまま二郎を見つめてほほえんだ。邪気のない笑顔で、頑是無い子どものような顔だ。その顔つきに、二郎は次第に疑心暗鬼が薄れていって、窓の景色に視線を移した。窓ガラスに、小さな雪の結晶が落ちてきて貼り付くと、すぐに水になった。結晶の形を見つめる間もなく水になってしまって、一瞬の美しさだった。
「降ってきたね。」
「本当。ホワイトクリスマスね。この雪の結晶も……。」
「雪の結晶がどうしたんだ?」
「いいえ。この雪の結晶は自分の美しさを知らないまま、消えていくのかと思って。二郎さんがおっしゃってたでしょう?自分の美しさを知らない花がきれいだって。この雪も同じように思えたんです。」
「僕の言ったのは名もない花のことさ。いつか枯れていってしまう花。」
「同じですわ。だって雪の結晶も、そのほとんどが誰にも本当の美しさを知られないまま死んでいくんですもの。」
溶けていく雪に死があるのだろうかと、二郎は思った。仮に死があったとして、雪には花以上に思いがなさそうで、本当に美だけの存在かもしれないと、二郎には思えた。しかし、そのようなくだらない夢想も、岡崎につくと途端に霧散してしまった。恵が会計を済まして、そのまま二人で雪がかすかにちらつく岡崎公園を歩いて行った。子供に払わえるのは悪いと思う暇もない。仄白い空を見上げると、そのまま恵の乳房を聯想した。なぜ乳首だけがあれほどに桜色なのか、どういう神の意志があったのか、二郎には及びもつかない神の業だった。
 遠くに鳥居が見える。赤い大きな朱の門は、キリストの祭りとは正反対の姿形だが、その色合いがどこかクリスマスにマッチして見えた。
 

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